沖縄で新城俊昭先生(沖縄大学客員教授)と会うときにかぎって、なぜか緊迫した社会情勢になっている。今回は、米軍基地の辺野古移転に反対する稲嶺進・名護市長が再選された直後である。
2年前は、ちょうど仲井真弘多知事が、首里城跡の地下にある陸軍の旧司令部壕の前におく説明板から慰安婦という文言を削除する、と決めて大問題になっていたときだった。翌日、文章を起草した検討委員会のメンバーとして記者会見する新城さんの様子を地元の新聞で読んだ。
新城俊昭さんは、私と同世代の実践的研究者である。仕事について知ったのは、10数年前、テレビのニュース番組だった。「琉球・沖縄史」のテキストを独力で執筆した高校教師がいるというナレーションとともに、長身痩躯の新城さんの授業風景が映しだされた。一人で通史を書くというのは、大変なことである。早速、本を読んで、2003年の全国私学・国際教育研修会で「沖縄を伝える―歴史教育と教材開発を通して」と題する講演をしてもらった。
それからというもの、あかり座公演を嘉手納高校で引き受けてもらったり、沖縄の教育界の現状を聞かせてもらったり、離島の見どころを教えてもらったりと、お世話になりっぱなしである。
新城さんの強みの一つは、那覇高校のような都市部の高校だけでなく、本島の山原、宮古・八重山諸島など各地の学校で勤務した経験をもつことだ。それぞれの地域の民俗にじかにふれ、また古文書などの一次資料に精力的にあたっているから、研究に奥行きが感じられる。
幼いころ、新城さんの父上が、米軍の車両に轢き殺された。その事実を受け入れることのできない5歳の新城さんの心のあり様が、「父の死とその後」という文章に描かれている。沖縄平和祈念資料館の「戦後の暮らし」のコーナーで、その静かな文章を読むことができる。この事件が、家族の生活をすっかり変えてしまった。
だから、新城さんの場合は、人生の意味を問うことと、教師であることと、研究者であることとがピタリと重なっている。10回もの改訂を重ねながら、ライフ・ワークである「琉球・沖縄史」の出版を続ける理由が、おそらくそれだろう。
今回は、晩発姓PTSDの話を聞いた。70代の退職教師の男性が、激しい右ひざの痛みに襲われた。病院でどんなに検査しても異状がみつからない。一人の医師がひょっとして、と思って尋ねたら、子どものころ、沖縄戦でいくつも死体を踏みつけながら逃げ延びた経験があるという。心の中に沈潜していった、すまない、すまないという思いが、60年以上の時間をへだて、身体の痛みとなって現れたのではないか、というのである。
新城さんは、沖縄の歴史教育のトップランナーである。管理職への誘いを断り、生涯一教師の道を貫いた新城さんが、定年と共に大学に移り、教師教育・現職研修の道に本格的に踏み出している。
これを機に、新城さんが代表をつとめる沖縄歴史教育研究会と獲得研でなにか新しいコラボレーションができるのではないか、そう考えるといよいよ楽しみである。