日別アーカイブ: 2014/09/10

伏木港と北前船

高岡の国宝・瑞龍寺 北陸新幹線開業を前になんとなく活気がある

高岡の国宝・瑞龍寺 北陸新幹線開業を前になんとなく活気がある

富山県の伏木、高岡、南砺市あたりは、なじみ深い土地である。あかり座公演などで、なんどか訪ねているからだ。

1997年1月に伏木高校の生徒に講演をしたのが最初で、そのときは国際感覚について話して欲しいということだった。学校の控室に案内されたら堀田善衛(1918-98)の本がたくさん並んでいる。それで『方丈記私記』、『ゴヤ』の作家と伏木港の関係が私のなかで明確に結びついた。

堀田善衛の『若き日の詩人たちの肖像』(1968)は自伝的長編である。おもに旧制金沢二中から慶應義塾大学の学生時代の生活が描かれている。彼の生家は屋号を鶴屋といい、米穀肥料問屋をかねた伏木港の大きな廻船問屋(回漕問屋)である。

高岡市伏木気象資料館でみた1857(安政4)年の記録に、伏木港の入船2003隻、出船1989隻、持船39隻とあり、北前船のころから港が大いに賑わっていたことがわかる。鶴屋は、盛時伏木に30軒もあったという同業者を代表する一軒で、銭屋五兵衛とも取引があったらしい。

鶴屋の船額

鶴屋の船額

ただ、廻船問屋の没落は避けられない時代の流れだった。堀田善衛は家族の一員として、その過程に立ち会うことになる。鶴屋の最後の持ち船は、幼い善衛が神戸で進水式に参列し、ウラジオストクまで父親にともなわれて航海した船である。それが家族の嘆きに見送られて港を去っていった。

この船の売却は、下関から小樽まであった廻船問屋の最後の一軒の歴史が幕をおろしたことを意味していて、自分の少年時代もその時点で終わったのだ、と堀田が書いている。

鶴屋の望楼つきの大きな屋敷も今はなく、伏木北前船資料館(旧秋元家住宅)の展示場に残る「船往来手形」や「船額」からわずかに往時をしのぶばかりである。

北前船資料館の望楼から伏木港方面をみる

北前船資料館の望楼から伏木港方面をみる

鶴屋そのものは歴史の舞台からひき退いた。しかし、200年の旧家が生み出した人物像は、堀田文学の世界で生き生きと躍動している。とりわけ印象深いのは、スッと背筋ののびた女性たちの姿である。

民権壮士の後援者となり、米騒動を引き起こす商人たちの強欲を批判する曾祖母、学校には一切ゆかず家の教育だけで高い見識をそなえていった“お婆さん”(母の姉)、帰省するたび善衛に伝来の骨董や万年青の鉢をもたせて学費をまかなった母、いずれも教養も批評性も美意識も兼ねそなえる度胸の据わった女性たちである。

堀田は『若き日の詩人たちの肖像』を「国家の暴横に対する怒りの文学」と呼んだ。東京の下宿で2.26事件の勃発を知るエピソードにはじまり、日本が戦争に向かって突き進んでいく重苦しい時代を背景とする作品とあって、登場人物たちが演じる悲喜劇に、生と死というものの輪郭が、ひときわくっきり描きだされている。

大伴家持の在任した国庁跡、一向一揆の拠点となった勝興寺など、伏木港周辺をあらためて歩いてみて、伏木がいかに歴史の厚みを感じさせる町であるかがよく分かった。

それと同時に、なるほど伏木は、国際感覚というテーマで講演を依頼してくる素地のある土地柄なのだ、と改めて感じたことだった。