月別アーカイブ: 8月 2014

大学院のゼミ旅行―札幌

北大の研究生・張雅潔さん(左端)も合流

北大の研究生・張雅潔さん(左端)も合流

ことしの研修テーマは「北海道開拓史」である。昨年の奈良・京都旅行と同様、大学院「教育内容論」のゼミ生たちと札幌市周辺を歩きにあるいた。初日があいにくの大雨とあって、急なプログラム変更こそあったが、2日目、3日目とだんだん天気が上がり、終わってみれば滞りなく予定をこなすことができた。

初日に、赤レンガの旧庁舎にある北海道立文書館で、「開拓使文書」(関係文書8000点 重要文化財)にふれた。一つは、明治8、9年(1875-76)の屯田兵の身上書、もう一つは、明治10年(1877)のカタカナ文字で書かれた函館支庁との通信記録である。どちらも冊子に綴じてある。

青森県の士族たちが書いた身上書がとくに印象深かった。明治7年に屯田兵の募集が始まったばかりだから、これが最初期の記録ということになる。当時の人びとにとって、故郷を棄てるというのは大変なことである。30代の士族が、50代の母親、妻を伴って入植するといったように、それぞれの家族の人生が、和紙に墨書きされた丁寧な文字の向こうから一つひとつ浮かび上がってくる。なかに自裁した屯田兵もいて、発見の経緯や周囲の対応、自殺に使った小刀のことなどが生々しく記されている。

この時期はちょうどクラーク博士が、札幌に滞在したころと重なっている。彼が教師ホイラー、ベンハロー、東京からの生徒11名と札幌に入ったのが明治9年7月31日、札幌学校が札幌農学校と改称されたのが9月8日、博士が札幌を去って帰国の途についたのが、翌10年4月16日である。北海道開拓の底辺を支えた屯田兵制度とエリートを育てた学校教育制度の整備が並行して進んでいたのである。

北海道開拓の村 入口

北海道開拓の村 入口

2日目に、北海道開拓の村(1983年開村)を訪問した。ここは20年ぶりになる。広大な敷地に、明治大正期の建築52棟が、市街地群、漁村群、農村群、山村群に分けて移築・復元されている。

ちょうど北前船の歴史を調べている関係で、今回は、ニシン漁の網元「旧青山家漁家住宅」(山形県遊佐町出身 大正8年)がとくに面白かった。故郷から呼び寄せた60人の出稼ぎ労働者が建物の左側、家族が右側にわかれて寝起きした家である。ボランティアガイドの方たちが炉辺でお茶をふるまいながら、歴史を丁寧に解説してくれる。それで、ニシンを肥料に加工する方法、その肥料が西国の綿、藍、ミカン農家で活用された話など、興味深く聞いた。

旧北海中学校 教室

旧北海中学校 教室

この青山家の建物もそうらしいが、「旧岩間家農家住宅」(宮城県亘理町出身 明治15年)、「旧樋口家農家住宅」(富山県出身 明治30年)の場合も、わざわざ郷里から大工を呼び寄せて普請している。開拓者の望郷の念が感じられるが、一方で“故郷に錦を飾る”という意識もあったろうから、故郷を離れた人たちの複雑な思いが建物に投影している。そんなこんなで、今回は移住者側の事情というものに、思いを馳せた研修旅行だった。

最終日の気温は19度。爽やかな風のふく北大キャンパスを散策し、せいせいした気分で帰京したらわが家の気温は35度、大変な落差である。すぐ札幌の空が恋しくなった。

シリーズ第3巻の編集が進行中

2015年3月の刊行に向けて、獲得研シリーズ第3巻『教育プレゼンテーション』の編集作業が本格化している。週末の編集委員会は8時間におよんだ。

獲得研の本はどれも、完成までに膨大な時間がかかる。アクティビティ・ブックと称してはいるが、ただの技法解説書ではない。日本の現実に適合するものかどうか、一つひとつのアクティビティの汎用性を検証したうえで、「技法解説」と小学校から大学までの「実践事例」をセットで掲載する方式をとっているからだ。今回の本でも、30のプレゼン技法と36本の実践事例をセットで紹介する。

各人の原稿は、いったんすべてメーリング・リストにアップされ、メンバー全員がお互いの原稿を読めるようになっている。それをプリントして持ち寄り、編集会議をひらく。いまはラフ原稿の段階だが、やりとりに半年かけて完成稿にしていく。もちろん、原稿が変わっていく様子も、みんなで共有する。

獲得研では、新しい時代の共通教養の中核に、参加型アクティビティの習得を据えたいと考えている。参加民主主義が成熟するためには、一人ひとりの市民が、討議の経験を豊かにしたり、大小のコミュニティの運用に関与したりする経験が不可欠だが、そのプロセスには必ず何らかのアクティビティが介在している。

アクティビティの定着は、「自立的学習者=自律的市民」を育む教育の中心課題といってよい。いわばその基盤を整備する仕事が「獲得研シリーズ」の刊行である。

私たちがやっているのは、未来の市民に「共有財産」としてのアクティビティのストックを手渡す仕事である。未開拓の領域だから、時間と労力がかかるのは仕方のないことだと思っている。

山中湖村に羽田氏邸を訪問

羽田先生(左)と平野先生(右)

羽田先生(左)と平野先生(右)

平野正久先生のご案内で、山中湖村を訪ねた。人口5500人の村だが、湖のまわりに別荘や大学の研修施設がたくさんあるせいで、夏の最盛期には6万5千人にもなるという。平野さんのお姉さんの時子さんも、この村に別荘を構えている。花の都公園、情報創造館(図書館)、山中湖温泉「紅富士の湯」など村営の施設はどれも立派だ。

今回の目的は、研究室の先輩・羽田積男教授(高等教育論)のお宅訪問にある。山中湖村は、平野、長池、山中の旧3村が一緒になって50年前にできた村だが、羽田氏邸はいちばん小さい村・長池の集落の一つにある。お祖父さんが医者、お父さんが数学教師、お母さんが連合婦人会のリーダーだったというから、地元での役割がなんとなく分かる。

花の都公園

花の都公園

渡辺洋三、北条浩『林野入会と村落構造―北富士山麓の事例研究』(東大出版会)などの資料をみせてもらって、この地域が繰り返し入会権研究の対象地域になっていることを知った。大学に入ったころ、戒能通孝『小繋事件』(岩波新書)で入会権の問題に出会ったが、うかつなことに、身近にいる羽田さんその人が当事者だということを考えたことがなかった。羽田さんが毎年参加する富士山麓の野焼きには、入会権の確認という意味もあるらしい。

昭和初期につくられた羽田邸の建築材はすべて、自家の持ち山で伐採したものだ。もともと内外装ともに板壁だったそうで、太い大黒柱をもつ堂々たる建物である。水回りやお風呂場は最新設備にしているが、玄関・客間などの主要部分は天井の配線を露出させたままにするなど、できた当時の雰囲気を保っている。

屋敷の角々には、杉、欅、桑などの大木が立っていて、なるほど400年暮らし続けている土地なのだとわかる。2階家の屋根の高さまであるオンコの垣根というのをはじめてみた。周辺の畑で、羽田さんが30種類ほど野菜を育てている。毎年、教育学科研究室に飾られるハロウィーンの大かぼちゃも、この畑で作られたものだ。

この集落は古くから戸数38戸という取り決めがあって、増えも減りもしていない。傘をさして集落の中を歩いてみたが、塀のようなものがほとんどなく、家々の境界が判然としない。恐らくその必要がないくらいお互いのことがわかっているのだろう。

羽田邸をでると、すぐ目の前に山中湖が広がっている。標高982メートル、周囲13.5キロの湖である。湖の向こうに富士山がそびえている。

羽田さんは富士を眺めながら湖岸で釣りをする。体長93センチの鯉を釣り上げたところに、ちょうど平野さんが行き合わせた。風呂桶に放した鯉のからだが大きすぎて、Uターンできないほどだったという。雄大な富士の景観と特大の鯉、「この環境が羽田さんの大らかな性格をつくった」というのが平野さんの見立てである。

こんどの訪問で、山中湖村のことがぐんと身近に感じられるようになった。

「泥象 鈴木治の世界」を観る

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若いころ、マリノ・マリーニの馬に惹かれた。マリー二は、単純化したフォルムで馬の躍動感をみごとに表現する。やがて鈴木治(1926~2001)の焼き締めの馬が気になりだした。胴部がほとんど立方体に近いフォルムの「雪の中の馬」(1973)は、その周囲に静かな空気感を漂わせている。

焼き締めの馬は、茶色味のかった備前焼をおもわせる肌をしている。緋色やゴマと見紛うところもあるからいっそう備前焼にちかい印象だが、通常の窯変にはみられない微妙な色調の変化がでている。

八木一夫にしろ、山田光にしろ、走泥社同人の作品は、大きな展覧会にでもぶつからないかぎりまとめて観る機会がない。鈴木治の場合も同様で、あちらのギャラリーで1点、こちらの美術館で2点という具合に、まるで僥倖のようにでくわすだけだから、ますます気になってくる。

今回のように150点を超す作品にふれると、こちらの予備知識が少ない分だけ、いろんな発見がある。焼き締めの馬は備前の土ではなかった。信楽の白い土を使い、ひもづくりで成形したものだ。いったん素焼きしてから、朱泥の溶液を、全体に何度も刷毛で塗り重ねることで赤の発色をえている。茶色の諧調の変化は、朱泥が乾いたあと、その上から木灰を霧吹きで厚く薄く化粧がけしてだしている。

「汗馬」「秋の馬」「嘶く馬」「天馬横転」など馬がテーマの作品がたしかに多い。ただ、私が思っていたほど馬の作家というわけではない。花や鳥、太陽や風など、森羅万象をモチーフにしている。それに、焼き締めと青白磁、オブジェとクラフトを同時並行でつくる作家という顔ももっている。

鈴木治の父・鈴木宇源治は永楽善五郎の工房(千家十職のひとつ)の職人で、轆轤の名手といわれた人、治はその3男である。京都市立第二工業高校窯業科をでて、20代で走泥社の創設メンバーとなり、いわゆる「壺の口を閉じた」作品群を発表していく。79年から京都市立芸術大学の教授を長くつとめていたから、藤平伸の同僚ということになる。

もともと泥象(でいしょう)という言葉は、鈴木が80年代から使い始めた造語である。あえてオブジェという言葉を使わないのだ。今回の展覧会「泥象 鈴木治の世界」の英文は、「SUZUKI OSAMU:Image in Clay」となっている。泥象をいったいどう翻訳したらいいのか、工夫の跡がうかがえて面白い。

この時期のものでは「掌上泥象 三十八景」(1987)がとくに印象深かった。「風ノ通い路」「太陽のシグナル」「朱夏の月」「天に到る雲」など、彼の詩的イメージを形象化した38の小品が陳列ケースにずらり並んでいる。一見して薄い板ともみえる、胎土の薄い、平面性の強い焼き締め作品である。

順番に眺めていくと、作品とタイトルが頭の中でスパークして、想像の翼がはるかかなたまで広がっていく。きわめて繊細で、ウィットに富み、軽妙である。物語性もある。それに精緻なモデリングと柔らかい印象とが併存している。

こうして形容表現を並べてみると、どれもそれなりには当てはまるのだが、かといって、いくつ言葉をつらねてもちっとも言い当てた感じがない。つかめるようでつかめないもの、恐らくそれがイメージというものの本質だろう。私の感じるある種の“はかなさ”もそこからくるかと思う。ともあれ、見飽きることがないという1点に、鈴木の作品の力がよくあらわれている。

鈴木治と同世代の作家にカルロ・ザウリ(1926-2002 イタリア・ファエンツァの人)がいる。ザウリは11歳で「王立」陶芸学校に入学したが、1944年からドイツのヒュルツ収容所に送られた経験をもっている。戦後は、ファシズムに奉仕した「正統的」彫刻―それは大理石とブロンズの彫刻でもある―の革新に、陶磁という素材をもって真正面から取り組んでいった。

鈴木がこの「掌上泥象 三十八景」を制作していたころ、ザウリは瀑布の一部を切り取ったような作品「自然」(1986)をつくっている。白いストーンウェアでできた奔流は、3メートル近い大きさがある。ぶつかりあいせめぎあう波は、アンフォルメルの表現を思い起こさせるほど複雑で、斜めに駆け下るエネルギーの塊のようにも見える。圧倒的量感である。

ザウリの印象と重ねると、鈴木治の作品は、前衛という言葉につきまとう反逆性や様式破壊からかなり距離があるように思われる。この違いが、日本とイタリアという立ち向かうべき文化的伝統の違いからくるものなのか、個人の資質の違いよるものなのか、あるいは歴史性によるものなのか、それはわからない。しかし、どうも私にはそのすべてであるように思われる。(東京ステーションギャラリー 8月31日まで)