イギリス留学から戻った夏目漱石が、明治36(1903)年に小泉八雲の後任として帝大文科大学講師になり、2年後に友人・高浜虚子の『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表して作家の道を歩きはじめるまでの物語だ。この時期の漱石は、ひどい神経衰弱で苦しんでいる。
「劇団創立20周年記念公演」と銘打つだけあって、休憩をいれて3時間の長丁場をちっとも飽きさせない。
セットは、本郷区千駄木57の借家。下手側が客間、壁をへだてて上手側に漱石の書斎兼寝室。2つの部屋は奥の廊下でつながっている。この家で漱石・鏡子夫婦と二人の娘、女中のてるが暮らしている。そこに菅良吉、寺田寅彦、漱石の姉ふさ、帝大の教え子たち(安倍能成、岩波茂雄、藤村操、小山内薫、魚住淳吉)、学長の井上哲次郎らが入れ替わり登場して、ストーリーが進行する。
てる役の西海真理さんが送ってくれたチラシに、美術、音楽の担当者とならんで「アクション:渥美博」という名前が小さくはいっている。「あらら、漱石の芝居でアクション?」と訝ったが、本番をみて納得した。
前のめりの西欧化にいらだつ漱石。癇癪持ちで不器用な生き方しかできない彼は、精神の浮き沈みを重ねるうち、だれかが自分の行動を監視していると思い込むようになる。典型的な被害妄想だ。ささいなきっかけで鏡子夫人への暴力が暴走する。臥せっていた自分の布団を庭に放り出すは、立てかけてある客間の座卓を押し倒すは、しまいに床の間の花瓶をすんでのところで夫人の頭上に振り下ろしそうになる。なるほど、舞台せましとばかりのアクションである。
パンフレットの年表には、明治36年8月「金之助の家庭内暴力がひどくなり、身重の鏡子は二人の子供を連れて、実家の中野家に避難する」とある。
かといって陰鬱な芝居ではない。まず、漱石夫婦を演じる芦田昌太郎(COMETRUE 父が松山英太郎)、荘田由紀(文学座 母が鳳蘭)の若々しさと軽快さがある。荘田はおきゃんで健気な鏡子夫人像を好演。漱石役の芦田は姿が良い。芦田の初舞台が小学校1年生のときの森繁久彌主演「孤愁の岸」だそうだが、私は帝劇で舞台をみている。
さらに、この芝居の趣向は、漱石ひとりが家に迷い込んだ黒い子猫(吾輩)と会話できてしまうところにある。吾輩のセリフが、なんとも哲学者然としていて面白く、つぎつぎに集まってくる仲間の猫たちも、老人風あり、職人風ありと多彩だ。寺田寅彦など夏目家の訪問者を8人と数えると、集まってくる猫も8匹、じつに盛大である。このネコたちが人間界のものの見方をゆさぶり、舞台のうえに笑いを運んでくれるのだ。
創立20周年を記念して「上演作品年譜」をふくむ特別版のパンフレットがつくられた。今回は、客演の若い俳優ふたりを、劇団のベテラン、中堅、若手のアンサンブルでがっちり支える舞台だが、「ロッカビーの女たち」(2007年)や「9人の女」(2008年)あたりから朋友の芝居を観はじめた私には、女性群像を描くのを得意とする劇団という印象がある。アトリエ公演、市民対象のワークショップも活発におこなっていて勢いがある。
20年も劇団を続けるのは大変なことだ。ひとつの区切りを越えて、これから朋友がどんな芝居をみせてくれるのか、大いに楽しみである。(原作:長尾剛、脚本:瀬戸口郁、演出:西川信廣、俳優座劇場で7月28日まで。)