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宝の山へ―奈良歴史教室

わたしは、近鉄奈良駅をでて、登大路を東大寺の方向に歩きだすと、きまって足取りが軽くなる。期待感がそうさせるのだ。ICU高校の歴史教室でも、奈良博の手前の、歩道が少し高くなったあたりまでくると、帰国生たちを集めて「これから宝の山にはいるんだからね」と、いわずにいられなかった。

若い同僚の高柳昌久さん(日本史)と、隔年実施の歴史教室をはじめたのが1990年のことである。飛鳥仏から鎌倉仏まで、仏像鑑賞の手ほどきを柱にした、2泊3日の旅である。

海外で「お寺と神社の違いは?」などと質問され、はかばかしい答えをだせない自分をみつけて、「もっと日本のことを知ろう」と決意する帰国生がたくさんいる。こちらの話がしみ込むように入っていくから、奈良にいくと、ついついしゃべりすぎてしまう。

初日は、東大寺で半日すごした。南大門、大仏殿、鐘楼、三月堂、二月堂、転害門、戒壇院とめぐり、若草山のふもとにある宿・むさし野まで歩く。20人にみたないメンバーだから、機動性にとんでいて、二月堂の茶店での休憩も可能だ。2日目が法隆寺、薬師寺、唐招提寺。3日目の朝に興福寺をみて、京都に移動する。

8月の奈良はなにしろ暑い。バスと電車を乗り継いで移動するのだが、どの寺も閑散としている。そのかわり、日よけの帽子と扇子が手放せない。「なんかの修行みたいだね」という感想もきこえてくる。

外光のなかから法隆寺金堂に入り、柵越しに内陣をのぞくと、目がなれるまで真っ暗である。懐中電灯で、内部を照らしながら、諸仏の様式、仏像のうえにある天蓋、壁面に描かれた宝相華や飛天、また浄土変相図焼失の経緯などを説明していると、生徒のまわりに、年配者の人垣ができた。いっしょに聴こうというのだ。それもあって「よし。リタイアしたら奈良に住み、神出鬼没の“勝手にガイド”をやろう」と、大真面目に考えた。

その後の10年あまり、歴史教室にかぎらず、ICUや日大の学生をガイドして、なんども奈良を訪ねるうち、自分にとっての奈良が、ずいぶん変わってしまったことに気づいた。もともと、ひそかな内省の場所だったはずの寺でらが、まるで教室のような場所になっていたのである。70年代、80年代に感じていたワクワク感が、すっかり影を潜めてしまった。わたしは奈良の仏像について、多くを語りすぎたようである。

そうした喪失感の一方で、別の感情もある。「あれがきっかけで、いまも奈良に通っています」と書いてくる教え子の年賀状をみると、次の世代にバトンタッチできたようで、嬉しくなるのだ。自分が根っからの教師だと感じる瞬間である。

 

ものの見方のトレーニング -仏像行脚

仏像行脚がものの見方のトレーニングになったというのは、ずいぶん大雑把ないい方だが、それはこんな事情である。

ひとりで奈良通いをはじめたのは、20代前半のこと。当時、和辻哲郎『大和古寺巡礼』、亀井勝一郎『大和古寺風物詩』、会津八一『自註鹿鳴集』、掘辰雄『大和路・信濃路』がわたしの旅のガイドで、京大式カードに抜書きした作品批評をいつもカバンにいれていた。

名文に導かれて一級品の良さを味わう旅である。学生時代にこれといった訓練を受けていないから、自分の直観をたよりに無手勝流の鑑賞をしていたわけだが、歩いているうちに、自分の好みだけはわかってきた。

こうした「感覚のトレーニング」の良さはもちろんある。ただ、気をつけないと、見るという行為が、作家の目をかりた疑似体験でおわる危険もある。美術展などで「あ、これテレビで紹介されてた」「こっちもそう」と確認しながら作品のまえを素通りする、あの姿と変わらないことになるのだ。

20代半ばで加わった「美術の会」のメンバーには、歴史学や美術史のトレーニングを受けた人たちが多い。その影響で、図像学はもちろんのこと法隆寺の再建・非再建論争、白鳳期をめぐる時代区分論争など、美術史の専門研究にふれるようになり、関心領域も建築、庭園、絵画などに広がっていった。

そうこうしているうちに、1980年から地方仏めぐりがはじまる。ICU高校に移った28歳のときだ。久野健『東北古代彫刻史の研究』『仏像風土記』『秘められた百寺百仏の旅』、丸山尚一『生きている仏像たち』『秘仏の旅(上)(下)』に作例がたくさん紹介されているから、地方仏を全国規模で俯瞰するのにも、訪問プランを組むのにも役立った。

面白さの一つは、様式的特徴の混在である。地中海世界に発したルネサンスが、長い時間をかけ、さまざまな文化的バリエーションをうみながら、北方に広がっていったが、日本の仏像様式の伝播にも同じような傾向がある。地方仏の場合、新しい様式がただちに古い様式にとってかわるのではなく、前の様式も取り込んで、いわば積み重なるように定着していく。このことが、過渡期的作例とみえるものが多く残された理由ではないか、と考えた。

現地に足をはこぶごとに、疑問もふくらんできた。仏像の造像精神がその土地の風土性とどこまで結びついているものなのか、これまで見てきた一級品に対する印象批評のようなものがどこの仏像でも成立しうるものなのか、またそもそも便宜的につかっている地方仏という概念そのものが成立しうるものなのかどうか、というような疑問である。

これらの疑問は、いま目のまえにある仏像の「なにに着目して、どうみるのか」ということに直結している。そこで、1983年に、自分がこれまで仏像とどうむきあってきたのか、その態度を整理してみることにした。浮かび上がってきたのは6つの態度だが、それをごく簡単に書いてみよう。

(1)礼拝する。救いをもたらすものへの信仰の表現としてだけでなく、一千年も連綿と守り続けてきた人々への敬意をこめて礼拝する。

(2)鑑賞する。破損も後補もふくめて、すべては歴史的時間の堆積である。だから、いままさに崩れ落ちんとする状態をも風情としてうけとめ、あるがままに鑑賞する。

(3)対話する。仏の力の偉大さを可視化するのが仏像であり、造像表現としての特徴は人間の姿を超出するデフォルメの仕方にある。それに成功した仏像は、ある種の聖性を感じさせるから、それにむきあう行為が内省をよびおこし、自己内対話がうまれる。

(4)復原する。いまある仏像が完成した当時のあり様を、想像力を駆使してこころのなかに描いてみる。コンピュータ・グラフィックスのおかげで、いまでは、入門書でもそうした写真が使われるようになっている。

(5)分析する。図像学の力をかりて、様式的な特徴や技法を分析したり、類例と比較したりして特徴をあきらかにする。エックス線による構造調査や年代測定法による素材分析の結果なども活用する。

(6)史料にする。造像の由来や寺院の来歴など、残された歴史資料を参照し、施主、造像の精神、信仰形態、安置された建物、周囲の環境などを、目の前の仏像を手がかりにしてできるだけ正確に再現する。

ひとつひとつの態度は、何も特別なものではない。ただ、この作業をしてみて、気づいたことがある。それは、いくつかの要素を意識的に組み合わせることで、わたしが仏像の見方を方法化しようとしてきた、ということだ。一つの視点から対象を深く掘り下げてみることと、ものごとを総合的にとらえることを同時におこなう、というスタイルである。

10年間の経緯でみると、(1)-(3)が中心となる時期から、(4)-(6)の比重が大きくなる時期へのゆるやかな移行がみられる。目に見えるものだけでなく、目に見えないものをみる、という態度がより強くなってきたのだ。その意味で、仏像をみることが、わたしの「分析力のトレーニング」だけでなく「想像力のトレーニング」にもなっている。

良かったのは、メンバー同士で、それぞれの見方をひんぱんに交流できたことである。実物を前にしながら、宿に引き上げてから、東京に戻ってスライドをみながら、という具合に繰り返し語り合ったことが「言語化のトレーニング」にもなっている。

それでなくても、美術史が素人のわたしは、どんどん想像力を働かせ、勝手な方向に想念を飛躍させる癖がある。歴史的事実にそくして考える訓練をうけた人たちと一緒の旅が、発想のバランスを保つ、という意味でも大事なことだった。

1980年を境として、仏像の見方がおおきくかわっていく。見るということに、より自覚的になったのだ。その結果、仏像の見方というだけでなく、わたしの「ものの見方」そのものが、急速に変容していくことになった。

宇内薬師堂-薬師如来

「川前の宿」の翌日のこと。以下に記す1981年11月23日の宇内薬師堂の様子は、フィールド・ノート「いま歩きあるき考えていること」(第2集)から再現したものである。

盆地をかこむ山々は、一夜のうちに白さをまし、朝の光をうけて輝いている。会津はすっかり初冬の景色である。

今回の最大の収穫は、会津坂下町浄泉寺(宇内薬師堂)だ。その無住の寺は、戸数わずか11戸の集落にある。この村の人たちは、心映えの美しい人たちに違いない。つつましい境内が、すみずみまで掃き清められている。

本堂のまえで農家の方がでむかえてくれた。ほとんどないことだが、中学生の息子さんも一緒にいる。本堂にあがり、正面の祭壇に一礼して、左わきの廊下を進むと、大きな金庫をおもわせる収蔵庫につきあたった。その鉄製の扉がゆっくり開く。背後からさしこむ光が、収蔵庫のなかを明るくし、目の前に薬師如来の姿をうかびあがらせたときは、おもわず声をあげた。

堂々たる丈六仏、圧倒的な量感である。分厚い体部をおおう通肩の衲衣が、かすかに朱色をおびてみえる。対照的に、衣からのぞく肉身部は、鍍金がかすれ黒漆の色がめだつ。とりわけ、張りのある若々しい顔貌が、黒くつやつやと輝いている。その輝きが、なぜか奈良円成寺の大日如来像を連想させる。

いつものように、正面に正座し、一礼してから、ゆっくり拝観する。一粒ずつ植えられた大きめの螺髪が、頭部に陰影を与えている。ひざなど下半身は後補のようで、表現が類型的でやや平板な印象だが、両肩のもりあがった力強いモデリング、ふくよかさと緊張感が同居する顔の輪郭線をみていると、藤原仏の品格だけでなく、貞観仏の力強さも残す像だと感じられる。

平安時代には、金銅仏や乾漆仏にかわって、たくさんの木彫仏がつくられた。木材は、手に入りやすく加工も容易だが、朽ち果てるのも早い。時の権力と運命をともにして亡失した作品も多い。だから、いま各地に残っているのは、人々の暮らしに根をおろし、信仰の対象として守られてきたものだけである。

しきりに感嘆するわたしたちの話を、父子がニコニコして聞いている。そのうち、寡黙な父親が「このあいだ、俳優の三国連太郎さんがきて、しばーらくここに座ってました」と教えてくれた。

集落の人たちが、この薬師如来像を誇りにすることいかばかりか。10世紀から千年のあいだ会津盆地に鎮座してきたこの像は、これからも大切に守られていくことだろう。

注) 30年たって、この集落はどう変わっているのだろうか。美術の会の仏像行脚は、「訪問地決定―下調べ・資料作り―往復はがきでの訪問依頼―現地訪問・スライド撮影―帰京後の振り返り・作品批評」というように、かなり時間のかかるプロジェクトである。このサイクルを10年間繰り返したことが、結果として、わたしの「ものの見方」のトレーニングにつながっている。

備前の花入-妻の教訓

結婚してこのかた、食卓でもっとも活躍している器は、宝相華唐草が陽刻された紺色の中皿である。大学2年生のころ、吉祥寺・チェリナードの真ん中にあった焼物屋でみつけた。店先にうず高くつまれていたものだから、たしか1枚200円だったとおもう。

古民具にかこまれて育ったせいだろうか。柳宗悦の民芸論に共鳴し、20代から工芸品をよくみてあるいた。焼物も茶陶というより、まず日用雑器ということになる。ただ、理屈からはいっているぶん、使い勝手は二の次で、銅鑼鉢、粉引、三島手など、器形や技法を優先してしまう。使われないまま押し入れ直行というケースもしばしばだ。

なかでも備前焼への関心がながくつづいている。ご縁があって岡山県の学校を毎年のように訪問するからだ。岡山駅東口に桃太郎大通りと並行してはしる地味な商店街がある。その商店街をではずれたところにあった「陶芸センター・あさくら」をよくのぞいた。若手から老大家のものまで、幅広く品ぞろえされているから、新傾向の作品があるとつい手がでてしまう。

先日かぞえてみたら、まったく使われない備前焼が花器、酒器を中心に十数点ある。ただ、毎年登場する器もひとつだけある。耳付の花入である。

結婚したばかりのころ、岡山大学で学会があった。ついでに伊部に足をのばし、作家のSさんに電話して窯場と展示場をみせてもらった。どちらかといえば地味な作家だが、ろくろがうまく外連味のない作品をつくる。なぜか大ぶりの花入に目がとまった。正面は牡丹餅を配してつくりこんだ意匠、裏は降灰をたっぷりあびた自然な表情だから、片身代わりでも使える。

大きな荷物をかかえて家にもどると妻の顔色がかわった。いくらかでも余裕をもって出張させたいと、月末の乏しい家計をきりつめて工面したいわば内助の功の結晶を、能天気な夫がことごとく消尽したのだ。だいいち、狭い新居のどこにも、こんな壺をかざる空間などないのである。居心地悪げにしばらく勉強机に鎮座したあと、何年も押し入れの奥にしまいこまれた。

この事件から妻は「夫に余分な金をもたせてはいけない」という教訓を引き出したようだ。いまの家に引っ越してから、ようやく花入の出番がきた。松、菊、そして赤い実をつけた千両を投げ込んだ壺が、正月の床の間飾りにつかわれるようになったのだ。

ただ、年頭にあたって、妻が自分の教訓を確認するためにくだんの壺をつかっているのではないか、と秘かに疑っている。

薬師寺の薬師三尊

これも高校2年生のときの話。週末、秋田市内の下宿から自宅にもどる奥羽線の列車で、数学のT先生と一緒になった。真ん中わけの髪に黒縁メガネ、やせ形の礼儀正しい先生で、言わず語らず数学好きの雰囲気がつたわってくる。

T先生の隣に、小学生くらいのお嬢ちゃんがちょこんと腰掛けていた。親戚の家に遊びにいく娘さんを秋田駅のホームまで見送りに来たものの、いざとなったらやはり心配になり、途中の駅まで一緒に乗ることにしたのだという。授業以外ではじめて会話をかわしたにもかかわらず、なんだか波長があう。そこで、T先生が仏像彫刻に造詣の深いことを知った。

週明け最初の授業がそろそろ終わろうかというころを見はからい、すっと手を挙げて「先生、ぜひ仏像の話をお願いできないでしょうか」と発言した。あわよくば脱線授業を、といういたずら心が働いていたことも否定できない。それを察知した同級生たちも「それはいい!」としきりに私を援護する。「そうですか、あなたがたがそんなにいうなら」というやり取りで授業が終わった。

現在の秋田駅

次の時間、事態は予想外の展開になった。T先生が小さな文字でびっしりと仏像の情報を手書きしたプリントを用意して教室に現れたのだ。しかも、それからの1時間、各時代の様式的特徴と代表的作例について滔滔と語り続け、われわれ生徒を動転させたのである。脱線どころか、数学の時間がそっくり美術史の時間に変わっただけだった。

その年の修学旅行の行き先は関西方面。羽越本線から北陸本線経由で大阪、さらにフェリーを乗り継いで高松、もどって奈良と京都をめぐる大旅行である。カルメンマキの「時には母のない子のように」が旅のテーマソングのようにあちこちで流れていた。旅行でT先生の講義が役立ったことはいうまでもない。

この時に奈良の薬師寺で薬師三尊をみたのが大きな転機になった。いま薬師三尊が安置されている金堂は、あの当時の古さびた建物とはすっかり印象が変わり美々しい建物である。なにしろ40年以上前の話だ。高い敷居をまたいで薄暗い堂内にはいっていくと、ほとんど人気のない空間にろうそくの炎がゆらめき、黒光りする丈六仏がボーっと浮かび上がっている。それをみた瞬間、息をのんだ。

全身の肌を内部から押し上げるように漲るエネルギー、薄暗い空間の背後に広がる底知れない時間の堆積、そうした印象が混然一体となって、かつて経験したことのない心理状態を味わったのである。その後、奈良美術にひかれて足繁く通うことになる原点がこのときの経験だった。

あるきっかけで、奈良美術行脚にでるとわれ知らずテンションがあがるらしいことに気づいた。こんなきっかけだ。大学で東洋美術史を専攻していた妻は、わたし以上の奈良美術ファンである。「美術の会」の奈良研修旅行をずっと楽しみにしていたのだが、どういうわけか旅行の直前になって熱をだした。やむなくひとりで参加といえば聞こえがいいが、病人を残してでかけることになった。

近鉄奈良駅をでて登大路を奈良公園の方向に歩いていたら、ちょうど坂をおりてくる会員のM氏にばったりあった。次の研究会でM氏が、「ルンルン気分で坂をのぼってくる人がいると思ったら渡部さんだった。遠くからでもすぐわかりましたよ」とそのときの印象を語った。

まったく悪気のない人だから確かにそう見えたのだろう。ただ、その場にいた妻の機嫌がみるみる悪くなるのがわかった。