月別アーカイブ: 2月 2013

第12回高校生プレゼン・フェスタ(1)

東日本大震災で中断していた「高校生意見発表会」が、「高校生プレゼン・フェスタ」に姿をかえて復活する。東京・埼玉の高校生が、ランダムにチームを組み、その場でもらったテーマでグループ・プレゼンテーションを準備し、発表者にもなり観客にもなる、という新しい試みだ。(3月20日・祝日 文京区の跡見学園中学高等学校)

もとになった「高校生意見発表会」は、1999年から都立工芸高校や跡見学園を会場として、年一回開かれてきた。「見て、聞いて、感じて! 私の経験、私の提案」という共通テーマのもとで、これまでに235名の高校生・留学生がプレゼンテーションに挑戦している。

この企画は、一人の企業人の熱意からはじまった。小石川ロータリークラブの役員だった太田幹二さん(科研製薬会長、太田記念美術館館長 故人)である。海外の若者をホームステイさせた経験から、留学生もまじえて若者同士の交流をすすめたいと考えたのだ。太田さんが東京都教育委員会に相談にいき、そこから中野佳代子さん(国際文化フォーラム事務局長)そして私へとバトンがつながり、3人のタッグでこの企画がはじまった

そんな経緯だから、現場主導でやられているいまのやり方とは運営形態もずいぶん違っていた。東京都第4学区校長会(文京区、板橋区、北区)の会長さんの学校が、毎年持ち回りで幹事校をつとめる方式である。発表会当日には、ロータリークラブの正装をした年配の企業人がズラリ並んで若者たちをでむかえる。

東京都の組織替えがあり、いまは校長会そのものがなくなっている。変わっていないのは、プレゼン形式の多様性である。NHKの「青年の主張」の形式でもよいのだが、せっかくだから、演劇的手法やダンスなど全身を使ったプレゼンにも挑戦してもらおう、と考えた。それで参加校向け説明会では、「エデュケーション・ナウ」のビデオを使い、ポスターセッション、集団スピーチ、架空座談会など、さまざまな表現のスタイルを見てもらうことにした。

事業の単年度主義をとる小石川ロータリークラブが、同じ事業を7年間もつづけたのは異例のことらしい。4年目に椿山荘の例会で、「高校生意見発表会に期待すること」というテーマのスピーチを頼まれたのは、継続の意義を確認するためだろう。太田さんの牽引力の賜物だが、継続を可能にしたのは、高校生のプレゼンテーションの素晴らしさである。

海外に飛び出して気づいたこと、留学生がみた日本人の行動様式、引きこもりから抜け出した経緯など、さまざまな経験が壇上で語られる。彼らのひた向きな姿勢に、人生のベテランたちが触発され、毎回“今どきの若者”のイメージがひっくりかえされた。

いまは世をあげてプレゼン・ブームである。いたるところでプレゼンテーション能力の必要性が叫ばれている。しかし、私たちのコンセプトは、ただ能力をたかめるというだけでなく、参加者同士が交流を楽しみ、さまざまな表現スタイルにふれることにある。意見発表会からフェスタへの移行は、その姿勢をより鮮明にしたものだといえる。

実践報告を書く(1)

「エデュケーション・ナウ」(1987年)がきっかけで、雑誌・新聞の原稿依頼が少しずつふえていった。このころから90年代にかけて、実践をベースにした原稿をかれこれ30本ほど書いたかと思う。この数字には、単行本、紀要論文、雑誌連載などふくめていないから、遅筆のわたしとしては、そう少ない数ではない。

まだ市販の教育雑誌に勢いがあって、発表の機会に恵まれたことが大きい。『ひと』(太郎次郎社)、『高校教育展望』(小学館)、『教育』(国土社)、『高校生活指導』(明治図書)など、「エデュケーション・ナウ」や「政経レポート」の実践を発表した雑誌は、どれも元気だった。『ひと』の場合には、原稿用紙40枚をこえる文章でも載せてくれたから、いま考えても良い時代である。浅川満さんをはじめ編集者の人たちが、わたしの獲得型授業論を鍛えてくれたことになる。

締切りを守れなかったことはあるが、幸い原稿をおとしたことはない。複数の大学の非常勤講師のかけもちもしながら、よくできていたと思う。それでなくとも〆切型人間のわたしのこと、楽々ハードルをクリアしたわけではない。

なんどか修羅場があったが、1991年暮れの修羅場はことに深刻だった。郵送やファックスで原稿をやりとりしていたころの話だ。小学館の読書雑誌『本の窓』の名物編集長・眞杉章さんから、毎回おどろくほど丁寧な原稿依頼が届いた。封書にペン書き、ことによると依頼原稿の枚数とさして違わないのではというくらいの文章である。いきおい、こちらも執筆に力がはいる。

このとき依頼されていたタイトルは「学校教育と民主主義」だ。材料をそろえたから、書けるだろうと踏んでいたのだが、なかなか終わらない。とっくに〆切は過ぎた。そうこうしているうちに、関西旅行に出発する朝がきてしまった。

久しぶりの旅行が楽しみで、妻はずっとまえから上機嫌で計画をねっている。関西に移住した仲人の倉橋俊一先生夫妻と落ち合い、神戸の南京町で食事をする約束ももうできている。

だが、いくら焦っても書けないときは書けないものである。手書きだから修正にも時間がかかる。鋏とのりで、切りばりしているうちに、原稿が分厚い手帳のようになってしまった。書きかけの束をかかえ、身は東京を遠ざかる。暗澹たる思いだ。このときばかりは、井上ひさしもかくやという追い詰められた心境になった。

翌日も、朝から、大阪のホテルのカフェに陣取って書きつづける。わたしに「まもなく書きあがるよ」といわれた妻は、コーヒーを飲みながらじっと待つしかないのだが、いかんせんはかがいかない。やっと夕方に脱稿し、神戸の食事会にかけつけた。あれほど楽しみにしていた妻は、旅行期間の半分をただの待ちぼうけで過ごしたことになる。

夫婦に歴史あり。こんな失敗を重ねては、だんだん強いことがいえなくなる。それで今日にいたっている。

藤平伸の詩情

好きな現代陶芸作家をきかれたら、昨年2月に89歳で没した藤平伸をまっさきにあげる。京都五条の製陶業の家の次男に生まれ、河井寛次郎が名づけ親だが、どちらかといえば遅咲きの才能である。4年ほど結核療養をしていたせいで、本格的に陶芸をはじめたのが30歳をすぎてからなのだ。

ギャラリーカフェの藤平作品 (現在改装中)

ギャラリーカフェの壁画 (カフェは現在改装中)

藤平伸の作品には、繊細さと勁さが同居している。薄い器体に透明感のある呉須がいちめんにかかった角皿がある。それに細い銀の把手がついている。フォルムもマチエールも精妙だが、口縁部がつくりだすしなやかな線が作品のつよさを象徴している。

いつかまとめて作品をみたいと願っていたら、やっと2004年にその時がきた。智美術館の「藤平伸の芸術 追憶の詩」という展覧会である。オブジェを中心に82点の作品が並んでいる。

わけても「梟の家」(33×61×8 1998年)の構成力にひかれた。四角い陶板の一角を、斜めに張りだした幅4センチの屋根と屋根を支える2本の柱で区切り、そこを梟の家に見立てている。柱の幅は、わずか2、5センチ。柱と柱の間を、ゆるやかに波打つ細いワイヤーでつないでいる。そのワイヤーの右端あたりに、ぽっちゃり四角い像高5センチの梟が止まっている。

陶板も家も、織部釉一色の暗い色調である。これと対照的に、ワイヤーに明るく透明感のある呉須がかかっているせいで、中空に一本の線が浮き上がってみえる。

デフォルメされた主人公は、左目を大きく見開き、右目をつむってワイヤーをにぎっている。梟の全身にワイヤーよりもさらに明るい呉須がかけてあり、よく見ると、微細な平行線が幾本もひかれた羽根と足の部分に、わずかな鉄釉がみえる。

この作品の他にも、「家族」「船長と航海士」など、デフォルメされた国籍不明の人物がでてくるオブジェがいくつもある。どれも見る側の記憶を刺激し、心の中に大きな物語を生みだしていく。

鳥や魚がよくモチーフになる

藤平作品では鳥や魚がよくモチーフになる

藤平作品にただよう詩情のことがよく言われるが、土と釉薬と焼成を自在に繰ることなしに詩情はうまれない。細部へ目配り、微妙な色調の変化、細くてつよい線など藤平作品の特徴は、長年の修練の結果であって、窯の偶然が生みだす効果はその先にあるものだろう。詩情は、高い技量と精神性が一体となったところにだけ生まれる。

京焼の伝統から離れているように見える藤平のオブジェにも、線をだいじにする日本美術の特質がいきているし、京都が培ってきたセンスが凝縮されている。

もう20年くらい前だろうか。截金の西出大三さん(人間国宝)の銀座和光の展覧会にいったら、なんとも愛らしい筍がある。西出さんが、隣の家の孟宗竹が境界をこえて芽をだしたのをモチーフにしたのだと説明してから、すこし間をおいて、「あとで食べちゃいましたけど」といたずらっぽく笑った。その間合いに温かい人柄がにじんでいて、作品だけでなく作者までいっぺんに好きになった。

藤平さん本人に会ったことはない。ただ、西出さんと共通の温かさを、実家のひとたちに感じる。一昨年の夏、京都大学の集中講義を終えてひさしぶりに藤平ギャラリーを訪ねたときのことだ。ギャラリーはバス停五条坂のすぐそばにある。焼物市の準備でごったがえす店頭で、女主人の口から「こんど伸がここにもどってくるんですよ」と聞いた。その口調に、まるで都会に働きにでていた家族がようやく仕事をたたんで帰ってくる、といっているような自然な響きがあった。

いま藤平伸さんの花瓶を居間に飾っている。瓢形の呉須六角花瓶で高さ12センチ、おそらく80年代頃の作品だろう。わたしはこの小品をながめて、飽きることがない。

エデュケーション・ナウの偶然

1987年の春学期のある日、「政治経済演習」(3年生)の仲良しコンビが研究室にあらわれて「姉たちのやった研究発表を、わたしたちもやりたいんですけど」といった。それが芳岡倫子さん(通訳・翻訳家 旧姓:水谷)と富田麻理さん(西南学院大学准教授)だった。快活な二人は、長い髪で色白、音楽好きなところまで似ている。

研究発表というのは、芳岡さんのおねえさんたちゼミ生有志が、84年の学校祭でやった展示企画のことだ。飢餓問題など世界の食糧事情から穀物メジャーの世界戦略までを視野にいれて、日本の食糧のこれからを考えるという硬派な取り組みである。

二人は、申し分のないリーダーだった。紆余曲折はあったが「エデュケーション・ナウ」という企画名で、模擬裁判をやるところまでこぎつける。模造紙60枚を貼りめぐらした展示教室を法廷にアレンジし、当日の観客に傍聴人の役をやってもらう趣向だ。

本番は9月23、24日だが、9月20日(日)の朝日新聞に「海外からの帰国高校生 体罰テーマに模擬裁判」という予告記事が掲載される。リハーサルの写真まではいった4段の大きな記事が、都内版、むさしの版、多摩版にいっせいにのったのだ。

記事本文で、新設の中学に赴任してきた教師が授業中にトランプ遊びをしていた生徒をなぐり聴覚障害を引き起こす設定の裁判であること、三人の裁判官役が合議してその場で判決をだすこと、富田さんがバンクーバーのサマースクールで経験した模擬裁判がヒントになったこと、法廷見学で多摩川水害訴訟の控訴審判決を傍聴したこと、などの詳細を伝えている。

おかげで学外の参観者がたくさん集まり、立ち見がでる盛況だった。3日前の日曜日に記事がでたのには理由がある。藤崎昌彦記者の来校は19日のこと。前日の18日に昭和天皇の腸疾患が判明して、マスコミも社会も騒然とした状態になっていたときだ。それで、学校祭当日の紙面を確保できる保証がないから、と配慮してくれたのだ。

この偶然がなければ、TBSテレビ、テレビ朝日の全国ネットで模擬裁判が紹介されることもなかっただろうし、『ひと』に実践報告を書くこともなかっただろうから、獲得型授業論の誕生ももっと違った形になったはずである。教師人生の歯車が、ガタンと大きな音をたてて回転をはじめたのがこのときである。

海外教育体験に学ぶ (1)

1989年の3月に、『毎日中学生新聞』の清家麗子記者から手紙をもらった。出版されたばかりの『世界の学校から』を面白く読んだ。ついてはうちの読者にも帰国生の海外体験を紹介してもらえないか、という依頼である。

それで5月から翌年3月まで、「外国で学ぶ―ICU高校、帰国生の声から」を連載することになった。週1回、1200字。内容は当方におまかせである。

素材はたくさんある。なにしろ政治経済で3年生全員(6クラス240名)を担当し、毎年「教育体験アンケート」をとっていたからだ。

じかに話してみたいと思う生徒と、授業のあいまをぬって1時間ほどおしゃべりする。原稿化したら、内容に誤りがないか本人にチェックしてもらって清家さんに送る。こうして書いた総計46本の原稿に、24か国の帰国生の体験がつまっている。締め切りに追われ通しだったが、その代り、この作業が「文章トレーニング」になった。

もう一つ大きかったのは、生徒との対話を楽しんでいるうちに、わたし自身の教育観が揺さぶられる経験を何度も味わったことである。ここでは、「授業における表現活動」の意味について考えさせてくれた若林桂さんの記事を再録してみよう。(一部省略。見出し「自分をどう表現するかを重視する授業内容」は新聞社によるもの。)

ギリシャは世界中からお客さんを集める一大観光国。日本からもたくさんのお客がおしよせますが、長く住んでいる日本人の数はそう多くありません。若林桂さん(3年)は、小学校4年から中学3年までの5年間、首都アテネで暮らし、アテネ・アメリカン・コミュニティー・スクール(幼~12年生、生徒数1300人)に通いました。(中略)

この学校は“自分をどう表現するか”ということをとても重視します。6年生では、歴史上の出来事を3分間の寸劇に仕立てる勉強をしました。「マルコポーロが帰国後に出会った苦難とか、スコットランド女王メアリーの処刑など、自分たちで場面を選んで、シナリオや衣装作りをするんです」。こうしてクラスの40人が、かわるがわる主役になってドラマを上演しました。

8年生の「スピーチ・クラス」も多彩な内容でした。ディベート、模擬裁判、ジェスチャー・ゲーム。それに生徒が新聞記事を紹介してから、それについて自分で解説やコメントをつけるという形式の授業もありました。何かモノについて調べ、5分間スピーチをしなさい、という授業では、若林さんも“ボールペンの歴史と構造”について発表しました。

もっとも、苦労もありました。最初は英語ができず、ただ始終にこにこしていたのです。ある日カウンセラーに呼ばれ、「何か悩みはない?」と聞かれました。思い当たることがないので、「いいえ」と答えると、今度はお父さんが学校に呼ばれました。「お嬢さんはなにも話さないので何を考えているのかわからない。家庭に問題があるのではないか」と言われました。

その話を聞いた若林さんはショックでした。「日本では“内気な子”と思われるだけなのに、ここではおとなしい子は“変だ”と思われてしまうんです」。それから意識的に自分を押し出す努力をするようになりました。

そして今は、「自分を素直に表現することも大切だし、ギリシャ人の持つ明るさもとてもいいな」と思うようになったそうです。(1990年1月16日付記事より)

若林さんの学校では、“全身で”表現しながら学ぶというスタイルが、どの学年でもとられている。わたしには、このことと表現しない子は“変だ”ととらえる発想が一つながりのものに思える。

「みんなに迷惑がかからないように、英語がうまくなってから発言しよう」という若林さんの良識は、われわれにとって親しいものである。では、日本でなら、おとなしくて手のかからない転校生と呼ばれるだろう若林さんの行動が、なぜ変にみえるのだろうか。

授業のなかで何かを表現することは、本人の表現スキルを高めるのに役立つ。それはもちろんだが、それだけではない。もっと大事なことは、何かを表現することが仲間をも豊かにする行為であり、それを通して学習コミュニティに貢献することを意味するということである。だから、いわゆる「いい意見」である必要はない。何か質問することや、たとえ間違った意見であってもそれを表明することは、授業内容がわかっていながらダンマリを続けるよりもはるかに推奨すべき行為なのである。

こうしたエートスが、若林さんの学校の参加・表現型授業をなりたたせている。逆にいえば、授業で手をあげて質問した子が、周囲から目立ちたがりととられるような雰囲気がある教室では、たとえ教師が表現型の学習技法をとりいれたとしても、そうかんたんには浸透しない、ということを示している。

まずはコミュニケーションが成立する土壌を耕す必要がある。若林さんの体験から、そんなことを考えさせられた。

秋田県教育研究発表会

受付 正面は公演会世話役の寺田先生

受付 正面は講演会世話役の寺田先生

第27回秋田県教育研究発表会(2月7日―8日 秋田県総合教育センター)に参加して、県の教育界の底力を感じた。

県内から350名がエントリーし、教科、総合、道徳、特別支援教育など「分野別研究発表」だけで100本近い報告がある。初日が公立高校の前期選抜の発表日とぶつかったにもかかわらず、この数字なのだという。

県外からの参加者も多彩で、東北はもちろん石川、岡山、熊本、宮崎まで及んでいる。あいにくの天候とあって、飛行機と新幹線を乗り継ぎ、10時間かけてきた人もいるらしい。

わたしは初日午前の講演会を担当した。いただいた演題は「自立した学習者を育てるために―アクティビティを活用した授業づくり―」である。風登森一先生(総合教育センター所長)がスピーチで指摘したのは、“主体的に学ぶ子どもを育てる”というセンターの提言と、参加型アクティビティの体系化と教師研修システムの開発という獲得研の研究テーマがピタリと重なっている、ということだ。

今回は、講演時間の半分をワークショップにあてることにした。大人数が、固定座席の講堂で、一斉にアクティビティをする。わたしにとっても大きなチャレンジである。講演冒頭の「あっちこっち」からはじめて、「指ウェーブ」「負けジャンケン」「2つのホント1つのウソ」と続く。メインはCMづくり「3枚のフリーズ・フレーム(静止画)で秋田を紹介しよう」だ。4、5人のグループでCMをつくり、別のグループとペアになって作品をみせあう。

わずか20分で制作から鑑賞まで到達

わずか20分で制作から鑑賞まで到達した

講堂の通路、階段、外廊下で、いっせいにシーンができあがっていく様子は壮観だった。最後に演壇で、県内、県外、混成の6グループが出来ばえを披露してくれたのだが、なんと来賓の教育委員チームまで登壇したのにはビックリ。お米が実り、稲穂がたれ、やがてごはんやお酒になっていく様子を一枚の絵で表現するチーム、竿灯祭りや大曲の花火で夏の秋田を表現すチームなど、多彩な表現にふれて、会場は大盛り上がりである。

4人のリハーサル 乗客・新幹線・なまはげ役で

4人のリハーサル 乗客・新幹線・なまはげ役で

参加者の柔軟性と創造性が際立つセッションだった。会場の雰囲気がほぐれた要因の一つは、ワークショップの助手をつとめてくれた先生たち―獲得研会員の小松理津子先生(秋田明徳館高校)、松井副主幹、阿部指導主事、稲川指導主事―の身体をはったデモンストレーションにある。みっちりシミュレーションを重ねる様子などみていると、いつものあかり座公演を髣髴させるものがある。

熊谷暁先生(元総合教育センター所長)によると、いま県内に荒れた学校というものがないらしい。なるほど。いまの秋田には、教室の落ち着いた雰囲気があり、研究意欲旺盛なベテラン教師の丁寧な指導があり、社会的注目の高まりがつぎの実践への意欲につながり、というような良い循環があるのだろう。

そのことと同時に、わたしがもっとも心強く感じるのは、米田進教育長をはじめとするリーダーの人たちが、「学力日本一」のその先をみすえて教育を考えていこうとしている姿である。

新春文楽公演

新春公演 1月25日まで

新春公演 1月25日まで

初春文楽公演は、住大夫さんが「寿式三番叟」で復帰するということで、二重に華やいだ雰囲気である。昨年は、文楽をめぐっていろんなことがあったから、演者の方たちも、思い一入のようだ。第2部の「本朝廿四孝」では、「十種香の段」の八重垣姫が蓑助さん、「奥庭狐火の段」の八重垣姫が勘十郎さんで、対照的な人形がみられる。

文楽はずっと苦手の部類だった。そもそも世話物の二枚目が優柔不断すぎて、役柄に共感しにくいのだ。ところが、2006年に日本演劇学会がやった「心中天の網島」をみる会に参加して、文楽がにわかに身近になった。

とくに楽屋口からはじまるバックステージ・ツアーがよかった。スリッパでまわるツアーなど初めてである。主遣いの履く舞台下駄も舞台そのものも意想外に大きい。見台がずらりと並ぶ棚の足元は、清めの塩でざらざらしている。演目や演者の選び方に、伝統を伝える工夫があることも、このとき知った。

要するに文楽を多面的に楽しめるようになったということなのだが、越路太夫さんが全盛のころから舞台を見ている妻は「なんでも理屈からはいる。あなたらしいわね」とあきれ顔である。言い返したい気持ちはあるが、そこは先達のいうこと、うかつに反論しないようにしている。

緞帳の上に 大神神社の宮司さんの書

緞帳の上に 大神神社の宮司さんの書

東京と大阪では、客席の雰囲気が違う。最近、それを面白く感じるようになった。高齢の観客が目立つのはどちらも同じだが、東京の国立劇場には、いかにも伝統芸能をみにきましたという教養的な雰囲気がある。大阪の国立文楽劇場の方が、もう少しカジュアルだし、舞台に共感してハンカチをとりだす人の数も、心なしか多いように感じる。

今回の席は4列目の中央あたり。右隣りの席に、わたしより一回り上の年齢とみえる男性がいる。ジャンパーに、ながく使いこんだセカンドバックひとつの身軽な服装である。

床本で予習するほど熱心でないわたしは、大夫の表情も気になるし、字幕の確認も必要だしで、あっちをみたりこっちをみたりするから、いやでも男性の様子が目に入る。このひと、相当な見巧者のようだ。字幕はもちろん、大夫の方もいっさい振り向かず、人形の動きに集中している。

「奥庭狐火の段」では、勘十郎さんが白狐も遣う。まさに超絶技巧。八重垣姫に狐が憑き、舞台が激しく躍動するさまは圧巻である。力強いエネルギーと円熟味の両方が味わえる。

それまで静かにみていた件の男性だが、さすがにこの山場では、舞台の躍動感に呼応するように、ウンともウムとも聞こえる声を、なんどももらしている。舞台がおわると、もとの静かな表情にもどり、なにごともなかったかのように通路をのぼっていった。

文楽は、こういう観客によって支えられてきた芸能なのだろう。