帰国生と学ぶ」カテゴリーアーカイブ

神戸での再会

眼下に神戸港を見下ろす神戸大学附属中等教育学校には、学会の研究会や教員研修会で何度かお邪魔している。

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今回は、研究会が終わった午後5時に、旧知の斎藤容子さん(ICU高校8期生 旧姓:福田さん)が迎えにきてくれた。容子さんのお嬢さん二人がこの学校の在校生で、しかもちょうどこの日に、長女・寛子さんの大学推薦が決まったというから、これは奇縁というほかない。(左が斎藤さん、中央が吉村さん)

斎藤さんは、私の人生の転機になった『海外帰国生―日本の教育への提案』(太郎次郎社 1990)に、ブローニュ市郊外での教育体験を「フランス語の教育が学校教育の基礎」というタイトルで寄稿してくれた人である。

学校から歩いて急坂をくだり、御影駅からほど近いモダンなお宅で昔話に花を咲かせているところに、関西学院大学での授業を終えた吉村祥子さん(ICU高校7期生)が合流、さらに話題が沸騰した。吉村さんが高校時代にプレゼントしてくれた小石原焼の湯飲みは、いまもわが家の食卓で活躍している。

(下の写真は、学校から斎藤邸に向かう途中の夜景)

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なかでも印象的だったのは、容子さんが、一緒にいった奈良・京都の旅をじつに詳細に記憶してくれていたことだ。ICU高校を卒業する容子さんと冨田麻理さん(西南学院大学)の二人を、私たち夫婦で、ガイドして回った旅のことである。

もう30年も前のことだから、それだけでも驚きなのに、いまは容子さん自身が、フランス人家族旅行者のために、奈良・京都の観光ガイドをしているという。あのときの旅が、こうした形でつながっている、そのことにも感銘を受けた。

近くのレストランで美味しい夕食を頂戴して戻ると、ご亭主の斎藤正寿さん(兵庫大学)も帰宅しておられて、さらに話題が、教育やら建築やらに展開していくからとどまることを知らない。ご夫婦の温かいもてなしのなせる業だろう。気がつけば時刻も12時になっている。

容子さんに会ってから、かれこれ7時間もおしゃべりを続けたことになる。慌ててつぎの再会を約し、吉村さんは西宮方面、私は三ノ宮方面への阪急電車に乗ったのだった。

ICU高校7期生の同級会

連休が明けると、たいがい花粉症が終わるはずなのだが、ことしに限っては、症状がひどくなっている。他に思い当たることがないから、どうも連休中の庭仕事が影響している気がする。

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昨日、銀座のお店で、ICU高校7期生・1年1組の同級会があった。卒業後30年の節目だという。このクラスは、2年間担任した4期生を送り出したあと、そのときの勢いのまま1年生におりて担任したクラスである。2年生ですぐクラス替えがあり、わたしもそのときに担任をはずれたから、1年間だけ担任した学年ということになる。

にもかかわらず、とくべつに新鮮で印象深いクラスになった。いろんなエピソードがあるが、とりわけ結婚の年だったことが大きい。ICU教会の祭壇を背にして、クラスのみんなと結婚式の記念写真におさまったり、卒業のときには、所沢の新居まで大挙してメンバーが遊びにきてくれたりしている。

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このなかの何人かを除くと、ホントに30年ぶりの再会だった。卒業時の印象よりも、なぜだか入学当時の面影がそのまま甦ってくるところが面白い。全員とじっくり話せたわけではないが、これまでに大病をしたことがあるという話題が存外でなかったところをみると健康に恵まれた人が多いということだろうか。有難いことである。

幹事役の中島くんと阿部くんが大手町の路上でバッタリ再会したのが、今回の集まりのきっかけだと聞いた。これからも人生の偶然を楽しみつつ、なによりもまずは健康に暮らしてもらえたらなあ、と願っている。

コンクールの審査で神谷町へ

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「海外子女文芸作品コンクール」の最終審査会で、ことしも地下鉄日比谷線の神谷町駅までいった。神谷町駅から海外子女教育振興財団のオフィスがある愛宕東洋ビルまでの道を、会議の進行のことなど考えながら、10分ほどかけてゆっくり歩く。

小中学生が書いた作文の審査に加わるようになって、かれこれ15年になる。選ぶというのはいつだって悩ましい仕事である。それでも「さて、今年はどんな新しい作文にであえるのだろう」という期待感の方が勝っている。

ことしは35回目のコンクールで、節目の年にあたる。それで気がついたのだが、わたしがICU高校に勤めたのもちょうど35年前、それからずっと海外生・帰国生の海外体験にむきあってきたことになる。偶然の一致とはいえ、やはり何がしか感懐はある。

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神谷町駅の3番出口をあがると、銀杏並木がつづく桜田通り(国道1号線)の東側の歩道にでる。目的地は、愛宕山の外周を、時計まわりにぐるっと回りこんだ位置にある。そこでまず進路を右にとり、霞が関方向にまっすぐ5、6分歩く。オフィス街だが、人通りもそんなに多くないから、落ち着いた気持ちのいい道になっている。このあたりは、車のスピードも比較的ゆっくりである。

途中に、巴町砂場、文具の石井商店、虎ノ門岡埜栄泉本店などの店がある。まだ紅葉には早いが、歩道のところどころにギンナンが落ちていて、進行方向の右手のビルの隙間から愛宕山の緑も見え隠れする。

虎ノ門3丁目の交差点が近づくと、甲冑をつけた武将の絵が大きく壁に描かれた刀剣屋がみえてくる。それを目印に右折する。あとは狭い歩道を直進するだけだ。杉田玄白の墓のある通り、しもた屋が並ぶ細い路地などを右手にみて、愛宕下通りにある愛宕1丁目交差点までくる。交差点の角が目指すビルである。

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この10年ほどで沿道の風景が大きく変わった。愛宕山の向こうに愛宕グリーンヒルズの大きなマンションができ、本郷通り西側の斜面では虎ノ門パストラルが取り壊された。ことしの変化はひときわ大きい。虎ノ門3丁目の信号を右折した途端、目の前に虎ノ門ヒルズの巨大な建物があらわれた。何もなかったところに、忽然と大きな町のようなものがあらわれた印象である。

つい最近、マッカーサー道路の完工のことなど、ニュースで見ていたはずだが、うかつなことに、記憶のなかにある工事現場の囲いとそのニュースとが結びついていなかったのだ。去年は、まだ低層階を建設中だったから、まさかこんな高さのビルになるとは、意表を突かれた感じである。

風景もそうだが、海外生のおかれた環境も様変わりしている。海外滞在の長期化が目立つのだ。4798点の応募作品から最終審査に残ったのが66点、このうち7年以上海外に滞在している小中学生の作品が27点(41パーセント)ある。また、いわゆる国際結婚で生まれた子どもたちの作品が11点(16パーセント)ある。日本でほとんど暮らした経験がない子どもも多く、そのぶんだけ意識的に日本語や日本文化と向き合っている人たちだといえる。この傾向がしばらく続いている。

そんなこんなで、街の変化と海外生の変化、両方の変化を実感する一日だった。

47歳の教え子たち

下高井戸の「なんくるないさ」で、ICU高校の4期生(1983年度卒業)と飲んだ。佐藤琢三くん(学習院女子大学教授)と松尾洋一郎くん(スポーツ・インストラクター)のふたりは、私が3年4組を担任したときの生徒である。ほぼ30年ぶり。もう47歳になるという。

ことしサバティカルをとった日本語学の荻野教授の代講で、佐藤くんが文理学部に非常勤講師できてくれることになり、では一杯となった。彼はいまやどっちが年上かと見紛うほど、落ち着いたルックスになっている。サッカー部にいた松尾くんは、相変わらずスリムである。

二人は当時のことを実によく記憶している。彼らの話を聞いているうち、長いあいだ記憶の底に沈んでいた私自身の気分が、ハッキリと甦ってきた。当時の私は32歳。政経レポートの実践がようやく軌道にのった頃である。

その一方で、研究生活と教育実践のあいだで意識が引き裂かれ、矛盾がピークに近づきつつあった時期でもある。まだ草創期のカオスが残る学年の学年主任でもあったから、とにかく気忙しく、とても落ち着いて研究などできる状況ではなかった。

佐藤くんによると、朝のSHRで、研究仲間が結婚したという話をしたらしい。「ああ研究しているんだ」と思って、その言葉が心にひっかかっていたという。HRでは、諸連絡のあいまにちょっとした週末のエピソードなど話すようにしていたから、そのことだろう。「研究」という言葉に反応したところが不思議で面白い。

話題が「政経の授業といえば」になったら、佐藤くんがまずルソーの名前をあげ、松尾くんが「エミールでしょ」といった。ほう、そうか、という感じ。ホッブズ、ロック、ルソーなど啓蒙期の政治哲学は、民主主義思想の定番だが、ヨーロッパで撮りためたルソー行脚のスライドをみせたり、年表を用意して彼の生涯を語ったりと、一際ちからをいれてやっていたから、この反応は嬉しかった。

いま文理学部には、佐藤くんをふくめて3人のICU高校の教え子が非常勤講師できてくれている。今回は佐藤くんたちと話したが、これを機会にほかのメンバーともゆっくり話してみよう、と思っている。

「エデュケーション・ナウ」の再会

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昨日、2月17日の記事「エデュケーション・ナウの偶然」に書いた芳岡(水谷)倫子さんと富田麻理さんが、坂本雄飛くん(読売新聞社)と一緒に訪ねてきてくれた。こうして4人が揃うのは25年ぶりらしい。ICU高校3階の社会科研究室で、窓際のソファーに陣取り、教育を熱く論じあったメンバーである。

94歳の武田清子先生が、60歳を超えたわたしを今でも「淳くん」と呼ぶ。先生のなかには、きっと22歳のわたしがいるにちがいない。

そう思っていたら、わたしにも同じことが起こった。あった瞬間から「雄飛くんはどうしていたの?」などと呼びかけているところをみると、25年のときが溶解して、18歳の彼らと35歳のわたしにもどっているらしい。

ただ、時間の溶解は不思議なことではない。1987年の文化祭で政経演習の3年生たちと取り組んだ「緑町中学体罰模擬裁判」は、わたしの演劇的プレゼンテーションのいわば原点で、今日まで、何度も繰り返し思い起こしてきたものだからだ。あの年から今日まで、わたしの時間はまっすぐにつながっている。

「あなたたちが僕の人生を変えたんだからね」といったら、その途端「それはお互い様ですよ」と返ってきた。芳岡さんには、J.ニーランズさんとのシンポジウムの通訳など、いままでずっと助けてもらっている。富田さんと坂本くんは、後年、お互いの勤務先の福岡で再会し結婚、2児をもうけた。

今日、送ってくれた写真をみたら、3人は立派に落ち着いたオトナで、わたしの風貌は確実に年数分の変化をみせている。しかし、これからもずっと雄飛くんだろうなあ、と感じている。

天城勲氏と国際理解教育

1993年の「日本国際理解教育学会・第3回研究発表大会」でディベート指導について報告したとき、国連大学の会議室の後ろに、腕組みしてじっと耳を傾ける小柄な男性がいるのに気がついた。それが天城勲氏(故人)だった。

77歳の学会会長は、国際派として知られる人で、戦後を代表する元文部事務次官である。天城さんが教育政策の形成にどうかかわったかについての検証は、政策研究大学院大学「天城勲 オーラルヒストリー」(上下巻、A4判534ページ、2002年)に詳しいので、ここでは触れない。

翌々年、第1回の公選理事に選ばれてから言葉をかわすことが多くなった。スーツ姿の姿勢がよく、ひとり徒歩で会場にあらわれる。座敷にあがるときは丁寧に靴ひもをほどく。短く鋭いコメントを連発する様子は、徹底したリアリストの風貌である。

会議が長引きふっと居眠り状態に入るときがあっても、目覚めのコメントが急所をついていて、なぜだか「スターウォーズ」の賢人・ヨーダの姿がうかんでくる。

最初は遠い存在だったが、だれとでも分け隔てなく接していたから、若い世代へのメッセージを聞きに文部省の顧問室をたずねた。96年の夏のことで、多田孝志さん、岡田真樹子さんも一緒である。気楽なおしゃべりのつもりだったが、7時間のロングインタビューになった。

話のスケールの大きさにまず仰天した。大きな構図のなかで具体的なエピソードが泉のように湧いてくるから、聴いているこちらの視野が開ける感じがある。歴史を好み、歴史の教科書を机上においているとも聞いた。

リアリストと理想主義者、そのバランスも面白く感じた。天城さんの言葉で少しだけ再現してみよう。

地球上の60億人がひとつになるのは容易でない。仮のものでも仕切りが必要で、それが「国」である。国民国家というものはもともと理念型であって、そのフィクション性を自覚したうえで向き合う必要がある。

国の教育は「国民教育」のかたちをとるものだが、現実世界はナショナルとインターナショナルがダイナミックにせめぎ合う世界である。その意味で、国際理解教育は教育の本質にかかわっている。たしかに国際社会のアクターの多様化が進んでいる。ただ、その主役は依然として主権国家=国民国家なのだから、「国」の研究が軽視されてはいけない。

また、現実世界のリアルな認識は必要だが、かといって理想論の軽視は問題である。自然観の問題も含めて、<共生>の思想を再構成し発信していくことがこれからの課題だろう。

ざっとこんな具合である。「国」の問題は、天城さんの生涯のテーマだった。20代の内務官僚として朝鮮半島に赴任し、敗戦と同時に邦人が砂のようにバラバラになっていく体験をしたという話を、2度聞いたことがある。このときの体験が、官僚・天城勲の原点ではないかと思っている。

2000年には、85歳の天城さんが自ら筆をとって、特定課題研究への提起「国際理解教育の基本概念としての「国」を問う」(学会紀要 第6号)を寄稿している。

私が研究委員長になった2001年からの6年間は、特定課題研究の重心を国際理解教育の理論構築にシフトし、「国」の問題を正面から取り上げることをしなかった。

ただ6年後に、ナショナル・アイデンティティ教育の相対化装置としての役割が国際理解教育の存在意義のひとつである、と定義した。角度は違うが、研究の着地点は天城さんとそんなに離れていない、と感じている。

私学の国際教育研修会(2)

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研修会から生まれた2冊目の本が、2007年刊行の『地球時代の表現者―狂言、朗読、演劇、詩』(小林和夫編 銀の鈴社)である。直近に行われた7本の講演のうちの4本が収録されている。

メンバーは、茂山千作、山田誠浩、平田オリザ、長田弘の各氏。文字通り各界を代表する講演者が、表現やコミュニケーションのあり方を、多様な視角から立体的に考える手がかりを提供してくれる。

わたしは序章「私立学校の先進性と国際教育」を書いた。ここでいう私学の先進性は、たんに公立学校に先駆けて国際教育のプログラムを導入するというような意味ではない。長いスパンで教育の行く末を考えたり、国際的動向を分析しながら学校教育のあり方を広い視野から相対化したりすることまでを含んでいる。

また、既存の環境に働きかけて、その方向性を変えるべく、永続的に努力を重ねることでもある。そう定義するのは、専門委員として研修会をリードした小林和夫氏と、平野吉三氏(啓明学園理事長)のリーダーシップにじかに触れたからである。

専門委員長になってからの小林さんは、中村学園百年の伝統に清新の気をおくる様々な事業に踏み出した。その一つが中村高校国際科の設置である。2年生の全員に一年間の海外留学を経験させるプログラムが特徴で、たっぷり異文化体験をつんで帰国したたくさんの生徒が、自らの体験を反芻し、次の目標を定めて大学に進学している。

平野さんは、類まれな行動力を持つ経営者である。自らが発表者の一人になって「旧東側諸国(スロバキアと中国)との姉妹校交流」という実践報告を行うかと思えば、飛行機の直行便が就航したばかりのモンゴルに渡り、現地校との交流の口火を切ったりもする。「難民の子どもたちを学校に受け入れることなしに、日本の教育の国際化はない」というのが長いあいだの信念で、その実現にむけた努力をもつづけている。

柔軟な発想をもつこうしたリーダーの存在が、闊達なディスカッションの基盤になる。わたしが長く委員を続けられた理由の一つは、専門委員会のそうしたリベラルな雰囲気に負うところが大きい。

研修会は、30年の歴史を刻んでその幕を閉じ、国際教育はいまや多様化の一途をたどっている。わたしはその現状を、あらゆる現代的課題をひきつけて大きく渦をまく「磁場」になぞらえた。残された2冊の講演集は、このような時代の証言としての意味をもっている。

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1989年に「全国私立中学高等学校国際教育研修会」(主催:私学研修福祉会、私学教育研究所)の指導講師になった。研修会は、年1回、東京、札幌、大阪、京都、広島などを会場に、2日間の会期で開かれる。

研修会の創設メンバーである藤沢皖さんが推薦してくれた仕事だ。それから19年間、専門委員・指導講師を続け、研修会そのものが幕引きした2008年にようやく役割を終えた。こんなに長く続けられたのは、運営スタッフの熱意に励まされたからである。

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プログラムの柱は、参加校による実践報告と外部講師の基調講演である。委員会の業績として、小林和夫先生(中村中学・高等学校理事長)編纂の講演集が2冊刊行されている。1冊は、2000年にでた『地球時代とこころの国際化―21世紀への提言』(グローバルメディア)で、イーデス・ハンソン、萱野茂、佐伯快勝、堀尾輝久氏など、多士済々の講演8本が収録されている。

わたしは、序章「未来と希望と―私学の国際教育とこころの国際化」を書いた。いま読み返してみると、90年代の国際教育が上げ潮の熱気をはらんでいたことがわかる。

90年代は、私立高校が国際教育を牽引していた時代である。海外研修、国際交流、帰国生の受入れ、国際ボランティア、国際科・国際コースの設置など、どの分野にも私学が率先して取り組んでいたが、国際教育研修会は、そうした最先端の情報が行き交うアゴラ(広場)の役割を果たしていた。

専門委員は、講演者の選定にいつもアンテナをはっている。『のびやかにかたる新島襄と明治の書生』など、新島襄の研究者として知られる伊藤彌彦先生(同志社大学法学部教授)には、こんな経緯で講演をたのんだ。

たまたま相国寺をめざして烏丸通りを北にあがっていたら、今出川の交差点で旧知の伊藤さんにバッタリあった。自転車で大学の正門をでてきた伊藤さんは、どうも昼ごはんに向かうところだったらしい。1998年の京都研修会の前年のことだ。

交差点で立ち話をするうち、若き日の新島をテーマにする講演とキャンパス・ツアーをセットで実施するアイディアが浮かんできた。同志社大学の今出川キャンパスは、重要文化財の建物がいくつも並んでいて、さながら学校建築の博物館の趣がある。最高のガイドがつく贅沢なプログラムとあって、参加者の先生たちから好評を博したことは言うまでもない。

ちなみに、渡部淳という私の名前は、実は渡部襄となるはずだった。新島襄にちなんで、祖父の純一郎が選んだ名前である。ただ、襄という文字を役場が受け付けてくれず、仕切り直した結果、淳になっている。

襄と淳ではずいぶん印象が違う。もし襄になっていたら、そのぶん人生もなにがしか変わっていたかもしれない、と思うことがある。

アクティビティへの注目

一仕事おえ、行きつけのパブで

一仕事おえてから、行きつけのパブで

今回のロンドンは晴れの日が続いている。キリリとした寒さで、ものを考えながら歩くのにちょうど良い。

アクティビティの教育的意義から目を離せなくなったのは、1995年からである。きっかけが二つある。

ひとつは、イギリス人とオーストラリア人の若い同僚がやってくれたICU高校でのドラマ・ワークショップだ。それぞれの国でドラマ教育を学んだ二人だが、使う技法はほとんど共通だったことから、のちに「学びの共通言語としてのアクティビティ」という発想が生まれることになる。

もう一つが、当時カナダにいたD.セルビー教授(ケント大学→トロント大学→プリマス大学)のグローバル・エデュケーション・ワークショップだ。こちらは筑波大学附属駒場高校のホールが会場で、参加者は教科研で活躍する生きのいいメンバーたちだった。

4時間のワークショップでつかわれるのは、ゴーイング・ドッティー、ウーリー・シンキングなどわずか4つアクティビティである。その分たっぷり話し合いに時間をとる。彼のもの静かな語り口とあいまって、感情的熱狂からはるかに遠い知的なファシリテーションである。

1980年代からアクティビティ・ブックがいくつか翻訳されていたが、グローバル・イシューの存在を可視化したり、参加者の学びを深めたりするツールとして、アクティビティが実際に機能する場面にふれたのが新鮮だった。

ワークショップの翌日、セルビー夫妻とわれわれ夫婦で高尾山にのぼった。自然が好きだという二人は、瞑想を好み、東洋的なものに関心が高く、そのうえ質問魔である。ついでのことに、神聖な場所にどうしてこんなにゴミが多いのか、と穏やかに問いただされた。

彼らのエピソードもたくさん聞いた。そのなかに、同僚のG.パイクと組んで1000種類近いアクティビティのストックをそろえたことや、夫人と出会ったその日から二人で丸2日間語り続け、とうとう結婚にまでいたった経緯が含まれている。

とにかくポテンシャルが高い。その本たるや『グローバル・ティーチャー グローバル・ラーナー』のようにスケールの大きいタイトルがついているというだけでなく、そもそも物理的ボリューム自体が大きいのである。それをたくさんかばんにつめて飛びまわっている。

その後も、セルビー招聘の立役者である河内徳子先生(大東文化大学教授 故人)を中心に共同研究をつづけ、1997年に『学習の転換』(共編著 1997年 国土社)を出版した。気鋭の研究者、実践家、NPO関係者17人が執筆する本だ。

その第1章「授業をどう変えるのか―学びの手ごたえ 学びの味わい」が、わたしが正面からアクティビティにとりくんだ最初の原稿である。ここでは、アクティビティを日本の教育界で使われてきた「活動」という言葉ではなく、あえてカタカナのまま表記し、より広い概念として定義することにした。それが今日までつながっている。

末尾で「やがては、日本で開発された優れたアクティビティが海を越えて、世界に紹介される時代がくるのではなかろうか」と予言したが、この間の蓄積の大きさを考えるにつけ、これもそんなに遠い将来のことではないだろう、と感じている。

共同研究のはじまり

うしろはラッセルズ・ホテル

うしろはラッセルズ・ホテル

いまロンドンでこの文章を書いている。はじめて出版した教育実践集が、NHKブックスの『帰国生のいる教室-授業が変わる・学校が変わる』(1991年 和田雅史さんと共編)である。これはICU高校の同僚たちと3年がかりでつくった本で、いわば自主的な職場研修の成果物といってよい。

企画書を自分で書いてNHK出版に提出するなど、はじめて尽くしの本だった。まだ、執筆者のだれも単著をもっていないころだし、ラフ原稿さえなかったのだから、架空のプランでよく企画を通してくれたと思う。

さいわい「天声人語」でとりあげられるなど、好評をもって迎えられた。帰国生問題への社会的関心が高まっていたという客観情勢のほかにも、いくつか幸運が重なっている。

一つは、学校の草創期からの経験を共有する多彩なメンバーが集まったことだ。その後、グループ9人のうち4人まで大学に転職しているところをみると、もともと研究志向の強い人たちである。それでも読み物を書くのはむずかしい。章立ては、政経、キリスト教概論、カウンセリング、英語、日本語、保健体育、物理の順である。

もう一つは、獲得型授業論を提起した『海外帰国生』(1990年)の翌年の出版だったことだ。おかげで実践と獲得型授業の理論を融合させて問題提起する本ができた。わたしは1章「生徒と教師の「政経レポート」作成奮戦記」と終章「国際化時代の帰国生教育」を書いている。自分自身の実践と共同研究のフレームの両方を寄稿するスタイルは、この本が最初である。

ロンドン大学の午後 日向ぼっこする学生たち

ロンドン大学の午後 日向ぼっこする学生たち

終章では、日本の授業のバランスを徐々に獲得型の方向に移しかえていくべきだということ、教育条件を欧米先進諸国のレベルにまで引き上げるべきであること、そして授業のなかだけでなく、学校の構造全体に生徒の自主性が生かされる環境を意識的に用意する必要があること(学校文化の見直し)、の三つを提案している。

執筆メンバーの顔合わせを、所沢に引っ越して間もないころのわが家でやった。真夏のこととて、大人数でも涼しく話せるからということだったのだが、よりにもよって当日にエアコンが故障し、汗みどろの会合になってしまった。

どんな本でも原稿作成に苦労はつきものだが、終盤にさしかかり、タイトル決めの段階までくると、それまでの苦労がすべて報われた気がする。ああでもない、こうでもないと色んなキーワードを組み合わせて楽しむのが至福の時間である。

『帰国生のいる教室』では、いまのサブ・タイトル「授業が変わる・学校が変わる」もメイン・タイトル候補のひとつだったが、「帰国生」というキーワードに「教室」ということばをつなげて、やっとおさまりのいいメイン・タイトルができた。アイディアをだしたのは、妻である。わたしの動きをそばで見ているうちに、より客観的に企画の趣旨をとらえるようになっていた、ということだろうか。