出会いの風景・旅」カテゴリーアーカイブ

スターン先生とシーボルト

かつて鳴滝塾があった場所にできたシーボルト記念館(長崎市)で、いつかみたいと思っていた丸善版の「シーボルト旧蔵『日本植物図譜』コレクション」をようやく閲覧できた。

発端は、1995年の晩夏、ロンドンの植物園キュー・ガーデンでの出来事である。ここで、執筆者の一人であるウィリアム・スターン博士と出会ったのだ。

当時バード・ウォッチングに凝っていた私は、どこへ行くにも双眼鏡を携行するのが習慣だった。その日も、ロックガーデンのなかの通路で双眼鏡を覗いていたのだが、ふと気づくと、背後に初老の男性が立っている。

通ろうと思えば通れる広さはあるのだが、くだんの男性は、私の邪魔をしたくないと思ったらしい。長いコートに布の帽子、肩から斜めにカバンをかけた穏やかな印象の人である。

軽く会釈してすれ違おうとしたら、その紳士がむこうから話しかけてきた。レディング大学のスターン教授と名乗るその人物は、私に、日本からきたのか、この植物園には良くくるのかといった質問をしてから、ところであなたはシーボルトをご存知か、と聞く。

意外な話の展開に少し驚いたが、もちろん日本でも有名な歴史上の人物ですよと答えると、実は、自分も日本にいったことがあり、丸善という出版社からシーボルト関連の本をだしたのだ、といった。

私の姿をみて、日本が懐かしくなったのだろうか。しばらく立ち話を続けてから、「じゃあ、日本に戻ったらあなたの本をみてみますね」と約束し、一緒に記念写真を撮って別れた。

新学期がはじまって、ICU高校の生物の教師にくだんのエピソードを話し、スターン先生を知っているか尋ねたところ、スターンさんは、ラテン語植物分類学の世界的権威だからもちろん知っているという。翌日、来日の折にした学術対談の雑誌コピーも持ってきてくれた。

スターンさんの仕事ぶりを知るには、本の実物を見るに如くはない。ところが日本橋丸善の棚のどこをさがしても本が見つからない。さんざん歩き回って、ふと近くの柱をみたら、『日本植物図譜』の広告ポスターが貼ってあり、本の価格が98万円となっている。なるほど探してもみつからないわけだ。これは学術資料であって、店頭に並べて売る本ではない。

それから実物をみる機会のないまま月日が経った。今回の訪問にあたって、シーボルト記念館ならきっとくだんの本が展示されているに違いないと踏んでいたのだが、やはりここでも見つからない。

そこで閲覧を申し込んでみることにした。当方の申し出を聞いた窓口の男性が、一瞬ひるんだ後、「あるにはあるんですが、なにしろ下の収蔵庫から取り出さないといけないので」とあきらかに逡巡の体である。

係りの人がなぜ逡巡するのか、その理由が間もなく分かった。しばらく待っていると、台車にのせられた大きな箱が2つ、エレベーターから出てきたのだ。

箱のなかにはB3版クロス装丁の立派な本が併せて4冊入っている。さて、合計したらいったい何キログラムになるのだろうか。まず箱ごと台車から机に移し、それから本をとり出すのだが、たったそれだけのことに相当な腕力がいる。油断したら腰痛を発症するだろう。とにかく大きくて重いのだ。

第1巻を開けてみると、巻頭言の形でスターン先生が、シーボルトの生涯を英語で紹介している。中身は、川原慶賀らの筆になる『日本植物図譜』の精密なコピーである。当時としては最先端の印刷技術を駆使したものに違いない。

「日本に戻ったらあなたの本をみてみますね」とスターン先生に約束してから、かれこれ23年経ったことになる。

今回の長崎訪問で、ようやく約束を果たしたという安堵感だけは残った。

口縄坂

気になっていてもなかなか訪れる機会がない、という場所がいくつかある。大阪上町台地の坂道もその一つだ。地図で見ると、谷町筋から松屋町筋の方に向かって下る坂が何本もある。

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近くに講演にきたついでに、一つだけ坂道を歩いてみることにした。

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歴史散歩をする年配者がたくさんいて、日盛りのなかを幾組も歩いている。そのあたりは東京の都心を散歩するのと同じ雰囲気だ。

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ここ口縄坂を上ると、織田作之助「木の都」の文学碑がある。

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近くの寺に、私の好きな田能村竹田の墓もある。

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お詣りにきていたご夫婦に、入り口で竹田のお墓の場所を尋ねたら、あいにく知りませんという。

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まあ、興味がないとそんなものかもしれないなあ、と思った。

古市古墳群

年末のことになるが、あかり座公演にあわせて、宮崎充治さんが「ディープ大阪ツアー」を企画してくれた。武田富美子さんとの3人旅である。

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今回のテーマは古墳巡り。阿倍野橋から近鉄線で南下し、古市駅下車。手前にある道明寺駅まで、一駅分だけ歩く。(上は誉田八幡宮)

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そんなに長い距離ではないが、誉田八幡宮―応神天皇陵―古室山古墳―道明寺―道明寺八幡宮と、見どころ満載だ。(上と下は応神天皇陵)

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地図でみると、羽曳野市のこの周辺だけで大小30ほどの古墳が確認できる。仁徳天皇陵を中心とする百舌鳥古墳群とあわせて、世界遺産登録を目指しているらしい。(下は古室山古墳の後円部でとても見晴らしが良い)

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この日は晴れたり曇ったりを繰り返す怪しい空模様になったが、その分、応神天皇陵の山の端からこぼれてくる西日をみて、改めて歴史の厚みを実感したことだった。

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道明寺八幡宮は、初詣にそなえて大きな賽銭箱を設置、通路の砂利も新しくしているから、ひときわ清々しい雰囲気である。

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そんなこんなで、大阪情緒にあふれた歳末の気分とあかり座公演の無事終了にともなうホッとした気分、その両方を味わうツアーになった。

梅小路の鉄道博物館

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先日、岡山県立津山商業高校の校長・槇野滋子先生に、いまは観光施設になっている津山駅の転車台を案内していただいた。(上の写真)

JRのOBの方々なのだろうか、資料館で説明してくれる年配の人たちが、実に生き生きしている。余り熱心に解説してくれるものだから、こちらまでつられて楽しい気分になった。

蒸気機関車もきれいに整備されて扇型の車庫に並んでいる。高校2年生までSL列車で秋田市に通学していたから、なんだか懐かしい。

わたしもデボン州のペイントンで乗ったことがあるが、産業遺産の保護に熱心な英国では、いまもあちこちで蒸気機関車が走っている。きっと日本もそんな時代になってきたのだろう。

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それで京都にいったついでに、梅小路の京都鉄道博物館にいってみることにした。ずっと気になってはいたが、ついぞ訪ねる機会のなかったところだ。鉄道ファンが多いと聞いていたが想像以上で、外国のお客さんもたくさんつめかけている。

%e4%ba%ac%e9%83%bd%e3%83%bb%e6%b4%a5%e5%b1%b1-087夕方に到着したせいで、ちょうどこの日最後の蒸気機関車の走行にいき合わせた。もうもうと上がる黒煙と車体から噴き出す白い水蒸気をごくまじかで見ているうちに、わたしはモネの「サンラザール駅」を思い出した。

転車台を何回転もしてみせてくれたり、ショベルカーで石炭を入れる作業を披露したりと大サービス、盛大にポーを鳴らすは、運転手さんがカメラマンにむかって何度も手を振るはと、実にショーアップしている。見物客はもちろんのこと、何より働いている人たちが楽しそうなのが良い。

それで、もう一度ゆっくり来てみようか、という気分になった。

門司と小倉

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小倉まではいったことがあるが、門司港ははじめてである。岸壁に立つと、下関の側が指呼の間に見える。トンネルを通って徒歩15分で対岸に行けるというから、海峡というよりも運河という印象だ。

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レトロタウンらしく洋館風の建物が港の周囲にいくつかあり、ちっちゃな横浜といった雰囲気である。一方で、駅の構内に、大陸からの引揚者が飲んだという「帰り水」の水道栓などインパクトのある遺構も残っている。

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風雨のなか門司港をでて、小倉の松本清張記念館を訪ねた。若い頃に、どちらかというと推理小説よりも「昭和史発掘」などの歴史ものの方をよく読んだ。書斎と書庫が復元されているとあって、どうしても見てみたいと思っていたのだ。(写真は北九州市役所前)

書斎は、今見ると、実に質素な空間である。ショーケースに絶筆となる「神々の乱心」の校正刷りがでていて、それがなんと6校まである。いやはや凄い仕事ぶりである。

記念館をでたら、永年の懸案がひとつ片付いた気分になった。

幣舞橋の夕陽

幣舞橋は、北海道の三名橋のひとつらしいが、1908年の1月に石川啄木がはじめて釧路にきた日に渡った橋である。「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」と詠っている。当時は、木造の橋だったが、いまは歩道の広いじつに立派な橋になっている。

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以前、函館と啄木について記事を書いたときに、北海道教育大学の宮原順寛先生から、啄木は釧路でも大事にされていますよ、というメールを頂戴した。今回いってみて、なるほどと思った。なんと市内に27基の啄木の歌碑があるのだという。

全部をみる時間はなかったが、例の「しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな」の歌碑だけはみた。それで滞在中なんどか幣舞橋をわたったが、眼下の釧路川の水面が高く、まんまんと水をたたえているため、じつにゆったりとした橋上風景になっている。

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幣舞橋は、夕陽の美しさでも知られているそうで、たまたま大きな太陽が、素晴らしい勢いで海に落ちていく瞬間にでくわして、あっけにとられた。とにかく美しい。

近頃、ゆっくり夕陽を眺めるなどなかったから、なんだか旅心まで誘われてしまった。

ノッカマップ岬のチャシ

北前船のことが知りたくて、釧路から根室までレンタカーを走らせた。この日、道北、道央は雪。道東は雪こそ降っていないがこの寒さである。さすがにどこの資料館、博物館にも人影というものがない。

納沙布岬から北側の海岸線をみる

納沙布岬から北側の海岸線をみる

根室半島の突端に納沙布岬があり、岬から半島の北側の海岸線を、根室港方面にむかって15分ばかりいくとノッカマップ岬につく。

クマザサの生い茂る小道をぬけ、冬枯れた野原を歩いていくと、眼前に大きな海が広がっている。そこは国後島、歯舞群島を見晴るかす崖の上の台地で、その台地にある小さな土塁がノッカマフチャシである。右手に、小さなノッカマップの入り江が見下ろせる。

チャシというのは、「柵囲い」を意味するアイヌ語だそうで、砦、祭祀の場、見張り場、談判の場など、様々な用途が想定されている。根室市内で32か所のチャシがあり、その多くが16~18世紀につくられたものだという。

右手がモッカマップの入り江

右手がモッカマップの入り江

数あるチャシのなかでも、とくにこのノッカマフチャシが知られているのは、「クナシリ・メナシの戦い」(1789年)の舞台だからである。もともとこの入り江は、場所請負人だった飛騨屋九兵衛の運上屋があったところで、その飛騨屋による過酷な労働、暴力的な支配に耐えかねて蜂起した人々が、和人71人を殺害したのがことの発端である。

アイヌの人々による最後の組織的戦いとされるこの大騒動は、やがて松前藩によって鎮圧され、クナシリ総首長ツキノエなど37人がこの台地で斬首された。

「コシャマインの戦い」(1456年)のコシャマイン父子、「シャクシャインの戦い」(1669年)のシャクシャインがそうだが、どうしてアイヌの人々がやすやすと和人のだまし討ちにあうのか不思議に思っていたら、以下のような記述にぶつかった。

「これまでも、松前藩はアイヌの人たちとの戦いにおいて形勢が不利とみると、だまし討ちによって戦いを終わらせたことが何度かありました。アイヌの人たちが容易にだまし討ちにあった背景には、アイヌの人たちの交易者としての側面があったことが指摘されています。

アイヌの人たちにとって、くらしを営むうえで欠くことができない交易はたんなる品物の交換ではなく、交易相手との無沙汰を丁寧に述べるなどの厳粛な儀礼を伴ったものです。したがって、和人側から言葉を尽くした和睦を持ちかけられると、それを一蹴せずにアイヌの人たち、とりわけその統率者は威儀を正して、その場に臨みます。戦い相手との再会儀礼などが滞りなくすみ、緊張がほぐれたところをだましうちにされました。」(『アイヌの人たちとともに―その歴史と文化―』公益財団法人アイヌ文化振興・研究機構)

これを読むと、アイヌの人たちの人間としての上等さを逆手にとってのだまし討ちだったことが分かる。コシャマイン親子をだまし討ちした武田信広が、のちに松前家の祖になる。

こうした出自をもつ松前藩は、いわば初代の性格をそのまま踏襲したようである。「クナシリ・メナシの戦い」から10年後、幕府が東蝦夷地を松前藩から取り上げて、直轄地にした1799年のときの様子を司馬遼太郎がこう書いている。

「以下は信じがたいことだが、松前藩は豊臣秀吉の時代から蝦夷地を統治していながら、一筋の道路も造ったことがないのである。(中略)漁業収入だけで藩を成立させている松前藩にとって必要なのは、内陸ではなく、河川と河口の海岸だけだった。・・・松前藩がほしいのは北海道(明治2年以後の呼称)のわくともいうべき海岸線だけだったのである。

―道をつけても蝦夷人がよろこぶだけだ。という頭がこの藩にあり、また、秀吉、家康の朱印状によって蝦夷人の保護者として性格づけられていながら、かれらを人以下と見ているために、かれらの便宜をはかるなど、藩の思想として片鱗も存在しなかった。」『菜の花の沖(四)』

今回は、釧路でレンタカーを借り、厚岸湾、霧多布湿原、風連湖、花咲港、納沙布岬と、275キロほどの距離を走った。道東の風景ということでいえば、エゾ松と白樺が混じる林がいつの間にかなだらかな草山になり、その景色がいつまでも続き、やがていくつもの牧場を通り過ぎた。それで、ああこれが根釧台地の風景なのか、と思い当たった。

そうこうするうちに、えんえんと続く草山の景色が、かつてドライブしたイギリスのダート・ムーアの景色と頭のなかで2重写しになり、その不思議な既視感が2日間ずっと消えなかった。

抒情の原点―啄木と函館

函館公園 階段の上に噴水広場がある

函館公園 階段の上に噴水広場がある

フィールド・ワークの合間をぬって、石川啄木の居住地跡を訪ねた。啄木は、1907(明治40)年の5月5日から9月13日にかけて、132日間函館で暮らしている。故郷を離れてちりぢりになった家族がこの地で合流し、6畳二間の長屋でつかの間平穏な日々を過ごした。その場所が、函館山の東麓にある。「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」で知られるあの青柳町である。

居住地跡とはいっても、民家のまえに白い看板が立っているだけだ。ただ、そこから150mばかりゆるい坂をのぼった先の函館公園に、啄木の字を集字して刻んだ歌碑がある。清涼の気がみちる広い敷地に、噴水のある広場、児童遊園地、市立博物館などが点在するよく手入れされた公園である。その広場に面して、松とオンコの木陰に、はき清められた碑がひっそり立っていた。

碑面の文字

碑面の文字

この歌が収録された『一握の砂』は、わたしの抒情の原点である。いまも何かの拍子にひょいと浮かんでくる歌がいくつもある。東北自動車道を秋田に向かって走るたび「やはらかに柳あおめる 北上の岸辺目にみゆ 泣けとごとくに」がでてくるし、盛岡の駅頭にたつと、なぜだか「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」が浮かんでくる。それは心の習慣のようなものである。

この習慣は、中学生のころにはじまった。文学への憧れ、強い自負心、友情、恋、涙、漂泊、望郷の想い、貧苦、病、夭折など、1960年代初頭の中学生の琴線にふれる要素が、啄木の世界にあふれていた。

『一握の砂』の冒頭にある「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」は函館の大森浜を詠んだものと習ったし、その当時の愛唱歌が小林旭の「北帰行」だったから、両方があいまって北への思いが強くなった。当然のこと、漂泊の地は「北」でなければならない。

近くに亀井勝一郎の文学碑もある

近くに亀井勝一郎の文学碑もある

もう一つの愛唱歌・石原裕次郎の「錆びたナイフ」がその気分を助長した。「砂山の砂を指で掘ってたら、真っ赤に錆びたジャックナイフがでてきたよ」の砂山、これはもうどうしても北の海岸でなければならない、と思った。

のちに、啄木の「いたく錆びしピストル出でぬ 砂山の 砂を指もて掘りてありしに」にインスピレーションを受けて作られた歌詞だと知るに及んで、私の思い込みもそう的外れではなかった、と感じたことである。そんなこんなで、いよいよ「北=函館」のイメージが私のなかで強固なものになった。

1907年の大火で、勤め先も書き溜めた原稿も失った啄木は、函館を去り、札幌に向かうことになる。函館市立博物館に1936(昭和9)年の大火にまつわる展示コーナーがある。それによると、明治からこの昭和9年の大火まで、千戸以上焼失した火事が10回あり、百戸以上焼失した火事にまでひろげると都合26回おきている。強い海風が火勢をます地形であることと、市街地に粗末な建物が密集していたことが事態を悪化させたのだという。

大森浜 右手が立待岬方向

大森浜 右手が立待岬方向

函館市立文学館にいってみたら、2階のフロア全部が石川啄木のコーナーになっていて、自筆の原稿やら手紙やらがたくさんでている。なかでも1908(明治41)5月7日付の森林太郎宛書簡がひときわ目をひいた。道内を転々とした啄木が、この年の4月5日に最後の地である釧路の新聞社を辞し、家族を北海道に残したまま、ひとり船上の客となった。東京で創作活動をすることへの憧れに抗しがたかったのである。この手紙は、上京した啄木が、金田一京助の友情にすがって、本郷菊坂の赤心館に下宿していたころのものである。

強いプライドと不安、それらを二つながらに抱えて東京にやってきた啄木、その心の揺れが、巻紙に綴られている。船は横浜港についたのだが、そのまま東京にいく勇気がでない。気圧された気分のまま横浜で一泊し、それでなくとも貧しい路銀をさらに減らした、と述懐している。作家・森鴎外を意識したせいだろうか、友人たちに宛てた闊達な手紙とは明らかに違う文体である。

このころの啄木は、不遇のうちにあって困窮がいやます時期である。見学者のだれもいない夕暮れの展示室。啄木の丁寧な文字を読み進めるうち、わたしは心底切なくなった。

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翌日、本郷新のつくった「石川啄木像」(1958)をみに大森浜の海岸に向かった。タクシー・ドライバーは、初老の人である。新聞や週刊誌はあるが、文庫本を手に客待ちしているドライバーというものにはじめて会った。

函館駅前から市街地をぬけ、大森神社をすぎて、海岸沿いをはしる漁火通りにさしかかったとき、くだんのドライバーに「どうしてこんなに啄木が大事にされているんでしょう」と聞いてみた。滞在日数わずか132日の作家をこれほど厚遇する、函館市のもてなしは、いささか度が過ぎていやしないか、と思ったからだ。

「たしかに、さあ明日からがんばろう、となる歌ではないですね」といってから、ちょっと間があって、「でも、函館の人のなかに、そういう歌に共鳴する気風があるんでしょうかね」という答えが返ってきた。

それでわたしはすっかり嬉しくもなり、また満足もしたのだった。

山中湖村に羽田氏邸を訪問

羽田先生(左)と平野先生(右)

羽田先生(左)と平野先生(右)

平野正久先生のご案内で、山中湖村を訪ねた。人口5500人の村だが、湖のまわりに別荘や大学の研修施設がたくさんあるせいで、夏の最盛期には6万5千人にもなるという。平野さんのお姉さんの時子さんも、この村に別荘を構えている。花の都公園、情報創造館(図書館)、山中湖温泉「紅富士の湯」など村営の施設はどれも立派だ。

今回の目的は、研究室の先輩・羽田積男教授(高等教育論)のお宅訪問にある。山中湖村は、平野、長池、山中の旧3村が一緒になって50年前にできた村だが、羽田氏邸はいちばん小さい村・長池の集落の一つにある。お祖父さんが医者、お父さんが数学教師、お母さんが連合婦人会のリーダーだったというから、地元での役割がなんとなく分かる。

花の都公園

花の都公園

渡辺洋三、北条浩『林野入会と村落構造―北富士山麓の事例研究』(東大出版会)などの資料をみせてもらって、この地域が繰り返し入会権研究の対象地域になっていることを知った。大学に入ったころ、戒能通孝『小繋事件』(岩波新書)で入会権の問題に出会ったが、うかつなことに、身近にいる羽田さんその人が当事者だということを考えたことがなかった。羽田さんが毎年参加する富士山麓の野焼きには、入会権の確認という意味もあるらしい。

昭和初期につくられた羽田邸の建築材はすべて、自家の持ち山で伐採したものだ。もともと内外装ともに板壁だったそうで、太い大黒柱をもつ堂々たる建物である。水回りやお風呂場は最新設備にしているが、玄関・客間などの主要部分は天井の配線を露出させたままにするなど、できた当時の雰囲気を保っている。

屋敷の角々には、杉、欅、桑などの大木が立っていて、なるほど400年暮らし続けている土地なのだとわかる。2階家の屋根の高さまであるオンコの垣根というのをはじめてみた。周辺の畑で、羽田さんが30種類ほど野菜を育てている。毎年、教育学科研究室に飾られるハロウィーンの大かぼちゃも、この畑で作られたものだ。

この集落は古くから戸数38戸という取り決めがあって、増えも減りもしていない。傘をさして集落の中を歩いてみたが、塀のようなものがほとんどなく、家々の境界が判然としない。恐らくその必要がないくらいお互いのことがわかっているのだろう。

羽田邸をでると、すぐ目の前に山中湖が広がっている。標高982メートル、周囲13.5キロの湖である。湖の向こうに富士山がそびえている。

羽田さんは富士を眺めながら湖岸で釣りをする。体長93センチの鯉を釣り上げたところに、ちょうど平野さんが行き合わせた。風呂桶に放した鯉のからだが大きすぎて、Uターンできないほどだったという。雄大な富士の景観と特大の鯉、「この環境が羽田さんの大らかな性格をつくった」というのが平野さんの見立てである。

こんどの訪問で、山中湖村のことがぐんと身近に感じられるようになった。

村上で鮭を考える

重文・若林家の軒端にも鮭

重文・若林家の軒端にも鮭

新潟下越地方の村上市は人口6万5千人の小都市である。藩政時代の町名がそのまま残る歴史の町だ。村上ではいたるところに鮭の気配が漂っている。いく先々で軒端につるされた鮭をみかけるし、「イヨボヤ(鮭魚)会館」という博物館まである。この地域では鮭こそが“魚の中の魚”である。

毎年、10月から12月にかけて、町の北部をながれる三面(みおもて)川を鮭が遡上する。朝日連峰の源流から海まで41キロのそう大きくはない川だが、流域にブナ林が散在し、河口付近をタブ林がおおっていて、鮭の溯上には格好の条件をそなえている。

味匠・㐂っ川の店の奥

味匠・㐂っ川の店の奥

村上の鮭は、江戸時代から藩の財政を支え、明治時代になっても町の経済を潤し続けた。町の人たちは、鮭の恵みを向学心のある若者の奨学金にあて「鮭の子」と呼ばれる一群の人材を生み出した。その中に小和田雅子さんの祖父にあたる人も含まれている。最盛期には、72万匹の水揚げがあったというからさぞ壮観だったことだろう。

村上にはサケの調理法が100通りあるそうだ。エラやヒレにいたるまで余すところなく調理するのは鮭への感謝のしるし、「最後は水晶玉しか残らない」というほど食べ尽くす。鮭を中心とするこうしたきめ細やかな食文化は、この地方の人びとの自然観の表現でもある。

村上と鮭とのかかわりはかくも深いのだが、アイヌの人々にとって鮭はさらに大切な主食だった。以下は1994年に札幌で、萱野茂さんに「アイヌ文化とともに―民具を作って思うこと」と題して講演してもらったときの話である。(国際教育研修会編『地球時代とこころの国際化』所収)

萱野さんによると、北海道にはサケの遡上する川が57本ある。そこで日本人の漁業組合が3750万匹のサケを捕っている。ではアイヌは何匹とらせてもらっているのか。「一昨年までは登別アイヌで5匹です。5匹以上捕ったらガチャンと手錠をかけて引っ張られていきます。札幌の文化協会で一昨年まで20匹でした。・・・少し増えたと聞きますが、230か300、そんなところです」。

「あとからきた大集団が一方的にサケをとるな、シカをとるな、木も伐るなといって生活を奪ってしまったのです。・・・アイヌの村では主食として、(サケを)当てにしてきたのです。世界中のことを知っているわけではありませんが、侵略した白人とその地域の先住民族たちは、食うことだけは保障されていました。食うことまで奪われたのはアイヌだけです」。

当時、社会党の比例代表区の国会議員になったばかりの萱野さんが、侵略される側の痛切な思いを、静かな言葉でこう語ってくれた。

村上は山と川のある町である。訪問者は、新潟市を背にして見渡す限りの平坦な田園風景をすぎ、小高い山を越えてようやく村上の町に入る。山越えするせいでどこか別世界にふみいる気分がしたものだが、旅を終えるころまでに、村上の町そのものがほどよい良い大きさの歴史博物館に思えてきたから不思議である。