実践報告を書く(2)

日大の系列校で国語の教師をしているKくんが、研究室を訪ねてきた。7年前まで大学院のゼミをとっていたひとだ。中1から高3まで担任をもちあがり、一通り学校の様子がわかったので、これから実践報告・論文の執筆に挑戦したいという。

実践を言語化することは、自分の歩みを確認するもっとも良い方法のひとつだ。ただ、どんな職場でも論文の執筆が職業的義務とされているわけではないから、トレーニングをうける機会にめぐまれないのが普通である。

そのことからくる困難について、以前書いたことがある。ちょっと長くなるが重なる部分を引用しておこう。(「高山実践に関して」佐藤信編『学校という劇場から』論創社 2011年 所収:改行を変更してある)

「実践報告を書くのはとても難しい。授業の「全体像」を原稿用紙30枚で伝えようとしたらなおさらのことだ。文章の構成やポイントの置き方といった問題を脇においたとしても、授業実践を成立させている要素にまんべんなく言及しておかないと、どうしても独りよがりの文章に見えてしまう。

その要素というのはおおよそ以下の6つである。すなわち、①授業のねらい、②実践の枠組み(カリキュラム、学習環境、生徒側の準備状況など)、③教師側の働きかけ、④学びの場で実際に起こったこと(場の力学、応答の様子など)、⑤学習者側の変容、⑥実践を通して得られた知見、である。このうちのどれが欠けても、読み手の方では「何かが欠落している」という印象を受けてしまう。

ただ、本当の難しさはそこではない。よく使われる比喩に「授業は生もの」という言葉がある。一回性、即興性、偶然性に支配されていてシミュレーション通りには進まないものだが、それがまた授業の醍醐味でもあるということだろう。カリキュラムに沿って進んでいくうちに「授業のねらい」そのものが変質してしまうことも決して珍しくない。

大きな困難は、こうした授業という<教師‐生徒、生徒‐生徒>の“関係性が営まれる場”のダイナミズムを、教師側の視点からどう記述できるのかという問題である。

この困難には二つの側面が含まれる。一つは、「実践者が実践を記述する」ことに伴う客観性の担保という問題である。“教室の閉鎖性”に対する疑念から、「教師の主観的願望をもとに資料をつぎはぎして“物語”をでっち上げることだって可能じゃないか」という高飛車な物言いをする研究者がいることも確かである。報告者のモラルに関わるものだが、これはむしろ授業実践だけでなく調査研究などにも通底する問題と考えるべきだろう。

もう一つの側面は、オリジナルな文体の獲得という問題である。授業実践を言語化するという行為は、多様な活動、多声的な語りが交錯する空間の意味を解きほぐし、言葉で再定義することである。授業を企画し運営する技量と授業実践を記録し文章化する技量の間には深い関わりがある。

しかし、だからといって、必ずしも両者がパラレルに向上していく訳ではない。授業空間のダイナミズムを「書き言葉」で表現するのは、誰にとっても容易な作業ではないからだ。対象と一定の距離を保ち(距離感・観察眼)、諸要素の配置を工夫し(構成力・再現性)、学習者の内面の変化をリアルに記述する(イマジネーション)文体は、意識的なトレーニングなしに身につくものではない。」

Kくんは、大学院で思想研究をしていた。教える立場になってみて教育方法に関心を持たざるをえなくなったらしい。「先生のあとをおいかけている気がします」というが、Kくんの実践研究への注目は、研究的志向をもつものの自然のなりゆきだろう。

実践研究には、純粋な文献研究とちがう種類の洞察力がいる。研究の成熟にも時間がかかる。一朝一夕にはいかないかもしれないが、その意気込みがなんとも頼もしい。

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