「泥象 鈴木治の世界」を観る

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若いころ、マリノ・マリーニの馬に惹かれた。マリー二は、単純化したフォルムで馬の躍動感をみごとに表現する。やがて鈴木治(1926~2001)の焼き締めの馬が気になりだした。胴部がほとんど立方体に近いフォルムの「雪の中の馬」(1973)は、その周囲に静かな空気感を漂わせている。

焼き締めの馬は、茶色味のかった備前焼をおもわせる肌をしている。緋色やゴマと見紛うところもあるからいっそう備前焼にちかい印象だが、通常の窯変にはみられない微妙な色調の変化がでている。

八木一夫にしろ、山田光にしろ、走泥社同人の作品は、大きな展覧会にでもぶつからないかぎりまとめて観る機会がない。鈴木治の場合も同様で、あちらのギャラリーで1点、こちらの美術館で2点という具合に、まるで僥倖のようにでくわすだけだから、ますます気になってくる。

今回のように150点を超す作品にふれると、こちらの予備知識が少ない分だけ、いろんな発見がある。焼き締めの馬は備前の土ではなかった。信楽の白い土を使い、ひもづくりで成形したものだ。いったん素焼きしてから、朱泥の溶液を、全体に何度も刷毛で塗り重ねることで赤の発色をえている。茶色の諧調の変化は、朱泥が乾いたあと、その上から木灰を霧吹きで厚く薄く化粧がけしてだしている。

「汗馬」「秋の馬」「嘶く馬」「天馬横転」など馬がテーマの作品がたしかに多い。ただ、私が思っていたほど馬の作家というわけではない。花や鳥、太陽や風など、森羅万象をモチーフにしている。それに、焼き締めと青白磁、オブジェとクラフトを同時並行でつくる作家という顔ももっている。

鈴木治の父・鈴木宇源治は永楽善五郎の工房(千家十職のひとつ)の職人で、轆轤の名手といわれた人、治はその3男である。京都市立第二工業高校窯業科をでて、20代で走泥社の創設メンバーとなり、いわゆる「壺の口を閉じた」作品群を発表していく。79年から京都市立芸術大学の教授を長くつとめていたから、藤平伸の同僚ということになる。

もともと泥象(でいしょう)という言葉は、鈴木が80年代から使い始めた造語である。あえてオブジェという言葉を使わないのだ。今回の展覧会「泥象 鈴木治の世界」の英文は、「SUZUKI OSAMU:Image in Clay」となっている。泥象をいったいどう翻訳したらいいのか、工夫の跡がうかがえて面白い。

この時期のものでは「掌上泥象 三十八景」(1987)がとくに印象深かった。「風ノ通い路」「太陽のシグナル」「朱夏の月」「天に到る雲」など、彼の詩的イメージを形象化した38の小品が陳列ケースにずらり並んでいる。一見して薄い板ともみえる、胎土の薄い、平面性の強い焼き締め作品である。

順番に眺めていくと、作品とタイトルが頭の中でスパークして、想像の翼がはるかかなたまで広がっていく。きわめて繊細で、ウィットに富み、軽妙である。物語性もある。それに精緻なモデリングと柔らかい印象とが併存している。

こうして形容表現を並べてみると、どれもそれなりには当てはまるのだが、かといって、いくつ言葉をつらねてもちっとも言い当てた感じがない。つかめるようでつかめないもの、恐らくそれがイメージというものの本質だろう。私の感じるある種の“はかなさ”もそこからくるかと思う。ともあれ、見飽きることがないという1点に、鈴木の作品の力がよくあらわれている。

鈴木治と同世代の作家にカルロ・ザウリ(1926-2002 イタリア・ファエンツァの人)がいる。ザウリは11歳で「王立」陶芸学校に入学したが、1944年からドイツのヒュルツ収容所に送られた経験をもっている。戦後は、ファシズムに奉仕した「正統的」彫刻―それは大理石とブロンズの彫刻でもある―の革新に、陶磁という素材をもって真正面から取り組んでいった。

鈴木がこの「掌上泥象 三十八景」を制作していたころ、ザウリは瀑布の一部を切り取ったような作品「自然」(1986)をつくっている。白いストーンウェアでできた奔流は、3メートル近い大きさがある。ぶつかりあいせめぎあう波は、アンフォルメルの表現を思い起こさせるほど複雑で、斜めに駆け下るエネルギーの塊のようにも見える。圧倒的量感である。

ザウリの印象と重ねると、鈴木治の作品は、前衛という言葉につきまとう反逆性や様式破壊からかなり距離があるように思われる。この違いが、日本とイタリアという立ち向かうべき文化的伝統の違いからくるものなのか、個人の資質の違いよるものなのか、あるいは歴史性によるものなのか、それはわからない。しかし、どうも私にはそのすべてであるように思われる。(東京ステーションギャラリー 8月31日まで)

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