日別アーカイブ: 2013/07/14

甘楽町と織田信雄

町屋通りのお休み処 明治時代の商家建築

町屋通りのお休み処 明治時代の商家建築 建物の前を滔滔と水が流れている

猛暑の合間をぬって、関越自動車道の富岡インターからほど近い群馬県・甘楽(かんら)町を訪ねた。清州会議で有名な織田信雄(おだのぶかつ 織田信長の次男 小幡織田藩の初代)とのかかわりから、この町のことがずっと気になっていたからだ。

天正18年(1590年)、33歳の信雄が秀吉によって秋田・八郎潟の近くに配流になった。わたしの生家から10キロちょっとのところだ。そして元和元年(1615年)、信雄58歳のとき、家康から大和国宇陀郡3万石と上野国甘楽郡2万石を与えられている。これが有為転変の人生がようやく静穏にいたる場面である。

以来、織田宗家8代が明和4年まで180年間小幡藩を統治し、織田家が出羽高畠藩に転封させられたあとは、幕末まで松平家4代の時代になる。

織田信雄は小幡藩の実質的経営を四男・信良に任せ、京都で余生をおくった。だから、本人の意向がどれくらい統治に反映しているのか不明である。ただ、池泉回遊式の庭園・楽山園、武家屋敷地区を網目状に走り藩士の家すべてに水を供給する水路など、織田家時代の遺構がいくつか残っている。

武家屋敷地区の景観の特徴となっている矢羽積の石垣もそうである。さして大きくない緑色片岩を丁寧に積んだものだ。身の丈にたりない高さの石垣がえんえんと続く。古い建物がほとんど残っていないかわりに、これで藩政時代の地割が分かる。

山田邸の石垣 御殿前通り側 中小路通りにも同じ長さの塀がある

山田邸の石垣 こちらは御殿前通り側の景観 中小路通り側(画面奥を左折した側)にもさらに長い塀が続いている

藩邸につながる大通り―御殿前通り、中小路通り―は道幅が7間ある。中小路通りで石垣にみとれていたら、年配の男性に声をかけられた。武家屋敷の一角に住まっている山田さんである。庭の手入れの途中で当方の姿をみかけたらしい。ご先祖が藩の勝手奉行だったそうで、屋敷内に「喰い違い郭(くるわ)」という屈曲した石垣の遺構をもっている方だ。

山田さんがいうには、明治になってから、このあたりの藩士の多くが帰農して養蚕農家になった。中小路通りの半分もごく最近まで畑として使っていたらしい。きっと困窮した家も多かったろう。代わって繁栄したのは町屋地区で、7間幅の短冊形の屋敷に大きな土蔵を構えた養蚕農家が何軒もつづく街並みがいまも残っている。

楽山園 南の築山からの眺め

楽山園 南の築山からの眺め

この小さな城下町最大の見どころは藩邸址に隣接する大名庭園・楽山園である。発掘調査をおえてから、復元に10年の歳月をかけ、昨年3月に公開をはじめた。もう5万人以上が訪れたというから、群馬県内では有名なプロジェクトに違いない。さすがに築山も四阿も植栽もいまできの雰囲気である。

それだけいうと、まるで余韻に欠ける庭だといっているように聞こえるが、決してそうではない。芝生の緑がめだつ広々した庭園には、スカッとつきぬけた明るさがあり、気分が晴れ晴れする。借景を隠す近代的な建物がなに一つ見えないからである。その贅沢さは得難いものだ。

このあたりでは、下校時の小中学生がだれにでも「こんにちは」と元気にあいさつする。それに出会う人がみな驚くほど親切である。町中には水路の水音が心地よく響いている。そんなこんなで、こころに温かいものを感じて帰途についた。