講演やら教員研修やらで岡山県の高校にかようようになって、かれこれ15年が経過した。前半の訪問先は玉野高校、後半は倉敷青陵高校に集中している。
今回は、高校野球の強豪で星野仙一監督の母校でもある倉敷商業で3年生の「ビジネス情報」の授業に参加した。生徒が地元企業の関係者に「なりきって」、マスカットの購入やスーパーの利用を勧めるロールプレイの授業である。
4人の発表者が教室の四隅で、顧客にむかって一斉にプレゼンするのだが、はじめてのプログラムとは思えない落ち着いた雰囲気で発表している。ベテラン先生のTT、しかも就活経験をもつ生徒の多いクラスという条件が重なっているせいだろう。
研究協議のあと、獲得研の槇野滋子先生(副校長)の運転で吉備路を案内してもらった。鳴釜の神事で知られる吉備津神社、水攻めで有名な備中高松城跡、吉備路を象徴する景観をもつ備中国分寺跡、7世紀後半の山城とされる鬼ノ城など、はじめて訪問するところばかりだ。刈り入れをおえた田圃のむこうで、柿の実が赤く色づき、“これぞ吉備路の秋”という光景が楽しめる。
夕方、岡山市内に久しぶりのメンバーが集まり、夕食会があった。着任した時期はそれぞれだが、全員が玉野高校に勤務したことがある先生たちだ。
1999年、玉野高校に岡山県下ではじめてとなる国際科がつくられた。立ち上げをしたのは三善真先生(現・西大寺高校校長)たちで、40代前半の気力も体力も充実した教師たちである。入学手続きの書類と一緒に『国際感覚ってなんだろう』を手渡し、入学後にわたしが講演にでかけるというプログラムを考えた。
一事が万事で、自由な発想の生き生きした学科が誕生した。職員室で国際科の哲学をえんえんと論じ合い、午後9時あたりから“さあ、授業の準備をしようか”とやっていたらしい。そんなエピソードを聞いていると、梁山泊の趣さえある。
残念ながら、玉野高校国際科は10年で幕を閉じた。ただ、三善先生、福本まゆみ先生(現・玉野高校校長)、橋本文彦先生(現・笠岡工業高校教頭)たちが開拓した実践は、岡山県の教育史にエポックを画すものである。玉野高校の国際科とはなんだったのか、いつかぜひ考察をまとめてもらえたら、と願っている。
玉野高校国際科がどんな人材を生み出したのか、判断をくだすにはもう少し時間が必要だろう。ただ、一つだけはっきりしているのは、玉野高校に集った教師たちが、県内のあちらこちらの学校に転勤し、ひときわ大きく羽ばたいている、ということである。