北前船のことが知りたくて、釧路から根室までレンタカーを走らせた。この日、道北、道央は雪。道東は雪こそ降っていないがこの寒さである。さすがにどこの資料館、博物館にも人影というものがない。

納沙布岬から北側の海岸線をみる
根室半島の突端に納沙布岬があり、岬から半島の北側の海岸線を、根室港方面にむかって15分ばかりいくとノッカマップ岬につく。
クマザサの生い茂る小道をぬけ、冬枯れた野原を歩いていくと、眼前に大きな海が広がっている。そこは国後島、歯舞群島を見晴るかす崖の上の台地で、その台地にある小さな土塁がノッカマフチャシである。右手に、小さなノッカマップの入り江が見下ろせる。
チャシというのは、「柵囲い」を意味するアイヌ語だそうで、砦、祭祀の場、見張り場、談判の場など、様々な用途が想定されている。根室市内で32か所のチャシがあり、その多くが16~18世紀につくられたものだという。

右手がモッカマップの入り江
数あるチャシのなかでも、とくにこのノッカマフチャシが知られているのは、「クナシリ・メナシの戦い」(1789年)の舞台だからである。もともとこの入り江は、場所請負人だった飛騨屋九兵衛の運上屋があったところで、その飛騨屋による過酷な労働、暴力的な支配に耐えかねて蜂起した人々が、和人71人を殺害したのがことの発端である。
アイヌの人々による最後の組織的戦いとされるこの大騒動は、やがて松前藩によって鎮圧され、クナシリ総首長ツキノエなど37人がこの台地で斬首された。
「コシャマインの戦い」(1456年)のコシャマイン父子、「シャクシャインの戦い」(1669年)のシャクシャインがそうだが、どうしてアイヌの人々がやすやすと和人のだまし討ちにあうのか不思議に思っていたら、以下のような記述にぶつかった。
「これまでも、松前藩はアイヌの人たちとの戦いにおいて形勢が不利とみると、だまし討ちによって戦いを終わらせたことが何度かありました。アイヌの人たちが容易にだまし討ちにあった背景には、アイヌの人たちの交易者としての側面があったことが指摘されています。
アイヌの人たちにとって、くらしを営むうえで欠くことができない交易はたんなる品物の交換ではなく、交易相手との無沙汰を丁寧に述べるなどの厳粛な儀礼を伴ったものです。したがって、和人側から言葉を尽くした和睦を持ちかけられると、それを一蹴せずにアイヌの人たち、とりわけその統率者は威儀を正して、その場に臨みます。戦い相手との再会儀礼などが滞りなくすみ、緊張がほぐれたところをだましうちにされました。」(『アイヌの人たちとともに―その歴史と文化―』公益財団法人アイヌ文化振興・研究機構)
これを読むと、アイヌの人たちの人間としての上等さを逆手にとってのだまし討ちだったことが分かる。コシャマイン親子をだまし討ちした武田信広が、のちに松前家の祖になる。
こうした出自をもつ松前藩は、いわば初代の性格をそのまま踏襲したようである。「クナシリ・メナシの戦い」から10年後、幕府が東蝦夷地を松前藩から取り上げて、直轄地にした1799年のときの様子を司馬遼太郎がこう書いている。
「以下は信じがたいことだが、松前藩は豊臣秀吉の時代から蝦夷地を統治していながら、一筋の道路も造ったことがないのである。(中略)漁業収入だけで藩を成立させている松前藩にとって必要なのは、内陸ではなく、河川と河口の海岸だけだった。・・・松前藩がほしいのは北海道(明治2年以後の呼称)のわくともいうべき海岸線だけだったのである。
―道をつけても蝦夷人がよろこぶだけだ。という頭がこの藩にあり、また、秀吉、家康の朱印状によって蝦夷人の保護者として性格づけられていながら、かれらを人以下と見ているために、かれらの便宜をはかるなど、藩の思想として片鱗も存在しなかった。」『菜の花の沖(四)』
今回は、釧路でレンタカーを借り、厚岸湾、霧多布湿原、風連湖、花咲港、納沙布岬と、275キロほどの距離を走った。道東の風景ということでいえば、エゾ松と白樺が混じる林がいつの間にかなだらかな草山になり、その景色がいつまでも続き、やがていくつもの牧場を通り過ぎた。それで、ああこれが根釧台地の風景なのか、と思い当たった。
そうこうするうちに、えんえんと続く草山の景色が、かつてドライブしたイギリスのダート・ムーアの景色と頭のなかで2重写しになり、その不思議な既視感が2日間ずっと消えなかった。