月別アーカイブ: 11月 2014

日本国際理解教育学会の実践研究

この2週間ばかり、大学の公開講座「現代における希望とは」の準備作業、溜りにたまった原稿の執筆、シリーズ第3巻の編集作業などがいっしょくたになって、バタバタの状態が続いている。

少し前のことになるが、日本国際理解教育学会と連携して研究をすすめている学校の一つ、兵庫県立尼崎小田高校の公開授業に参加した。創設した「国際探求科」を舞台に、福田秀志・小林哲先生チームが、TPP問題など、意欲的なテーマの授業に取り組んでいる。

以下は、この秋、「学会会報 vol.45 」(10月31日発行)に書いた「第24回大会・特定課題研究報告」だが、福田先生たちは、ここにでてくる「研究モデルの探究と発信」に踏みこもうとしている。これからどんなコラボが生まれてくるのか、大いに楽しみである。

今期から、研究委員会と実践研究委員会が組織的に合同することになり、これを機に「理論と実践の統合」という学会創設以来の難題に本腰を入れて取り組むことになりました。研究・実践委員会が掲げたテーマは「国際理解教育における教育実践と実践研究」です。

本委員会は、3年間を通して2つの課題に挑戦します。一つは、実践研究のスタンダードの確立で、実践者による当事者研究・臨床的研究のディシプリン(研究の作法)をつくろうというもの。もう一つは、研究モデルの探究と発信で、こちらは実践的研究者としての自立の道筋と研究コミュニティの形成に関する事例研究です。学校・地域の実践に寄り添いながら、公開研究会を開いてその可能性を探っていくことになります。大きな2つの課題は有機的につながっております。

今回の「国際理解教育における実践研究の視座」が最初の提起ということになりますが、3時間のセッションを2部構成で行うことにしました。委員会からの4本の報告(80分)を受けて、参加者が4、5人グループで話し合い、その結果を全体にフィードバックするワークショップの形式です。これも特定課題研究の運営では新機軸になります。

井ノ口貴史氏(京都橘大学)、林敏博氏(名古屋市立蓬来小学校)の司会のもと、研究・実践委員長の嶺井明子氏(筑波大学)の趣旨説明につづき、まず以下のような報告がありました。

杉田かおり氏(筑波大学)の「国際理解教育研究の到達点と課題」では、国際理解教育概念の明確化、グローバル市民と国民の関係性など、本学会創設以来の研究課題を広い視野から分析したうえで、今期の特定課題研究でも、国際理解教育の研究課題の固有性を踏まえた実践研究への取り組みであることが必要だ、と提起されました。

渡部(日本大学)の「国際理解教育における実践研究の視座」では、本学会におけるこれまでの実践研究の特質と実践者自身による実践研究のアポリアとの両面を分析したうえで、これからは実践報告・論文の執筆を組み込んだ「現場での臨床的研究の循環構造」という視点が有効性をもつのではないか、と提案しました。

宇土泰寛氏(椙山女学園大学)の「学校事例にみる実践研究」では、ご自身が校長をつとめる椙山女学園大学附属小学校でのホールスクールアプローチによる学校改革を素材として、職場の変容が、管理職のリード→中核教員のリード→実践研究コミュニティの成立という「3つのステージ」で進行していったことが明らかにされました。

山西優二氏(早稲田大学)の「地域事例にみる実践研究」では、青年のためのフォーラムや教員対象のワークショップなど多様な活動を展開する武蔵野市国際交流協会(MIA)を事例として、地域における学び・教育の実践研究では、実践をつなぐネットワーク、コーディネーターの役割など「5つの視点」が重要ではないか、と指摘されました。

休憩後のワークショップでは、「学校/地域で実践研究をどう進めるのか?」「実践的研究者がどう育つのか?」の二つのトピックでグループ討論を行いました。実践を交流しながらテーマを深めるというスタイルでしたが、参加者のご協力と井ノ口委員の運営よろしきをえて、最後の全体会では全グループから討議報告を聴くことができました。話し合いがきわめて活発だっただけでなく、第1部の4つの提案に対する示唆的な質問・意見をリアルタイムで頂戴できたことも有難いことでした。

最後に、大津和子氏(北海道教育大学)より総括的発言があって、ほぼ定刻にセッションを終えることができました。

好天の奈良での日曜午後のセッション、午前中にはワールドカップ・サッカーのコートジボアール戦もありましたので、参加者数が心配されましたが、それは杞憂でした。ベテラン会員から若手会員まで、大教室がいっぱいになる盛況ぶりだったからです。今後とも、会員の皆様のますますのご参加をお願いいたします。

与瀬町―大塚久雄先生の疎開先

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大塚久雄先生の疎開地・与瀬を訪ねた。中央線相模湖駅からほど近い場所である。かつて神奈川県津久井郡与瀬町だったが、いまは相模原市に編入され、相模原市緑区与瀬になっている。

案内人は大塚先生の長女・高柳佐和子さん。柔和な笑顔が、大塚さんの風貌を髣髴させる。「もうすぐ80歳になるんですよ」とご自分でおっしゃるが、実に活気のあるシャキシャキした語り口の方である。

今回の与瀬行きは、梅津順一さん(青山学院院長)の発案で、大塚門下の長老・関口尚志先生(東京大学名誉教授)夫妻をはじめ、ゆかりのメンバーが13人参加した。

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相模湖駅から南に少し行くと街道筋にでる。そこで信号を渡り、右方向に線路と並行して5、6分歩くと、ほどなく右前方に旧本陣跡の緑があらわれる。大塚さんの住まいのあった場所は、その旧本陣のやや手前、道路を隔てた反対側である。

街道のこのあたりは、北側に低い屏風のような山が広がり、南側は相模湖(元の相模川)にむかって緩やかに傾斜している。1944年3月から46年にかけて、大塚さん一家は、この場所で2年ほど暮らした。

かつては街道に面した100坪ほどの区画だったそうだが、今は二つに分割されている。街道側に今風の家が建っていて、残りの半分は空き地である。70年前は自動車などほとんど通らないのどかな通りで、路上が佐和子さんたちの遊び場だった。

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松葉づえの大塚さんが、ここから超満員の列車で本郷まで通勤するのは相当難儀だったろう。大塚さんを、家族で窓から押し込むこともしたという。あまりの混雑で列車に乗り損ね、やむなく欠勤した日、帰りに乗るいつもの列車が米軍の機銃掃射にあい、死傷者をだした。

よく知られていることだが、 同じ時期に、大塚さん、飯塚浩二さん、川島武宜さんという戦後社会科学をリードすることになる3人の学者が与瀬町に疎開している。地元で、それぞれ上の先生、中の先生、下の先生と呼ばれていた。実際に歩いてみると、徒歩10分圏のごくごく狭い地域である。

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意外だったのは、戦時中、3人そろっての交流がなかったことである。考えてみれば当然かもしれない。常会での大塚さんの発言を逐一警察に報告するように、と地元の人たちに指示が出ていたころのこと、いわば監視下での生活だったのである。

戦後になって3家族の集いが活発化する。医学部の瀬川功博士をふくめた疎開仲間4家族で、相模湖畔にバーベキューにきたという話も聞いた。

大塚さん一家がここで暮らしたのは、佐和子さんが小学生だったころだ。にもかかわらず、語られるエピソードがどれも生き生きしている。帰京後も小学校時代の同級生と交流を続けてきたというから、おそらく疎開生活のころの時間が、佐和子さんのなかでそのまま現在につながっているからに違いない、とそう思った。

木村敬一くんの活躍―アジアパラ競技大会

韓国・仁川でおこなわれたアジアパラリンピックでの、木村敬一くんの活躍がめざましく、出場6種目ですべてメダルを手にした。しかも、金4(50m自由形、100m自由形、100m平泳ぎ、100mバタフライ)、銀1(200mメドレー)、銅1(100m背泳ぎ)というから凄い。

大学院・教育内容論ゼミで全部のメダルを披露してもらった。この日、ゼミの出席者はちょうど6人。「重いねえ」などと感想をいいながら、みんなで記念写真をパチリ。(写真は助手の橋本さんも参戦)DSC03369

ことしはゼミの3人が修士論文にとりくんでいて、木村くんが障害者のスポーツ体験に関する調査研究、津田くんが組体操の教育的意義、今回は欠席だったが尾形くんが3.11以後の防災教育がテーマだ。木村くんの場合は、中間発表会のドラフトを印刷してから大会に出発した。

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これから修士論文の完成にむけて、毎週、進行具合を報告してもらうことになる。

庭が山路の風情に

冬じたくと用事をかねて久しぶりに秋田にいった。毎年、だいたい同じ時期に帰省するのだが、庭の景色が一度として同じだったことがない。ことしは、いつの年にもまして紅葉が早いように感じる。

 昨年の今頃は、南庭の銀杏が、高い空に透明感のある葉をキラキラ輝かせていた。今年は黄金色の葉が園路に散り敷いて、なんだか山路をゆく気分だ。


DSC03329庭中がすっかり秋色である。北側の垣根ではガマズミがつやつやと赤い実を、東庭ではムラサキシキブが可憐な実をつけている。

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南庭の4本のモミジも、いまが盛りと黄葉している。

DSC03320        いつもはあることさえ気がつかないツタだが、庭石のうえでびっくりするぐらい赤い葉っぱをつけて存在感を示している。

DSC03318  とりわけ目立つのがニシキギで、色調の異なる紅葉が庭のあちこちにみえる。西庭のニシキギの硬質な赤が、土蔵につづく踏み石の苔のみどり、周囲を囲むヒバのみどりとひときわ強いコントラストを放っている。

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こんなに紅葉のみごとな年はめずらしい。自分の庭が、いつの間にか見る人もなき山里といった風情を醸しだしている。それで早々に庭師の仕事をきりあげ、日差しの変化につれて移ろう秋色を楽しむことにした。

こんな僥倖にであえたら帰省した甲斐があるというものだ。

岡山市でのリユニオン

講演やら教員研修やらで岡山県の高校にかようようになって、かれこれ15年が経過した。前半の訪問先は玉野高校、後半は倉敷青陵高校に集中している。

吉備国分寺跡

吉備国分寺跡

今回は、高校野球の強豪で星野仙一監督の母校でもある倉敷商業で3年生の「ビジネス情報」の授業に参加した。生徒が地元企業の関係者に「なりきって」、マスカットの購入やスーパーの利用を勧めるロールプレイの授業である。

4人の発表者が教室の四隅で、顧客にむかって一斉にプレゼンするのだが、はじめてのプログラムとは思えない落ち着いた雰囲気で発表している。ベテラン先生のTT、しかも就活経験をもつ生徒の多いクラスという条件が重なっているせいだろう。

鬼ノ城西門(復元)

鬼ノ城西門(復元)

研究協議のあと、獲得研の槇野滋子先生(副校長)の運転で吉備路を案内してもらった。鳴釜の神事で知られる吉備津神社、水攻めで有名な備中高松城跡、吉備路を象徴する景観をもつ備中国分寺跡、7世紀後半の山城とされる鬼ノ城など、はじめて訪問するところばかりだ。刈り入れをおえた田圃のむこうで、柿の実が赤く色づき、“これぞ吉備路の秋”という光景が楽しめる。

夕方、岡山市内に久しぶりのメンバーが集まり、夕食会があった。着任した時期はそれぞれだが、全員が玉野高校に勤務したことがある先生たちだ。

鬼ノ城の展望台から

鬼ノ城の展望台から

1999年、玉野高校に岡山県下ではじめてとなる国際科がつくられた。立ち上げをしたのは三善真先生(現・西大寺高校校長)たちで、40代前半の気力も体力も充実した教師たちである。入学手続きの書類と一緒に『国際感覚ってなんだろう』を手渡し、入学後にわたしが講演にでかけるというプログラムを考えた。

一事が万事で、自由な発想の生き生きした学科が誕生した。職員室で国際科の哲学をえんえんと論じ合い、午後9時あたりから“さあ、授業の準備をしようか”とやっていたらしい。そんなエピソードを聞いていると、梁山泊の趣さえある。

槇野先生がワインの美味しいお店をアレンジ

槇野先生がワインの美味しいお店をアレンジ

残念ながら、玉野高校国際科は10年で幕を閉じた。ただ、三善先生、福本まゆみ先生(現・玉野高校校長)、橋本文彦先生(現・笠岡工業高校教頭)たちが開拓した実践は、岡山県の教育史にエポックを画すものである。玉野高校の国際科とはなんだったのか、いつかぜひ考察をまとめてもらえたら、と願っている。

玉野高校国際科がどんな人材を生み出したのか、判断をくだすにはもう少し時間が必要だろう。ただ、一つだけはっきりしているのは、玉野高校に集った教師たちが、県内のあちらこちらの学校に転勤し、ひときわ大きく羽ばたいている、ということである。