「岡山空港開港30周年記念 まち・ひと・しごと未来創造ビジネスプランコンテスト」(県内の商業高校生によるグループ・プレゼンテーション)の審査にきたついでに、下津井節で知られる下津井港を訪ねてみることにした。
それにしても生徒たちの発表は、夏の研修会からの短期間で、彼らが目覚ましい成長を遂げたことを実感させる素晴らしいものだった。
コンテストで選ばれた3校(岡山後楽館高校、倉敷商業、津山商業)の生徒たちが上京し、12月16日(土)に新橋駅からすぐのアンテナショップ「とっとり・おかやま新橋館」で取り組みの成果を披露することになっている。
下津井港までは鉄道の便がないので、JRの児島駅をでて鷲羽山を経由する巡回バスでいった。
その昔、北前船が北海道から運んでくるニシン粕が下津井港で陸揚げされ、児島湾の干拓地で栽培される綿やイグサの肥料になった。それがめぐりめぐって倉敷の綿業(ジーンズなど)の今日の隆盛につながることになる。綿は塩分を含んだ土地でもよく育ったのだという。
すでに幕末の時点で、9200haも干拓されていたというから、肥料の需要量の方も相当なものだったろう。北前船の盛期は明治10年ころだが、今でも当時使われていた井戸やら蔵やらが通りのあちこちに残っている。そのせいで、下津井の町そのものがタイムカプセルの風情である。
日露戦争のあと、船の動力化と化学肥料の普及が進んで、北前船の寄港がぱったり途絶え、港に軒を連ねていた問屋衆も転業を迫られることになった。
いまは資料館「むかし下津井回船問屋」になっている高松屋のこの屋敷も、大正期には足袋製造、昭和に入って学生服の製造場になっていたのだという。
子どものころ地理で児島湾の干拓について習ったが、長じて、こんな形で過去の記憶とつながったことも不思議なら、そもそも20年近くも、岡山県の教育にかかわることになったこと自体が不思議である。
加えて、今回はもう一つ不思議なことがあった。雑談のなかで、JALの側からコンテストの審査に加わっていた内海茂さん(岡山空港所・空港所長)が、ICU高校の3期生で、ドイツからの帰国生と判明したことだ。
写真でみるとどっちが年長者か分からないくらい恰幅のいい内海さんだが、3年生のときの政経レポートで、新聞記事を駆使して「パレスチナ問題」について論文を書いたときのことを懐かしく記憶してくれていて、私にはそれがまた嬉しいことだった。