月別アーカイブ: 5月 2013

研究大会まで2週間

3号館の3-5階が会場となる

3号館の3-5階が会場となる

異文化間教育学会第34回研究大会がいよいよ2週間後に迫り、準備作業も佳境に入ってきた。事前の参加申込数が200名を超えているから、おそらく300名規模の大会になるかと思う。メイン会場の3号館は、エスカレーターのついたキャンパスでいちばん大きな建物だが、そこのフロアを3つ分フル活用する。

特定課題研究、個人発表、共同発表、ケースパネル、ポスター発表を合わせると、2日間で86本の研究発表が行われる。そのほかに大会前日の「プレセミナー」と2日目の「公開シンポジウム」が開催校企画になっているから、そちらの準備も相当に忙しい。「懇親会」でも若い学生たちが躍動する出し物を用意している。

そんなこんなで、研究室のスタッフ、獲得研メンバー、ゼミの学生・院生チームという3つのグループあわせて50人以上が準備作業にあたってくれている。

いつもの研究大会と大きく違うのは、獲得研が大会運営に全面協力していることだ。その結果、ホスト側の年齢構成がとても広くなり、それが研究大会の雰囲気にも反映する。学部の2年生から獲得研のベテランまで、スタッフの間にいったいどんなコラボが生まれるのか、これもまた見ものである。

一つの研究会から20人もの人数がでて大会運営にあたるのはこれまで例がない。それも、北海道の藤田先生や熊本の中野先生まで集まってくれるというから凄い。

これは当たり前のことだが、こうしたプロジェクトの実現には、研究室の全面協力はもちろん、庶務課、管財課、講師室、保安室、百周年記念館など、いろんな部署の協力が不可欠であることを改めて認識した。

ポスターセッションむきのパネル21枚をもとめてキャンパス内をあちこち探索するうち、こんなところにこんな施設があったのかという発見もあった。

4つ目の倉庫でおあつらえ向きのパネルをみつけたのだが、灯台下暗し、そこは研究室にいちばん近い倉庫だった。これまでいかに周囲を観察していなかったかという話なのだが、キャンパスの様子に少しだけ詳しくなったことも、私にとっては大会の副産物である。

47歳の教え子たち

下高井戸の「なんくるないさ」で、ICU高校の4期生(1983年度卒業)と飲んだ。佐藤琢三くん(学習院女子大学教授)と松尾洋一郎くん(スポーツ・インストラクター)のふたりは、私が3年4組を担任したときの生徒である。ほぼ30年ぶり。もう47歳になるという。

ことしサバティカルをとった日本語学の荻野教授の代講で、佐藤くんが文理学部に非常勤講師できてくれることになり、では一杯となった。彼はいまやどっちが年上かと見紛うほど、落ち着いたルックスになっている。サッカー部にいた松尾くんは、相変わらずスリムである。

二人は当時のことを実によく記憶している。彼らの話を聞いているうち、長いあいだ記憶の底に沈んでいた私自身の気分が、ハッキリと甦ってきた。当時の私は32歳。政経レポートの実践がようやく軌道にのった頃である。

その一方で、研究生活と教育実践のあいだで意識が引き裂かれ、矛盾がピークに近づきつつあった時期でもある。まだ草創期のカオスが残る学年の学年主任でもあったから、とにかく気忙しく、とても落ち着いて研究などできる状況ではなかった。

佐藤くんによると、朝のSHRで、研究仲間が結婚したという話をしたらしい。「ああ研究しているんだ」と思って、その言葉が心にひっかかっていたという。HRでは、諸連絡のあいまにちょっとした週末のエピソードなど話すようにしていたから、そのことだろう。「研究」という言葉に反応したところが不思議で面白い。

話題が「政経の授業といえば」になったら、佐藤くんがまずルソーの名前をあげ、松尾くんが「エミールでしょ」といった。ほう、そうか、という感じ。ホッブズ、ロック、ルソーなど啓蒙期の政治哲学は、民主主義思想の定番だが、ヨーロッパで撮りためたルソー行脚のスライドをみせたり、年表を用意して彼の生涯を語ったりと、一際ちからをいれてやっていたから、この反応は嬉しかった。

いま文理学部には、佐藤くんをふくめて3人のICU高校の教え子が非常勤講師できてくれている。今回は佐藤くんたちと話したが、これを機会にほかのメンバーともゆっくり話してみよう、と思っている。

ブログが1周年に

5月3日で、ブログ開始から1年経った。この間にアップした記事が95本。4日に1本の計算になる。おつきあいいただいた皆様、ありがとうございます。

1週間に1本書ければ御の字だろうと思っていたので、この数字はできすぎである。いくらか要領がわかってきたとはいっても、さすがに2年目もこのペースでいけるとは思えない。1980年代からの「自己トレーニング」については、20年間というタイムスパンが長すぎて、やはり一気に書ききることができなかった。

このブログもそうだが、昨年から新企画としてはじまった「獲得研レクチャー・シリーズ」もそして「高校生プレゼンフェスタ」もきわめて順調に歩を進めている。

今年度のレクチャー・シリーズも大好評のうちにはじまり、11月23日(土 祝日)にはよりパワーアップしたプレゼンフェスタが実現しそうだ。これからどんなインターフェイスがみられるのか、ワクワクものである。

当面の課題は、1か月後に迫った異文化間教育学会第34回大会。その準備も、準備委員会事務局長の和田さんはじめメンバーの大奮闘があって佳境に入っている。

そんなこんなで、次の1年も、ゆるゆるとブログを書き続けます。

3.11と短歌の力

獲得研レクチャー・シリーズ第5回のスピーカーは、辻本勇夫氏(文化交流工房代表 前国際交流基金NY事務所長)だった。4月20日の講演「Voices from Japan 日本の声を世界に届ける」にふれてから、ずっと表現の回路ということについて考えている。

辻本さんは、朝日歌壇でとりあげられた被災地の短歌を、新古今和歌集を専門にするアメリカ人研究者と協力して翻訳し、ニューヨーク、カンザス、サンフランシスコ、東京で展覧会をひらいてきた。きっかけの一首は、美原凍子さん(福島県)の、次の作品だったという。

生きてゆかねばならぬから 原発の 爆発の日も 米を研ぎおり

歌こそ「日本人の胸のうち」をつたえるものだという着眼は、長く文化交流にかかわってきた辻本さんの卓見である。私たちはいま100首を超える短歌を日英両語でよむことができる。

辻本さんはこの講演で、人はなぜ苦難のときに詩をつくるのかと問いかけ、詩が飾りものなどではなく人生にとって本当に必要なものだからではないか、という。

ふるさとは 無音無人の町になり 地の果てのごとく 遠くなりたり

「ただいま」と 主なき家に 声かける 懐かしき匂いに 声あげて泣く

これらの歌を書いた、半杭蛍子さん(福島県)は、ASIJの高校生たちに「震災からもう2年目の冬をむかえるんですけど、寂しさが薄れるのかなと思ったら、まだ薄れないのね。かえって悲しみが深くなって。そんなどうしようもない気持ちを短歌に表すことによって、自分がすごく救われるの」と応えている。(東京展パンフレット 33頁)

号泣して 元の形に もどるなら 眼つぶれる までを泣きます

この歌を書いた、加藤信子さん(岩手県)も、こう応えている。「避難所では全員が同じ状況でしょう? 皆が家を流されたっていう思いをしている。私だけ流されたなら、おいおいと泣くけれど、みんな同じだから、日本人は感情を表せない。・・・ああ紙と鉛筆が欲しい、食べるものより、私は紙と鉛筆がほしいと思ったのね。1週間目ぐらいに紙と鉛筆が手に入りました」。

加藤さんは続けて「私が一番望んでいるのは、やっぱり終のすみか。終のすみかに落ち着きたいの。「ここでもう安らかに死んでもいい」っていうような場所がほしい。そこで死にたい」という。(同 27頁)

辻本さんは、こうした一連の震災詩の成立は、短歌という形式(箱)があってのことではないか、という。文化的伝統のなかで育まれてきた、五・七・五・七・七の形式が、感情の表出を可能にしている。抽象化した表現を得意とする俳句に震災詩が少なく、「短くて長い」短歌に作品が多いのはそうした特徴によるからだ、とも分析している。

十月経て いまだ不明の 夫を死と 認めて従妹 ふるさとを去る

この歌を詠んだ三船武子さん(岩手県)は、こう応えている。「短歌はずっと作っていたのですけど、こんなショックなことがあると言葉も何も浮かびません。そうしているうちに私の短歌の大先輩が「何でもいいから言葉を書きなさい」といいました。そうすると不思議でね、五音か七音をつなぎあわせると短歌になるわけです。DNAでしょうね、日本人の。書くということ、手で書くということは心を働かせるっていう作用があるということを実感しましたね」。(同 39頁)

辻本夫人の京子さん(獲得研事務局)が、3.11の悲惨を伝える震災展としてではなく、歌人と読み手が心を通わせる場としてこの展覧会を構想したのだ、と語っている。31文字の向こうから、抜き差しならない状況におかれた、一人一人の人生が見えてくる。

その言葉の通り、この日わたしたちは、歌を読んでは泣き、感想を語っては泣き、歌人たちと辻本さんの交流の様子をきいては泣いた。

文化交流工房:HP http://www.voices-from-japan.org/ja/index.html

時間の堆積

週末に、生家の管理で秋田に帰った。東北地方は桜の開花が遅いと聞いていたが、想像以上である。北上市で秋田道に入ると、湯田町あたりの田んぼがまだ一面の雪におおわれ、折からの雨で視界が曇るほど靄が立ち込めている。

生家の花も遅れている。5本の梅の木の一本がわずかにほころんでいるが、山桜2本ははまだ固いつぼみのままだ。冬枯れの気配が漂うぶん、実生で芽をだしたヒバ、椿、オンコ、杉の若葉や、庭を行き来する野生のキジの赤と緑の装いがいっそう鮮やかに感じられる。

これまでじっくり眺める余裕がなかったが、今回は、どうしてか厳しい冬を耐え抜いた古木の樹皮にこころがひかれた。

梅にできた巣穴 鳥の姿はみえない

この梅の木が立ち上がった 巣穴に鳥の姿はみえない

農家の庭には実物(みもの)が多い。わが家でも屋敷の周囲に柿の木が10本ばかり植わっていた時期がある。ことに西庭の梅は、子どものころ何キロも梅干しの材料を供給してくれた。70年代の前半に台風で倒れたものの、どんな加減か自力で立ち上がったと、母親が驚いて東京まで電話してきた。いまはさすがに満身創痍である。おそらくアカゲラだろう、キツツキが大きな巣穴をつくっている。

ヤマナシの幹

ヤマナシの幹

東庭の築山にあるヤマナシは、レッドデータブックで絶滅危惧種になっているものだ。幹の周囲が一抱え半ほどあり、これもたくさん実をつける。東北地方の救荒食だったのではないか。ただ、われわれ子どもにとっては存在感の薄い木だった。すでに実を食べる習慣がなかったからだ。いま幹の半分が空洞で、周囲の木々が風を遮ってかろうじて自立している。もし裸でたっていたら、とっくに姿を消していたにちがいない。

五葉松

五葉松

南庭のシンボルの五葉松は、10本の台木に支えられている。三八豪雪でてっぺんの枝が雪折れし、いたいたしい姿になった。雪国の五葉松というのは、肘をまげて掌いっぱいに大量の雪を載せるかたちだから、もともと負担の大きい姿である。ことしも雪が多くいくつか雪折れした。枝の一部が白骨化しているところもある。いまも樹勢はさかんだから、帰省のたびに「頑張れよ」と心で呼びかける。

ヤマナシ これは一昨年の写真

ヤマナシ これは一昨年の写真

生前の父親は、自分が手入れした木の根方に腰をおろし、ゆっくり煙草をのむのを最上の喜びとしていた。山持ちの二男に生まれ、小さいころから植林を続けた人の習慣である。よくいっていたのは、樹木にそれぞれ違う霊気のようなものがある、ということだ。父親から管理を引きついで10年になるが、残念ながら、私にはそれを味わうセンスがない。

ただ、さすがに私でも、ごつごつした木肌に触れていると、どこか厳粛な気持ちになる。指先の感触とともに、家族の歴史や地域の暮らしが自然に甦ってくるからで、それが時間の堆積を感じる、ということなのだろう。だからこの庭は、生きた博物館の役割もしている。