ことしの研修テーマは「北海道開拓史」である。昨年の奈良・京都旅行と同様、大学院「教育内容論」のゼミ生たちと札幌市周辺を歩きにあるいた。初日があいにくの大雨とあって、急なプログラム変更こそあったが、2日目、3日目とだんだん天気が上がり、終わってみれば滞りなく予定をこなすことができた。
初日に、赤レンガの旧庁舎にある北海道立文書館で、「開拓使文書」(関係文書8000点 重要文化財)にふれた。一つは、明治8、9年(1875-76)の屯田兵の身上書、もう一つは、明治10年(1877)のカタカナ文字で書かれた函館支庁との通信記録である。どちらも冊子に綴じてある。
青森県の士族たちが書いた身上書がとくに印象深かった。明治7年に屯田兵の募集が始まったばかりだから、これが最初期の記録ということになる。当時の人びとにとって、故郷を棄てるというのは大変なことである。30代の士族が、50代の母親、妻を伴って入植するといったように、それぞれの家族の人生が、和紙に墨書きされた丁寧な文字の向こうから一つひとつ浮かび上がってくる。なかに自裁した屯田兵もいて、発見の経緯や周囲の対応、自殺に使った小刀のことなどが生々しく記されている。
この時期はちょうどクラーク博士が、札幌に滞在したころと重なっている。彼が教師ホイラー、ベンハロー、東京からの生徒11名と札幌に入ったのが明治9年7月31日、札幌学校が札幌農学校と改称されたのが9月8日、博士が札幌を去って帰国の途についたのが、翌10年4月16日である。北海道開拓の底辺を支えた屯田兵制度とエリートを育てた学校教育制度の整備が並行して進んでいたのである。
2日目に、北海道開拓の村(1983年開村)を訪問した。ここは20年ぶりになる。広大な敷地に、明治大正期の建築52棟が、市街地群、漁村群、農村群、山村群に分けて移築・復元されている。
ちょうど北前船の歴史を調べている関係で、今回は、ニシン漁の網元「旧青山家漁家住宅」(山形県遊佐町出身 大正8年)がとくに面白かった。故郷から呼び寄せた60人の出稼ぎ労働者が建物の左側、家族が右側にわかれて寝起きした家である。ボランティアガイドの方たちが炉辺でお茶をふるまいながら、歴史を丁寧に解説してくれる。それで、ニシンを肥料に加工する方法、その肥料が西国の綿、藍、ミカン農家で活用された話など、興味深く聞いた。
この青山家の建物もそうらしいが、「旧岩間家農家住宅」(宮城県亘理町出身 明治15年)、「旧樋口家農家住宅」(富山県出身 明治30年)の場合も、わざわざ郷里から大工を呼び寄せて普請している。開拓者の望郷の念が感じられるが、一方で“故郷に錦を飾る”という意識もあったろうから、故郷を離れた人たちの複雑な思いが建物に投影している。そんなこんなで、今回は移住者側の事情というものに、思いを馳せた研修旅行だった。
最終日の気温は19度。爽やかな風のふく北大キャンパスを散策し、せいせいした気分で帰京したらわが家の気温は35度、大変な落差である。すぐ札幌の空が恋しくなった。