月別アーカイブ: 10月 2013

武田富美子先生の近刊

武田富美子先生が、ドラマワークショップ&シンポジウム「ドラマを通して教育をみる―学ぶ場ってなんだろう」をもとに晩成書房から本をだす。昨年、立命館大学のびわ湖草津キャンパスで開いた催しの実況とそれに考察をくわえた作品である。

武田さんは、今年すでに『実践ドラマ教育―想像と表現の参加型学習』をだしておられる。精力的な仕事ぶりがなんとも頼もしい。今回は、獲得研の渡辺貴裕先生が共編者になっている。

推薦の言葉を依頼されて、昨日、まずは次のような初稿を送った。本の面白さを伝えるために、これからもう少し推敲したいと思っている。

いうまでもないことだが、教育という営みは、教師・学習者のコミュニケーション行為の連鎖でなりたっている。したがって、教室のコミュニケーション環境が子どもたちの学びの質に大きくかかわるのは当然である。

では、近年にいたるまで、教育コミュニケーションというものに教育界の関心が向かわなかったのはなぜだろうか。理由は色々に考えられるが、その一つは国民教育の中で学校が果たしてきた役割に関係している。わけても、授業が教科書の内容を生徒にかみくだいて伝える行為であるとされ、教師にその優秀なエージェントであることが期待されてきたということが大きい。

こうした知識注入型授業が教授定型となっている教室では、いきおい教育コミュニケーションも、教壇から教師が花に水を注ぐように言葉の雨を降らせる一方通行のものになりがちである。そうした状況が長年続いてきたのであるから、いくら国際化、グローバル化の時代には双方向型のコミュニケーションが大切だといわれたり、企業の8割が新入社員の採用にあたってコミュニケーション能力の有無を重視しているという数字を示されたりしたところで、にわかには対応できないのである。

むしろ教育コミュニケーションの問題は、この国の言語風土にまでかかわる問題である。その変容には長い時間がかかると考えた方が良い。

いま、ドラマと教育の関係に注目が集まっているのは、こうした背景と深くかかわっている。言葉はもちろんのこと、身体も感性も駆使して全身でコミュニケーションを行うのがドラマワークの特質だということを考えると、ドラマへの注目はむしろ自然の成り行きのようにみえる。時代の要請と言い換えてもいいだろう。

演劇人を中心としてたくさんの芸術家たちが学校にでかけてワークショップをおこなう文科省の事業「児童生徒のコミュニケーション能力の育成に資する芸術表現体験」が、政権が変わっても存続しているということに、この間の事情が端的に示されている。

教室が協同的で探究的な学びの場になるためには、だれもがのびのびと自分を表出できるような<教師-生徒>、<生徒-生徒>関係になっていく必要がある。教育の場に漂う閉塞感を批判したり双方向型コミュニケーションの不足を嘆いたりするのは簡単だが、いま必要なのは対案の提示だろう。

ひるがえって本書を読むと、従来の教育コミュニケーションを、その不自然さも含めて相対化するための視点が満載である。というのも、ここに収録されている「ドラマワークショップ&シンポジウム」の空間そのものが、ドラマを媒介にした異文化間コミュニケーションの実験室という趣だからだ。

鈴木聡之さん(インプロ)、岩橋由莉さん(コミュニケーション・アーツ)、羽地朝和さん(プレイバック・シアター)が三者三様のワークショップを展開し、それぞれのファシリテーションについてコメントしあう。

なんだか異種格闘技のようにも聞こえるが、むしろこの実験的プログラムをだれよりも楽しんでいるのは、すうさん、ゆりさん、はねちゃん自身であるように見える。お互いに対するコメントが、ちょっとした違和感の表出も含めてじつに率直で温かい。だから、それぞれの個性が粒だっているのに、えも言われぬハーモニーが感じられる。多文化化する日本の市民社会もこんなふうに成熟したいものだ。

そのハーモニーはどこから生まれるのだろうか。スタイルは異なれども、ドラマ・演劇を仕事にしていることからくるお互いへの共感からだろうか。それとも、何らかの形で学校とかかわりを持つ活動を続けているという共通点からだろうか。

もちろんそれもあるだろうが、わたしには二人のコーディネーターの存在が大きいように感じられる。学びの即興劇の世界を切り拓いてきた編集代表の武田富美子さんが、会場をつつむ信頼の輪の中心にいて、お互いを緩やかにつないでいる。教育方法学が専門の渡辺貴裕さんが、三人に軽やかに質問をなげかけて、この実験室をさらに刺激的な空間にしている。

ふーみんとたかさんは、わたしの研究仲間である。獲得型教育研究会で“参加型アクティビティの体系化と教師研修システムの開発”を推し進めてきたいわば同志である。本書の全体にただよう闊達な空気感とハーモニーは、いつも獲得研の議論を活性化してくれる二人の姿と重なってみえる。

ワークショップで急がずゆっくりと参加者の関係を近づけていくすうさん、「わからない」ことをゆったり味わってもらうゆりさん、相手の世界に一緒に入っていくはねちゃん。読者は、ライブ感あふれる本書のなかで、学校の身体、学校のコミュニケーションを相対化するたくさんの視点が、乱反射するように輝いていることを発見するはずである。

演劇的知と身体性-日本教育方法学会49回大会

台風26号の影響で大学が休校になり、ブログをアップする時間ができた。尋常でない忙しさが続いたから、今日でちょっとリズムが変わるかもしれない。

先週末、日本教育方法学会の第49回大会(埼玉大学)で6回目のラウンドテーブルをやった。共通テーマは「演劇的知の教育方法学的検討(1)」。演劇的知の概念を、いまのところ表象・実践・分析という三つのレベルでとらえている。これまでの5年間は「教育方法のトポロジー」を共通テーマにしておもに実践レベルの考察にウェートをおいてきた。これからは三つのレベルを串刺しにするセッションにしよう。そう考えて共通テーマを変えた。

共同研究が折り返し点にさしかかったという認識である。先陣をきってくれた宮原順寛氏(北海道教育大学)の報告「授業研究における身体性―演劇的知のパラダイム再考」が滅法刺激的だった。教育現象学からの提起である。

なにしろ12ページにおよぶ文章にスライドさらに実践場面のDVD試聴までつく意欲的なものだから、とてもここで整理はできないが、とくに心に残ったのが以下の点である。

まず議論の前提にかかわることだ。中村雄二郎の演劇的知の概念はしばしば近代科学への対抗軸(非合理の復権)として注目されがちである。だが、本来的には新しい統合原理であることにこそ着目すべきである。それはフッサールが現象学を統合原理にしようとしたことに照応しているだろう。

次に授業研究にかかわる以下の視点がチャレンジングだった。方法学研究の歴史的パラダイム転換というものを、吉本均氏の学習集団研究の蓄積を通して検討すると、次のような特徴が浮かんでくる。それは、パラダイムの転換が「主観と客観の解明」から「主観から主体への置き換え」の方向で おこなわれてきたということだ。そこでの”見失われた環”が、間主観性についての議論である。

これからは「主観客観問題の解明」にもう一度向き合うことからはじめて、主観客観の二元論を超克し、その基礎の上に、授業実践の間主観的な記述と考察がなされる必要がある。

最後に、難解な議論から一転して長崎県のA小学校の実践場面の報告・分析になるのだが、そこに授業の質的研究を丹念に続ける宮原氏のスタンスがみえてきた。とりわけ子どもたちが学びの場でしめす身体的共振に触れて思わず涙を流したというエピソードが紹介されたとき、ひげ面の観察者・宮原氏の人柄がそこはかとなく浮かんできて、会場から「いい話を聞いたなあ」という波動が起こった。

来年の広島大学大会では、中野貴文氏(熊本大学)が日本の古典教育の視座から提起してくれることになっている。いまから楽しみである。

名古屋大学の熊谷幸之輔像

名古屋大学病院と胸像 029

名古屋大学医学部で妻の曽祖父・熊谷幸之輔(1857-1923)の銅像と対面した。幸之輔は長く愛知医学校や愛知医専の校長、病院長をつとめていた人である。八事までは墓参にきても鶴舞に足をのばす機会がなかったから今回がはじめての対面ということになる。

熊谷幸之輔は東京大学医学部の一期生。28名の同期生のなかに森鴎外がいる。1881年に大学を卒業すると後藤新平校長の招きで名古屋に赴任する。幸之輔の身分は一等教諭、外科医長。医学士が貴重な時代とあって、給与も後藤校長をはるかにしのいでいたらしい。

ほどなく幸之輔の身の上が急変する。後藤新平が板垣退助の岐阜遭難を機縁として東京に去り、26歳の幸之輔が医学校の校長と病院長を兼務することになったのだ。以来その職にあること33年、その間に2500名を超える医師を世に送り出している。

名古屋大学病院と胸像 034

ただ、名古屋大学史が“苦難の時代”と呼ぶ通り、熊谷校長の前半期は財政難などで経営が危機に瀕していたらしい。栄転の誘いを断って名古屋にとどまった幸之輔は、数々の苦難を乗り越え、愛知医専の鶴舞全面移転の事業を終えて退職する。

この胸像は、校長職を辞してまもない1918年に、校友会の募金によって愛知県立医学専門学校に建立されたもの。幸之輔の60歳ころの肖像ということになる。作者は帝室技芸員の新海竹太郎である。

基礎医学研究棟4階の飾り気のないホールにおかれた胸像は、想像していたよりもずっと大きかった。両脇に林直助博士と久野寧博士の胸像がまるで三尊形式のように並んでいるせいでよけいにそう見えたのかもしれない。ちなみに林氏は、幸之輔が亡くなったときの解剖執刀医である。

幸之輔像は、髭のある口元に強い意志が感じられる。面長な顔立ちに目鼻がゆったりと配置されているところは、義父の熊谷幸次郎(早稲田大学名誉教授)を経由してわたしの妻の面差しにつながっている。もう少し若いころの写真をみると、がっちりした体躯でそこに猪首気味の頭部がのっている。おそらく会う人に精悍な印象を与えたのではないかと想像される。

いまの幸之輔像は胸像だが、もともとは校庭の緑陰に建立された全身像だった。戦時期に金属供出にあい、戦後になってからいまの形で再建された。その除幕式に、小学生だった妻が義父にともなわれて参列している。

旧県立愛知病院の正門(大正3年)が現在も使われている

旧県立愛知病院の正門(大正3年)が現在も使われている

医学部史料室の親切で「鶴天学友会会報」と「関西医界時報」の追悼号をコピーさせてもらった。それをみると幸之輔は胃潰瘍で亡くなっている。「臨床記録」と「剖検記事概要」から、幸之輔が自分の脳と患部を病理学教室の標本とするよう遺言していることがわかる。

数々の追悼文が尋常でない熱気をはらんでいる。温厚の人、高潔なる人格、隠忍苦耐、慈愛、高遠なる理想、物質上において極めて淡泊、(外科手術の)霊腕妙手などの言葉とともにさまざまなエピソードが語られるからだ。

よく酒を飲んだらしいが「嘗て一度も如何なる宴席に於いても先生が乱酔されたことを見たことがありませぬ」という文章もある。幸之輔の葬儀には2千人をこす会葬者があり「中京空前の盛儀」だったという。

20本をこす追悼文を読んでみて、一筋の道ということばがどこからともなく浮かんできた。それで、なるほど幸之輔のこの生き方が熊谷家の家風のベースになってきたのか、と納得した。