土蔵の屋根の葺き替え工事をはじめるので、週末に秋田に帰った。享保年間の棟札がある米蔵だから、270年ほどはたっているだろう。いまや満身創痍という言葉がぴったりの外観だが、飢饉のおりには、貯蔵された雑穀で、近隣の人々の露命をつないだという言い伝えがある。
秋田藩は、江戸時代の270年間に40回も凶作にみまわれている。幕末にあった天明の飢饉は4年間、天保の飢饉は6年間続いた。領内各地に藩が「施行小屋」をつくって救済をはかったものの、たくさんの餓死者がでている。
飢饉の難儀について、大叔母たちからよく聞かされたが、『町史』(1986年)の年表にも、そうした家族の伝承を裏付ける記述があらわれている。
日本海中部地震(1983年5月26日)で、この土蔵も被災した。津波による死者が100名以上、家屋の全半壊3000戸をこすというすさまじい地震で、発生当初、報道機関が「秋田沖地震」と呼んだ通り、とりわけ秋田県内の被害が甚大だった。
母屋にいた母親が「もうダメかと思った」というほどの激しい揺れだったらしい。突然、北側の白壁が「どすんっ」という鈍い音と砂煙をともなって大崩落する。しかし、運よく倒壊は免れた。地震で土蔵が全面倒壊したという話を聞かないところをみると、よほど頑丈なつくりなのだろう。今回、屋根をはがしてみたら、天井裏全体も厚い土壁で覆われていることがわかった。
建物の大きさは4間と2間半ほどではないか、と大工さんがいう。子どものころはずいぶん大きく感じたが、いまみるとさほどの大きさではない。鉄格子のついた明かり窓が東側にひとつあるきりだから、中二階のある内部の吹き抜け空間は、昼でも真っ暗である。
昔は江戸時代の肝煎文書も収蔵されていた。米蔵と文庫蔵を兼ねていたからだ。私は文書より和綴本の方に興味があり、ときどき南総里見八犬伝などを文庫から引っ張り出して、窓際の明かりで眺めたりした。こうした多機能空間になったのは、幾棟かあった建物がいつのころか統合されたからだと聞いたことがある。
いまは全ての役割を終えてしまった建物だが、ある時期まで、この地域のタイムカプセルだったといえるだろう。
以前から、チョウナ仕上げの太い梁がつくりだす空間の迫力を感じ取れる活用法を考えているのだが、まだ成案はない。父親が廃棄せずにとっておいた農具の展示スペースもいいかな、と思う。昭和期の農業技術史に触れられるからだ。
ただし、こればかりはリタイア後の仕事になりそうである。