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1980年の転機

人生の転機がどんな風にやってくるのか。それを考える手がかりが1980年にある。ICU高校に就職し、ひとつキャンパスで教育と研究にとりくむことになった年だ。ICU高校の教育、大学院生としての研究活動、「美術の会」の活動という、三つの活動に全力でとりくんでいたから、かるい高揚感のなかで1年間をすごした。ここでは、三つの柱としておこう。

第一の柱であるICU高校には、草創期らしいカオスがあった。生徒はもちろんのこと、教師たちも手探りの状態とあって、学びの場そのものがどことなく熱をおびている。わたしは、必修「政治経済」(6クラス)と「政経演習」(1クラス)をひとりで担当する。ICU高校の場合、3年生のホームルーム単位の授業は、キリスト教概論と政治経済だけである。ひとりで3年生全員をうけもつ責任こそあるが、横並び圧力がないぶん自由に実践できた。

いまの常識で考えると「受験生相手にそんな無茶な」という実践もたしかにある。ただ、要求レベルをあげてもちゃんとこたえてくれるから、教師としてこんなに楽しいことはないし、工夫のしがいもある。そんなこんなで、帰国生たちの反応にみちびかれながら、授業実践に深入りすることになる。

必修「政経」では、生徒が2か月半かけてとりくむ“政経レポート”の実践をはじめた。この取り組みは、ほどなく240名が、総計1万ページのレポートを提出するような、1学期最大規模のプロジェクトに成長していく。

「政経演習」では、時事問題の調査・発表・討論をセットにしたグループ学習の指導をはじめた。生徒たち自身がテーマを選んで発表し、クラス全員で討論する。この学習もどんどん熱気をおび、授業時間の枠をはみだした活動が、学校祭での研究発表に展開していく。2学期にある文化祭の展示企画「今考える日本の食糧」(1984年)や模擬裁判形式のプレゼンテーション「エデュケーション・ナウ」(1987年)である。演劇的発表は、毎年テーマと形式をかえて15年間つづくことになる。

まだ名づけていなかったが、獲得型授業を構成する3つの要素(リサーチワーク、プレゼンテーション、ディスカッション/ディベート)に挑戦しはじめたのが1980年である。ちなみに、1980年度に演習クラスでとりあげたのは、チトーと非同盟、韓国の政情(光州事件)、衆参ダブル選挙、ポーランドの「連帯」、金融政策と日銀、モスクワ・オリンピック、イラン・イラク戦争など18テーマ。時代のうごきにビビットに反応しているのがわかる。

第二の柱である研究活動だが、春学期に学内で公開講座を開講し、秋学期からは読書会に熱を入れた。まず、4月から大学院セミナーで「J.J.ルソー思想入門」を開講する。大学院セミナーというのは、院生が学部生のためにひらく自主ゼミのこと。セミナー開設の音頭をとったのは第1男子寮の先輩でアイディア・マンの山口和孝さん(埼玉大学教授)である。

会場となる教育研究棟の会議室は、院生室のはいっている建物で、高校の校舎とは目と鼻の先にある。講義は9回、1977年のルソー行脚でとったスライドの上映からはじめて、孤独について、ルソーの自由観、自然観、道徳観、芸術観、社会観、コルシカ憲法草案、女性観を、一回一テーマで語る。応募した聴講生は数人だが、秋月弘子さん(亜細亜大学教授)、梅津裕美さん(本多記念教会牧師)など優秀な女性たちばかり、手ごたえ十分である。

このセミナーが、研究の歩みをひとまとめする機会になるが、なぜかルソーの教育観だけテーマに入っていない。ルソーの教育観は、当時のわたしにとって、できれば避けてとおりたい隘路だった。

もっとも、いまのわたしの実践研究は、“市民形成のための教育”というシェーマと不可分であり、ルソーの教育観が下敷きにもなっている。その意味で、1980年までのルソー研究がかたちをかえて展開したものだ、と見ることもできる。

秋学期から、中村孝文さん(武蔵野大学教授)とつくった「政治思想研究会」の読書会に集中して取り組んだ。中村さんに問い合わせたところ、クリック、バーリン、マンハイム、デカルトなどを、17回にわたって読んだということらしい。「らしい」というのは、二人の記憶をつないでも、どれをどんな順番で読んだのか、正確に再現できないからである。こればかりは資料がでてくるのを待つしかない。

第三の柱である日本美術の研究も、佳境にさしかかっていた。「美術の会」の定例会では、雪舟の水墨画などをテーマにしていたが、1980年の夏から、地方仏の研究に大きくシフトする。

きっかけは、小浜・羽賀寺の十一面観音、高月・渡岸寺の十一面観音など、若狭・近江の仏像めぐりをしたことである。とりわけ渡岸寺十一面観音の彫刻としての完成度の高さに衝撃をうけた。それまで、どちらかといえば奈良にある白鳳・天平仏や鎌倉仏を中心にみていたのだが、等閑視していた平安仏への関心が一気にたかまる。

これが1990年代までつづく地方仏行脚のはじまりである。訪問対象は、東北から九州にまでひろがる平安前期の木彫仏。全国にちらばる地方仏と奈良・京都のいわゆる中央仏を交互に訪ねるうち、仏像様式の伝播を手がかりとして「日本文化」の形成過程をさぐるというテーマに、わたしの関心が凝集していくことになる。

こうしてみると、1980年には、その後の20年間、私の研究の核心になる要素がほとんどでそろっている。若さというのは恐ろしい。力まかせに、どんどん新しい領域に踏みだしていけるからだ。それはICU入学からちょうど10年目、わたしが28歳になった年のことである。

中学の同級生

日立中央研究所の大池

日曜の正午ピッタリに国分寺の友人宅をたずねた。打ち立て・ゆでたての蕎麦を夫婦でご馳走になるのだ。鷲谷信一くんは、「ことば」カテゴリ-の記事「方言とラジオ(1)」に登場するWくんだ。そば通でない私でも、北海道産新そばの香り、こし、そして包丁づかいのみごとさがわかる。彼はそんなそばを打つ。

「中学時代、いつも一緒にいたよね」と夫人の厚子さんが言う通り、信一くんがいちばん気の合う友人だった。別々の高校にかようようになってからも、ふたりで松島、中尊寺方面に旅をしている。文学少年だったわたしは、牡鹿半島から金華山までのおだやかな海上風景を、文語体で旅日記に書いたりした。高校2年生の夏のことだ。

西国分寺駅付近の夕暮れ

昼食の後、日立中央研究所庭園の一般公開、湧水でしられるお鷹のみち、7世紀の東山道の史跡など、武蔵野らしいルートを案内してくれた。ことに日立中央研究所庭園は大盛況。観光バスが周囲に何台もとまり、団体客が乗り降りしている。20万平方メートルの敷地に2万7千本の樹木がしげり、野川の源流があることでも知られている。この研究所が、信一くんのもとの職場だから、またとないガイドである。

鷲谷夫妻とわたしは、もともと統合中学校の同級だ。厚子さんにいたっては、東小学校時代からの同級生で、児童会長選挙の応援演説をしてくれた人だ。厚子さんは、わたしの生家から自転車で10分ばかり上手の集落の生まれ、西小学校出身の信一くんは、生家から八郎潟方向にやはり10分ほど下った集落の生まれである。

ともだち結婚のふたりと話していると、とても穏やかな時間がながれる。この日も8時間あまり、おたがいの病気自慢もまじえて、あれからこれへとおしゃべりがつづく。とりわけ、わたしのなかの15歳の記憶が、多様な角度から補強されたり、修正されたりするから面白い。

ふたりはまだこのブログ「演劇的知の周辺」を読んだことがない。いつか感想を聞いてみたいと、思っている。

ブログが80年代に突入

ブログをたちあげて半年たつ。この間、いくつか柱のようなものができてきた。大きな柱の一つが、わたし自身の来歴にかんする記事だ。

ほかのカテゴリーに分類したものも多いが、おおよその流れはつぎのようになる。「思い出」(幼少年期から秋田高校時代)、「学生時代」(1970年のICU入学から大学院生時代)、「帰国生と学ぶ」(1980年にはじまるICU高校の教師時代)、「いま大学で」(2003年に日本大学文理学部に移ってから)。

順をおって書いてきて、やっと「帰国生と学ぶ」にさしかかった。1980年から20年以上にわたる時期、なにしろ長い。この時代は、活動の幅がどんどん広がっていく時期でもある。テーマを決め、焦点化して書かないと、いっかな通過できないおそれがある。

きのう和田俊彦さんと話したら、詳しく読んでみたいから長くても構わない、という。和田さんはICU高校の卒業生でかつ「エデュケーション・ナウ」の2期生。「教育の中の戦争と平和」というテーマで、ディベート・ドラマ『沖縄戦を中学校で教えるべきか』に取り組んだときのリーダーのひとりだ。当時の教え子が、いまは獲得研の研究仲間。そうはいっても、である。現在の和田さんの年代のころの自分を語ることになる。なかなか難しい。

それで、とりあえずのテーマを、わたしが教師として経験した30代からの「(自己)トレーニング」について書いてみよう、と考えている。はてさて、どんなことになりますやら。

スランプ

1980年代の前半、わたしはスランプの真っただ中にいた。1982年に博士候補資格試験をパスしたが、肝心の博士論文がいつまでたっても完成しない。なにしろ5年間に発表した思想史の論文はたった1本である。このころが思想史研究から教育実践研究への過渡期だった。

スランプの予兆はあった。それが1980年の「帰国生ショック」が引きがねとなって顕在化する。ICU高校は創立3年目。若い教師が多いうえに、ルーティンワークさえ整っていないあり様だから、職場にはクラブ活動みたいな熱気がみち、混沌状態である。

くわえて“政経レポート”実践をはじめる。必修「政治経済」を履修する3年生全員(240人)がおのおの関心のあるテーマの新聞記事をスクラップし、それをもとに2か月半かけて論文をしあげる取り組みだ。

そんなこんなの理由がつくから、論文執筆が間遠になる。論文がかけないから、いっそうほかの活動にうちこむ、という循環ができてしまった。妻が「あなたの逃避行動」とよぶテニスと美術鑑賞がそうだ。休日どころか、平日から早朝テニスに励んだし、奈良通いも頻繁になる。

東大寺戒壇院の広目天にはいくども向きあった。いまとちがって、だれでも戒壇の上までのぼれたころだ。美術への関心はやがて、地方仏、庭園、建築、絵画、陶芸、刀剣、茶道という具合にさまざまなジャンルに広がっていく。

教育実践研究の方向にはっきり舵をきるのが、1987年である。“政経レポート”の実践報告「帰国生徒受入れ校における社会科教育」を書き、「エデュケーション・ナウ」もはじまった。後者は、「政経演習」(3年生)のメンバーが、学校祭で演劇的プレゼンテーションを披露するプロジェクトで、テーマを変えながら15年つづくことになる。

わたしの気質と研究スタイルがマッチしたのだろう。それから25年、一つの課題がつぎの課題を生むという具合に、途切れることなく研究をつづけてきた。思想史研究でえた構想力が、いまの研究のバックボーンである。

わたしは始動に時間がかかる。反面、熱中しやすい性格だから、いったんエンジンがかかると、自分でもてあますくらいエネルギーがでる。遠くまでずんずん歩き、ついには道のないところにまで分け入っていく。知的冒険を好み、孤独をおそれないという言い方もできるが、妻はひと言「それをわがままというのよ」とブレーキをかける。

後日談になるが、やみくもにテニスにうちこんだことが、その後の研究をささえる体力づくりつながり、美術に沈潜したことが、ものの見方のトレーニングになった。どちらも迂回行動の結果であって、意図したものではない。ただ、そこに人生の面白さも感じる。

帰国生との対話

装丁決めで兼弘さんと本屋を歩いてみた

わたしの著作のなかに、帰国生の体験をテーマにしたものが3冊ある。いずれもICU高校時代のものだが、とりわけ『学校の居心地 世界と日本』(学事出版 2000年)の完成に時間がかかった。というのも、教員向けの雑誌『月刊 生徒指導』に2年間連載した原稿「世界の生徒指導」を、さらに時間をかけて改訂したからだ。

本書は、米、英、豪、独、イラン、ハンガリーなど、7か国・25名の高校3年生との対話がベースになっている。サブタイトルは「世界のスクールライフにみるやわらかな学校文化」。長い。連載からお世話してくれた兼弘陽子さんのアイディアだったと思うが、そのぶん内容をよく表している。

クロスカルチャーを生きる体験は、マイノリティーになる体験である。楽しいことばかりではない。ことばの習得にしろ、人間関係にしろ、いろいろな壁に否応なくぶつかるから、ある種のサバイバル体験でもある。

おとなだって、気持ちが弱っているとき、ひとの親切がこころにしみる。異文化に投げこまれて感性がするどくなっている子どもたちの場合は、ましてそうだ。だから帰国生は、自分をあたたかく受け入れてくれた教師の存在を、忘れない。

学活のかかり決めのときに、積極的に名乗りをあげようとしたら「すこしは他人のことを考えなさい」といきなり先生にほっぺたを叩かれたシカゴ帰りの小学2年生、ソウルの小学校で日本の滞在経験をからかわれたり非難されたりし続けた韓国人の帰国生、彼らは自分が経験したことの意味を高校生になったいまも問い続けている。

さまざまな出会いを反芻して人生の物語がつくられる。18歳には18歳の人生がある。一人ひとりの小さな物語がイメージとしてよりあわさるとき、それが合流して、やがて大河のように大きな物語の流れが形成される。その流れを、ひとまず“やわらかな学校文化”と定義してみた。

『学校の居心地』は、第1章・生徒が描く教師像、第2章・学校でのマナーとルール、第3章・マイノリティーとしての私、第4章・カウンセラーのいる学校生活、第5章・スクール・コミュニティー、第6章・やわらかな学校文化のために、という構成だ。

『海外帰国生』(1990年)の獲得型授業論と『学校の居心地 世界と日本』(2000年)の学校文化論の間には、10年の時間のひらきがある。ただ、どちらも帰国生の海外体験から生まれたという意味で、一対のものだ。獲得型の学びが花ひらく土壌がどういう性格をもつものなのか、それをさぐっていくとやわらかな学校文化の問題がうかびあがる、両者はそういう関係になっている。

大塚久雄先生と静謐な空間(4)

大塚先生のどの講義も刺激的だが、うけた影響の大きさからいえば「文化変動論としてカリスマ論」(1981年秋学期)がまっさきにうかぶ。1977年の論考「力と権威」(『生活の貧しさと心の貧しさ』所収)を発展させた大学院の講義である。

無茶を承知で要約すると、以下のようになる。もっともすぐれた文化変動論がM.ヴェーバーのカリスマ論である。土地封建制、身分制家産国家などにみられるヨーロッパの「伝統的支配」が、法秩序にもとづく近代の「合法的支配」へと変化してゆくときに、「カリスマ的支配」がこれらとからまりあいながら構造変動をおこしていく。ただし、三つの純粋な類型のあいだの関係は流動的で、いつでも純粋な類型が組み合わせられたものとして現れる。

大塚先生と -OBの集まり「フライデーの会」で

ヴェーバーのいうカリスマは、神が与えた非日常的な資質、力(恩寵の賜物)のことだが、その妥当性を決定するものは、被支配者による自由な承認である。軍事ではナポレオン、ジンギス汗、源義経などが、芸術ではゲーテなどのカリスマ保持者(トレーガ-)があげられる。とりわけ宗教的カリスマが重要で、前説にとらわれない行動により、人々のもつ「正統性の意識」を変革する預言者が、社会関係をその内側から変えていくのがみられる。

カリスマが日常化するとき、もともともっていた革命的な性格を失い、しばしば保守的性格をもつ反対物に転化する。真正・純粋カリスマから日常カリスマへの変化ということだが、社会学的にはこの日常化されたカリスマが重要である。

大塚さんはここで、ヨーロッパのみならず日本の支配構造の特質をも論じている。血縁カリスマの根強い影響がそれである。天武天皇以降、後継天皇を決定する制度がないために、激しい殺戮が続き、ついには天武系が根絶やしになったこと、その後、寝業師としての藤原氏の支配が日本の政治の性格をきめたこと、その影響が昭和になるまで続いたこと、を指摘する。引例は、神話のヤマトタケルの兄殺しから現代の家元制度にまで及んだ。さらには、明治以降の家産官僚とカリスマ教育とのつながりを、湯島の昌平黌から帝国大学設立の流れで説明している。

わたしの知るかぎり、講義のなかで、大塚さんがこれほど日本の歴史にふみこんで言及したことはない。自在な語り口、内容の振幅の大きさをふくめて、大塚さんの講義の一つの頂点ではないかとさえ感じる。

この講義から受けた直接の影響が二つある。一つは、“文化変動の最初の一撃を与えるもの”としての真正カリスマ・トレーガーの概念にふれたことだ。これに触発されて、のちにルソーの立法者論「政治制度の創出と人間性の変革」を書いた。

もう一つは、ヴェーバーの類型論、とりわけ三つの純粋な類型の間にうまれるダイナミズムというアイディアにふれたことだ。1990年に提起することになる獲得型授業、知識注入型授業という理念型の種子となるものが、わたしの内部にまかれたのである。これについては、のちに言及する。

亡くなった小室直樹さん(評論家、東京工業大学世界文明センター特任教授)もこの講義をきいている。「ソビエト帝国の崩壊」「アメリカの逆襲」をだして間もないころだ。最前列に陣取り、ノートをとりながらテープレコーダーも操作するから、テープ交換のたびに、小室さんが気忙しくビニール包装をやぶる「バリバリッ」という音が静かな教室にひびいた。

あのテープはどうなったのだろう。機会があれば、もういちど聴いてみたいのだが。

冬じたく

庭づくりときけばどこか風雅なひびきがのこるが、わたしにとって生家の庭の手入れは、エクササイズである。またたく間に繁茂する樹木との格闘だからだ。

日曜にようやく雨があがった

庭づくりは、マネージメントでもある。忙しい東京暮らしとあって、手入れにつかえる時間も労力もかぎられる。いきおい、作業効率と美意識とのせめぎあいがおこり、たえまない妥協の産物として庭の景色ができあがっている。

かつては父親が1年中手入れを欠かさず、専属の庭師のようにいつくしんでいた。わたしの場合は、パートタイマーの庭師で、おまけに高所恐怖症の気まであるから、いかんともしがたい。

この週末は、東京大学の大学院で航空宇宙工学を専攻している甥の昌道くんが手伝ってくれた。おかげで作業効率が飛躍的にアップし、10数年ぶりに鋏をいれた木もある。背後の杉林でも何本かチェーンソーで間伐したから、庭がずいぶん明るくなった。

昌道くんは、推進力の研究が専門で、羽根のないロケットでどう空気をコントロールできるのかを研究している。やがて帰還(再使用)可能なロケットが開発され、宇宙開発に大変革がおきるかもしれない、そんなことを想像するだけでたのしい。

庭づくりのなぐさめは、散髪にいくのと同様、成果が目にみえることだ。ただ残念ながら、髪があっという間に伸びてしまうところも似ている。庭で大量にでる切枝の始末が一仕事なのだ。