若いころからいわゆる名園とよばれる庭をずいぶん見てきたが、この頃になって、庭の味わい方に変化がでてきたようだ。
一つは、自分の庭の好みがだんだんはっきりしてきたことで、例えばそれは、閉じた空間の庭よりも借景に開かれた庭、名石が見どころの庭よりも刈込がメインの庭により心地良さを感じるといったようなことだ。
その伝でいうと、桂離宮よりも修学院離宮、醍醐寺三宝院よりも頼久寺の庭園ということになる。石川丈山の詩仙堂が好きなのもそうした理由とつながっているだろう。
イギリスの風景式庭園のなかにもいくつか好きな庭があるが、だからといって決して自然そのままの景観がいいということでもない。イギリスの風景式庭園の景観は、大土木工事でつくられていることが多いからだ。
こうした好みのことを、どう言葉で表現したものか考えているのだが、まだ適当な表現が思いつかない。広いか狭いかというよりも、それが清々するような空間かどうかということだろう。
もう一つは、庭のディテールが面白くなってきたことだ。こちらの方は理由がはっきりしている。自分が庭の管理をするようになったからである。庭つくりの文法にかかわる、石組み、植栽、剪定の仕方といったものはもちろん気になるが、それが手入れがしやすい庭なのか手のかかる庭なのかといったような、マネージメントする側の視点でもみるようになった。
そのせいで若いころよりも、かえって味わいが深まったように思う。天下の名園ならずとも、どんな地方のどんな庭にも、それなりに参考になるところが必ずあるからだ。
今回の京都訪問でいうと、下鴨神社の南に位置する「旧三井家下鴨別邸」の庭が面白かった。観光客がひきもきらないあの鴨川デルタのすぐそばに、広大な敷地が広がっていて、糺の森を思わせる高木に囲まれた空間がつくりだす雰囲気には独特のものがある。
おかげで無鄰菴をはじめて訪問したときに感じたのと同じあの新鮮な驚きの感覚を、ほとんど40年ぶりに味わうことができた。
(上の写真は、隣接する葵公園の尾上松之助”目玉の松ちゃん”像。銘文を蜷川虎三知事が書き、福祉事業への松ちゃんの貢献を讃えている。)