北前船」カテゴリーアーカイブ

新潟の町屋の庭―旧小澤家住宅

これも少し前のことになるが、新潟市内の庭園をみてまわった。

北前船の関係では、明治の初めから回船経営にのりだしたという旧小澤家住宅が印象に残った。

旧小澤家住宅は、新潟市内を代表する町屋建築である。主屋は1880年(明治13)の大火の直後の建設、この写真の新座敷と庭は1909年(明治42)ころのものだという。

500坪弱の敷地に延べ床面積260坪ほどの建物(母屋や土蔵など)がたっている。

とりわけ印象に残ったのは、サイズ感のほどの良さである。庭と建物のバランスも私の感覚にはピッタリきた。

いま手もとに資料がないので、定かではないが、クロマツの植栽を主にした平庭で、ざっと20本ばかりの松が植わっていたように思う。

庭の面積に比して松の本数が多い印象だが、小ぶりの良く手入れされた松が多いので、邪魔にはならない。

紀州石、御影石、佐渡赤玉石など、北前船で運ばれてきたという庭石があちこちに置かれているが、こちらの方もウルサイほどの数ではない。全体にほどが良いのである。

京都の町屋でいえば石泉院町(平安神宮の南)にある並河靖之七宝記念館の庭など、きわめて洗練されたサイズ感をもつ庭が思い浮かぶ。

ただ、この旧小澤家住宅の庭についていえば、洗練さのなかに新潟の地域性というものも感じられて、別種の趣のあるものだった。

高田屋嘉兵衛の故郷

北前船探訪、今回のテーマは高田屋嘉兵衛(1769~1827)である。司馬遼太郎が、高田屋嘉兵衛は、江戸時代を通じて「2番目が思いつかないくらいにえらい人」だと語っている。それもあって、北前船の歴史を象徴する人物と考えられている。

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今回は、あいにく雨が降ったりやんだりを繰り返す不安定な天気だったが、神戸三ノ宮でレンタカーを借り、嘉兵衛の生地である淡路島の五色町(都志)を目指すことにした。

雨にけぶる明石大橋を渡りきり、淡路島に入ってほどなく、北淡インターチェンジで高速道路を降りる。あとは右手に穏やかな瀬戸内海を眺めながら、海岸沿いの一本道を走る。

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雨が強くなったり弱くなったりしている間に、小さな港をいくつか越え、やがて目的地のウェルネスパーク五色についた。時間にして1時間余り、意想外の近さである。

北前船といえば、これまでこじんまりした資料館ばかり見てきたが、高田屋顕彰館のあるウェルネスパークは、公共の宿、オートキャンプ場、テニスコート、洋ランセンターなどがある体験型総合公園ということで、けた違いに明るく開けたロケーションである。

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資料館の展示も、高田屋の事跡に焦点化している点に特色がある。いま学芸員をしている斉藤智之さんは、もともと関西の大学でフランス語を学び、洋書の輸入販売の会社で仕事をしていた人である。阪神大震災をきっかけに地元にもどってきたのだという。そのせいだろう。文献学の知見を活かして、資料に忠実で客観的な展示にしようとしている姿勢がよく感じられる構成になっている。

その点でいえば、嘉兵衛の、ゴロヴニン事件をめぐるいわゆる民間外交官としての側面、リタイア後の地元での社会事業家としての側面、そして現在まで続くロシアと五色町との交流の詳細が分かったのはとりわけ収穫だった。

(下の写真、神戸海洋博物館のカフェテリアからみるメリケンパーク。)

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(海洋博の北前船関係の展示の中心もやはり高田屋嘉兵衛である。)

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高田屋嘉兵衛と弟・金兵衛の遺体が安置されたという墓所、引退した嘉兵衛の屋敷があった場所などを見て回っているうちに、あっという間に晩秋の日が傾いてきた。それで次の予定を断念し、雨脚の強くなった暗い道を、五色町から津名一宮インター経由で神戸に戻ることにした。

この日の走行距離は144㎞だった。

下津井港と北前船

 

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「岡山空港開港30周年記念 まち・ひと・しごと未来創造ビジネスプランコンテスト」(県内の商業高校生によるグループ・プレゼンテーション)の審査にきたついでに、下津井節で知られる下津井港を訪ねてみることにした。

それにしても生徒たちの発表は、夏の研修会からの短期間で、彼らが目覚ましい成長を遂げたことを実感させる素晴らしいものだった。

コンテストで選ばれた3校(岡山後楽館高校、倉敷商業、津山商業)の生徒たちが上京し、12月16日(土)に新橋駅からすぐのアンテナショップ「とっとり・おかやま新橋館」で取り組みの成果を披露することになっている。

下津井港までは鉄道の便がないので、JRの児島駅をでて鷲羽山を経由する巡回バスでいった。

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その昔、北前船が北海道から運んでくるニシン粕が下津井港で陸揚げされ、児島湾の干拓地で栽培される綿やイグサの肥料になった。それがめぐりめぐって倉敷の綿業(ジーンズなど)の今日の隆盛につながることになる。綿は塩分を含んだ土地でもよく育ったのだという。

すでに幕末の時点で、9200haも干拓されていたというから、肥料の需要量の方も相当なものだったろう。北前船の盛期は明治10年ころだが、今でも当時使われていた井戸やら蔵やらが通りのあちこちに残っている。そのせいで、下津井の町そのものがタイムカプセルの風情である。

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日露戦争のあと、船の動力化と化学肥料の普及が進んで、北前船の寄港がぱったり途絶え、港に軒を連ねていた問屋衆も転業を迫られることになった。

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いまは資料館「むかし下津井回船問屋」になっている高松屋のこの屋敷も、大正期には足袋製造、昭和に入って学生服の製造場になっていたのだという。

子どものころ地理で児島湾の干拓について習ったが、長じて、こんな形で過去の記憶とつながったことも不思議なら、そもそも20年近くも、岡山県の教育にかかわることになったこと自体が不思議である。

加えて、今回はもう一つ不思議なことがあった。雑談のなかで、JALの側からコンテストの審査に加わっていた内海茂さん(岡山空港所・空港所長)が、ICU高校の3期生で、ドイツからの帰国生と判明したことだ。

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写真でみるとどっちが年長者か分からないくらい恰幅のいい内海さんだが、3年生のときの政経レポートで、新聞記事を駆使して「パレスチナ問題」について論文を書いたときのことを懐かしく記憶してくれていて、私にはそれがまた嬉しいことだった。

札幌・小樽研修旅行

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大学院「教育内容論」ゼミの研修旅行は、北海道開拓史がテーマだった。このテーマは、2014年以来である。

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時あたかも「札幌国際芸術祭2017」の時期とあって、札幌駅の雰囲気もいつもと違っている。

今回も初日に、札幌農学校の演武場だったという時計台を訪ねたのを皮切りに、旧北海道庁の文書館で、屯田兵関係の資料を見せてもらった。

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2日目は小樽。北前船関係では、旧佐藤家の鰊御殿(積丹の泊村から移設)、旧青山家別邸(青山家の鰊御殿は札幌にある「開拓の村」に移築)をみた。


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さらに幌内炭鉱から小樽港に石炭を移送するのに活躍した鉄道遺産を訪問。(ここにある旧手宮駅の扇型車庫、転車台などは重文)

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船舶輸送の関係では、日露戦争後に樺太分割の会議の開かれた旧日本郵船株式会社小樽支店の建物も案内してもらった。(これも重文)

 


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3日目には、改装なった北海道大学総合博物館も訪ねたから、実に盛りだくさんのプログラムである。

今年は、色んな事情で2年生が参加できなかったため、1年生だけの旅になった。日本人は幹事の近藤くんのみ、あとは李くん、楊さん、欧さん、秦さんといずれも中国からの留学生という異色のチームだった。
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改めて写真を見返してみると、5人のポーズが日を追ってリラックスしていくのがわかる。お互いの関係がどんどん近くなったことを象徴しているようだ。

幣舞橋の夕陽

幣舞橋は、北海道の三名橋のひとつらしいが、1908年の1月に石川啄木がはじめて釧路にきた日に渡った橋である。「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」と詠っている。当時は、木造の橋だったが、いまは歩道の広いじつに立派な橋になっている。

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以前、函館と啄木について記事を書いたときに、北海道教育大学の宮原順寛先生から、啄木は釧路でも大事にされていますよ、というメールを頂戴した。今回いってみて、なるほどと思った。なんと市内に27基の啄木の歌碑があるのだという。

全部をみる時間はなかったが、例の「しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな」の歌碑だけはみた。それで滞在中なんどか幣舞橋をわたったが、眼下の釧路川の水面が高く、まんまんと水をたたえているため、じつにゆったりとした橋上風景になっている。

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幣舞橋は、夕陽の美しさでも知られているそうで、たまたま大きな太陽が、素晴らしい勢いで海に落ちていく瞬間にでくわして、あっけにとられた。とにかく美しい。

近頃、ゆっくり夕陽を眺めるなどなかったから、なんだか旅心まで誘われてしまった。

ノッカマップ岬のチャシ

北前船のことが知りたくて、釧路から根室までレンタカーを走らせた。この日、道北、道央は雪。道東は雪こそ降っていないがこの寒さである。さすがにどこの資料館、博物館にも人影というものがない。

納沙布岬から北側の海岸線をみる

納沙布岬から北側の海岸線をみる

根室半島の突端に納沙布岬があり、岬から半島の北側の海岸線を、根室港方面にむかって15分ばかりいくとノッカマップ岬につく。

クマザサの生い茂る小道をぬけ、冬枯れた野原を歩いていくと、眼前に大きな海が広がっている。そこは国後島、歯舞群島を見晴るかす崖の上の台地で、その台地にある小さな土塁がノッカマフチャシである。右手に、小さなノッカマップの入り江が見下ろせる。

チャシというのは、「柵囲い」を意味するアイヌ語だそうで、砦、祭祀の場、見張り場、談判の場など、様々な用途が想定されている。根室市内で32か所のチャシがあり、その多くが16~18世紀につくられたものだという。

右手がモッカマップの入り江

右手がモッカマップの入り江

数あるチャシのなかでも、とくにこのノッカマフチャシが知られているのは、「クナシリ・メナシの戦い」(1789年)の舞台だからである。もともとこの入り江は、場所請負人だった飛騨屋九兵衛の運上屋があったところで、その飛騨屋による過酷な労働、暴力的な支配に耐えかねて蜂起した人々が、和人71人を殺害したのがことの発端である。

アイヌの人々による最後の組織的戦いとされるこの大騒動は、やがて松前藩によって鎮圧され、クナシリ総首長ツキノエなど37人がこの台地で斬首された。

「コシャマインの戦い」(1456年)のコシャマイン父子、「シャクシャインの戦い」(1669年)のシャクシャインがそうだが、どうしてアイヌの人々がやすやすと和人のだまし討ちにあうのか不思議に思っていたら、以下のような記述にぶつかった。

「これまでも、松前藩はアイヌの人たちとの戦いにおいて形勢が不利とみると、だまし討ちによって戦いを終わらせたことが何度かありました。アイヌの人たちが容易にだまし討ちにあった背景には、アイヌの人たちの交易者としての側面があったことが指摘されています。

アイヌの人たちにとって、くらしを営むうえで欠くことができない交易はたんなる品物の交換ではなく、交易相手との無沙汰を丁寧に述べるなどの厳粛な儀礼を伴ったものです。したがって、和人側から言葉を尽くした和睦を持ちかけられると、それを一蹴せずにアイヌの人たち、とりわけその統率者は威儀を正して、その場に臨みます。戦い相手との再会儀礼などが滞りなくすみ、緊張がほぐれたところをだましうちにされました。」(『アイヌの人たちとともに―その歴史と文化―』公益財団法人アイヌ文化振興・研究機構)

これを読むと、アイヌの人たちの人間としての上等さを逆手にとってのだまし討ちだったことが分かる。コシャマイン親子をだまし討ちした武田信広が、のちに松前家の祖になる。

こうした出自をもつ松前藩は、いわば初代の性格をそのまま踏襲したようである。「クナシリ・メナシの戦い」から10年後、幕府が東蝦夷地を松前藩から取り上げて、直轄地にした1799年のときの様子を司馬遼太郎がこう書いている。

「以下は信じがたいことだが、松前藩は豊臣秀吉の時代から蝦夷地を統治していながら、一筋の道路も造ったことがないのである。(中略)漁業収入だけで藩を成立させている松前藩にとって必要なのは、内陸ではなく、河川と河口の海岸だけだった。・・・松前藩がほしいのは北海道(明治2年以後の呼称)のわくともいうべき海岸線だけだったのである。

―道をつけても蝦夷人がよろこぶだけだ。という頭がこの藩にあり、また、秀吉、家康の朱印状によって蝦夷人の保護者として性格づけられていながら、かれらを人以下と見ているために、かれらの便宜をはかるなど、藩の思想として片鱗も存在しなかった。」『菜の花の沖(四)』

今回は、釧路でレンタカーを借り、厚岸湾、霧多布湿原、風連湖、花咲港、納沙布岬と、275キロほどの距離を走った。道東の風景ということでいえば、エゾ松と白樺が混じる林がいつの間にかなだらかな草山になり、その景色がいつまでも続き、やがていくつもの牧場を通り過ぎた。それで、ああこれが根釧台地の風景なのか、と思い当たった。

そうこうするうちに、えんえんと続く草山の景色が、かつてドライブしたイギリスのダート・ムーアの景色と頭のなかで2重写しになり、その不思議な既視感が2日間ずっと消えなかった。

伏木港と北前船

高岡の国宝・瑞龍寺 北陸新幹線開業を前になんとなく活気がある

高岡の国宝・瑞龍寺 北陸新幹線開業を前になんとなく活気がある

富山県の伏木、高岡、南砺市あたりは、なじみ深い土地である。あかり座公演などで、なんどか訪ねているからだ。

1997年1月に伏木高校の生徒に講演をしたのが最初で、そのときは国際感覚について話して欲しいということだった。学校の控室に案内されたら堀田善衛(1918-98)の本がたくさん並んでいる。それで『方丈記私記』、『ゴヤ』の作家と伏木港の関係が私のなかで明確に結びついた。

堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』(1968)は自伝的長編である。おもに旧制金沢二中から慶應義塾大学の学生時代の生活が描かれている。彼の生家は屋号を鶴屋といい、米穀肥料問屋をかねた伏木港の大きな廻船問屋(回漕問屋)である。

高岡市伏木気象資料館でみた1857(安政4)年の記録に、伏木港の入船2003隻、出船1989隻、持船39隻とあり、北前船のころから港が大いに賑わっていたことがわかる。鶴屋は、盛時伏木に30軒もあったという同業者を代表する一軒で、銭屋五兵衛とも取引があったらしい。

鶴屋の船額

鶴屋の船額

ただ、廻船問屋の没落は避けられない時代の流れだった。堀田善衛は家族の一員として、その過程に立ち会うことになる。鶴屋の最後の持ち船は、幼い善衛が神戸で進水式に参列し、ウラジオストクまで父親にともなわれて航海した船である。それが家族の嘆きに見送られて港を去っていった。

この船の売却は、下関から小樽まであった廻船問屋の最後の一軒の歴史が幕をおろしたことを意味していて、自分の少年時代もその時点で終わったのだ、と堀田が書いている。

鶴屋の望楼つきの大きな屋敷も今はなく、伏木北前船資料館(旧秋元家住宅)の展示場に残る「船往来手形」や「船額」からわずかに往時をしのぶばかりである。

北前船資料館の望楼から伏木港方面をみる

北前船資料館の望楼から伏木港方面をみる

鶴屋そのものは歴史の舞台からひき退いた。しかし、200年の旧家が生み出した人物像は、堀田文学の世界で生き生きと躍動している。とりわけ印象深いのは、スッと背筋ののびた女性たちの姿である。

民権壮士の後援者となり、米騒動を引き起こす商人たちの強欲を批判する曾祖母、学校には一切ゆかず家の教育だけで高い見識をそなえていった“お婆さん”(母の姉)、帰省するたび善衛に伝来の骨董や万年青の鉢をもたせて学費をまかなった母、いずれも教養も批評性も美意識も兼ねそなえる度胸の据わった女性たちである。

堀田は『若き日の詩人たちの肖像』を「国家の暴横に対する怒りの文学」と呼んだ。東京の下宿で2.26事件の勃発を知るエピソードにはじまり、日本が戦争に向かって突き進んでいく重苦しい時代を背景とする作品とあって、登場人物たちが演じる悲喜劇に、生と死というものの輪郭が、ひときわくっきり描きだされている。

大伴家持の在任した国庁跡、一向一揆の拠点となった勝興寺など、伏木港周辺をあらためて歩いてみて、伏木がいかに歴史の厚みを感じさせる町であるかがよく分かった。

それと同時に、なるほど伏木は、国際感覚というテーマで講演を依頼してくる素地のある土地柄なのだ、と改めて感じたことだった。