8月のある日曜日を、ペール=ラシェーズ墓地周辺ですごした。かんかん照りの石畳をあるくのは、「コミューン兵士の壁」を訪ねるためだ。1871年5月28日にパリコミューンの連盟兵147人が銃殺された場所である。
この墓苑は、多磨墓地や小平霊園のような平坦な地形ではなく、不規則な四角形の台地になっている。大ぶりの墓石や立派な礼拝堂をそなえた墓が、台地のうえから斜面にかけてえんえんと続く。墓地が戦場になるというのはイメージしにくいが、この台地の高さを利用して、連盟兵がルーブル宮やパレ・ロワイヤルの方向に砲弾を撃ち込んだものらしい。
意外だったのは、観光客(フランス人でない)の姿が目立つことである。それでなくても日曜日は、デパートや観光施設の休みが多い。だからモンマルトル墓地、モンパルナス墓地もふくめて「墓地見学がいいよ」とガイドブックがすすめている。
そのせいか、イヴ・モンタン、エディット・ピアフ、ショパンの墓にはひっきりなしに見学者がくる。日本でも墓地めぐりがブームときくが、あるいはこんな感じなのだろうか。見学する様子が妙にあかるいのだ。
目的の壁は、墓地の南東端にある。外周道路のさらに外側だから、道路からみるとちょっとした窪地のような場所だが、そこにプレートが埋め込まれている。他に人のすがたはなかったが、しおれた花束の下に、オマージュを書いた紙片がのぞいている。この日、わたしが歩いたかぎりでは、オマージュがあるのは、こことモディリアーニの墓だけだ。
アルザス行きのまえに「最後の授業」を読み直そうと思い、アルフォンス・ドーデの『月曜物語』を神田の古本屋でかった(大久保和郎訳、旺文社文庫、1974年:原本は1873年刊行、ドーデは33歳)。普仏戦争のころをあつかう短編集である。
いまも教科書にのっているのだろうか。冒頭におかれた「最後の授業」は、われわれの世代にはおなじみの教材である。アメル先生のフランス語(フランス文化)にたいする深くはげしい愛情が、フランツ少年の目を通して描かれる。
『月曜物語』には「ペール=ラシェーズの戦闘」も収載されている。こちらは墓の番人の目を通して描いた、5月22日から28日までの墓地の様子である。保守的心情(訳者解説、349頁)をもつドーデはここで、連盟兵の姿を、酒飲みで無秩序、砲弾におびえてたちまち逃亡する士気のひくい兵士として皮肉な筆致で描いている。書き出しはこうなる。「番人は笑いだした。『ここで戦闘が?・・・戦闘なんて全然ありませんでしたよ。そんなのは新聞の作り事でさあ』」。
こう書いたドーデの墓が「コミューン兵士の壁」からそう離れていない場所にある。ラ・フォンテーヌ、モリエールの墓の近くである。ただ、この『風車小屋だより』の作家の墓も、いまは忘れられたように森閑としている。