月別アーカイブ: 11月 2017

藤田節子先生の個展

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美術家として、教師であることと実作者であることを両立させるのは、相当難しいことではないかと想像している。それをみごとに両立させてきたのが藤田節子先生だ。

女子美の卒業生仲間と、1962年から、2年に1回のペースで「グループ集展」をはじめ、それが昨年まで続いたというから、ゆうに50年以上である。

2007年に日洋展に“冷雨の木立”(100号 写真の作品)を初出品するや、たちまち「日洋賞」を受賞、2010年に出品した“夏の川辺”(100号)は、今年まで総理大臣官邸の壁に飾られていた。

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藤田さんといえば、鋭く研ぎ澄まされた構図、寒色系の色合いの強い静物画を中心とした理知的な画風の方という印象である。しかし、60代半ばころからだろうか。画面に湿潤な空気感の漂う、緻密さに自在さの加わった風景画がふえていったように思う。

下の写真は、わが家の玄関にある藤田さんの静物画 背景のブルーの微妙な諧調に、その緻密な画風がよくあらわれている。

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今回の個展(銀座・ギャラリー青羅)にも、ヨーロッパや石垣島の風景画が多く選ばれている。「2学期の成績をつけ終えてから旅にでるので、どうしても冬景色が多くなるんです」と藤田さんがおっしゃっているが、なるほど美術教師の仕事をきちんとしてこられた方の発言だと感じた。

絵の指導ということでいえば、ICU高校の学校祭で、藤田先生が指導する美術部の作品展示「節子の部屋」は20年以上続いたはずである。昨日も、高校や絵画教室の教え子さんたちがたくさんつめかけていた。

ご自分の好きな一筋の道を、60年の長きにわたって歩き続けてきた藤田さんの人生の充実感を、展観するこちらの側も一緒に感じることができる、なんとも幸せな展覧会だった。

庭の好み―旧三井家下鴨別邸

若いころからいわゆる名園とよばれる庭をずいぶん見てきたが、この頃になって、庭の味わい方に変化がでてきたようだ。

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一つは、自分の庭の好みがだんだんはっきりしてきたことで、例えばそれは、閉じた空間の庭よりも借景に開かれた庭、名石が見どころの庭よりも刈込がメインの庭により心地良さを感じるといったようなことだ。

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その伝でいうと、桂離宮よりも修学院離宮、醍醐寺三宝院よりも頼久寺の庭園ということになる。石川丈山の詩仙堂が好きなのもそうした理由とつながっているだろう。

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イギリスの風景式庭園のなかにもいくつか好きな庭があるが、だからといって決して自然そのままの景観がいいということでもない。イギリスの風景式庭園の景観は、大土木工事でつくられていることが多いからだ。

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こうした好みのことを、どう言葉で表現したものか考えているのだが、まだ適当な表現が思いつかない。広いか狭いかというよりも、それが清々するような空間かどうかということだろう。

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もう一つは、庭のディテールが面白くなってきたことだ。こちらの方は理由がはっきりしている。自分が庭の管理をするようになったからである。庭つくりの文法にかかわる、石組み、植栽、剪定の仕方といったものはもちろん気になるが、それが手入れがしやすい庭なのか手のかかる庭なのかといったような、マネージメントする側の視点でもみるようになった。

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そのせいで若いころよりも、かえって味わいが深まったように思う。天下の名園ならずとも、どんな地方のどんな庭にも、それなりに参考になるところが必ずあるからだ。

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今回の京都訪問でいうと、下鴨神社の南に位置する「旧三井家下鴨別邸」の庭が面白かった。観光客がひきもきらないあの鴨川デルタのすぐそばに、広大な敷地が広がっていて、糺の森を思わせる高木に囲まれた空間がつくりだす雰囲気には独特のものがある。

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おかげで無鄰菴をはじめて訪問したときに感じたのと同じあの新鮮な驚きの感覚を、ほとんど40年ぶりに味わうことができた。

(上の写真は、隣接する葵公園の尾上松之助”目玉の松ちゃん”像。銘文を蜷川虎三知事が書き、福祉事業への松ちゃんの貢献を讃えている。)

下津井港と北前船

 

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「岡山空港開港30周年記念 まち・ひと・しごと未来創造ビジネスプランコンテスト」(県内の商業高校生によるグループ・プレゼンテーション)の審査にきたついでに、下津井節で知られる下津井港を訪ねてみることにした。

それにしても生徒たちの発表は、夏の研修会からの短期間で、彼らが目覚ましい成長を遂げたことを実感させる素晴らしいものだった。

コンテストで選ばれた3校(岡山後楽館高校、倉敷商業、津山商業)の生徒たちが上京し、12月16日(土)に新橋駅からすぐのアンテナショップ「とっとり・おかやま新橋館」で取り組みの成果を披露することになっている。

下津井港までは鉄道の便がないので、JRの児島駅をでて鷲羽山を経由する巡回バスでいった。

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その昔、北前船が北海道から運んでくるニシン粕が下津井港で陸揚げされ、児島湾の干拓地で栽培される綿やイグサの肥料になった。それがめぐりめぐって倉敷の綿業(ジーンズなど)の今日の隆盛につながることになる。綿は塩分を含んだ土地でもよく育ったのだという。

すでに幕末の時点で、9200haも干拓されていたというから、肥料の需要量の方も相当なものだったろう。北前船の盛期は明治10年ころだが、今でも当時使われていた井戸やら蔵やらが通りのあちこちに残っている。そのせいで、下津井の町そのものがタイムカプセルの風情である。

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日露戦争のあと、船の動力化と化学肥料の普及が進んで、北前船の寄港がぱったり途絶え、港に軒を連ねていた問屋衆も転業を迫られることになった。

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いまは資料館「むかし下津井回船問屋」になっている高松屋のこの屋敷も、大正期には足袋製造、昭和に入って学生服の製造場になっていたのだという。

子どものころ地理で児島湾の干拓について習ったが、長じて、こんな形で過去の記憶とつながったことも不思議なら、そもそも20年近くも、岡山県の教育にかかわることになったこと自体が不思議である。

加えて、今回はもう一つ不思議なことがあった。雑談のなかで、JALの側からコンテストの審査に加わっていた内海茂さん(岡山空港所・空港所長)が、ICU高校の3期生で、ドイツからの帰国生と判明したことだ。

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写真でみるとどっちが年長者か分からないくらい恰幅のいい内海さんだが、3年生のときの政経レポートで、新聞記事を駆使して「パレスチナ問題」について論文を書いたときのことを懐かしく記憶してくれていて、私にはそれがまた嬉しいことだった。