月別アーカイブ: 9月 2012

ペール=ラシェーズ墓地と『月曜物語』

8月のある日曜日を、ペール=ラシェーズ墓地周辺ですごした。かんかん照りの石畳をあるくのは、「コミューン兵士の壁」を訪ねるためだ。1871年5月28日にパリコミューンの連盟兵147人が銃殺された場所である。

石畳のみちがどこまでもつづく

この墓苑は、多磨墓地や小平霊園のような平坦な地形ではなく、不規則な四角形の台地になっている。大ぶりの墓石や立派な礼拝堂をそなえた墓が、台地のうえから斜面にかけてえんえんと続く。墓地が戦場になるというのはイメージしにくいが、この台地の高さを利用して、連盟兵がルーブル宮やパレ・ロワイヤルの方向に砲弾を撃ち込んだものらしい。

意外だったのは、観光客(フランス人でない)の姿が目立つことである。それでなくても日曜日は、デパートや観光施設の休みが多い。だからモンマルトル墓地、モンパルナス墓地もふくめて「墓地見学がいいよ」とガイドブックがすすめている。

そのせいか、イヴ・モンタン、エディット・ピアフ、ショパンの墓にはひっきりなしに見学者がくる。日本でも墓地めぐりがブームときくが、あるいはこんな感じなのだろうか。見学する様子が妙にあかるいのだ。

壁―碑文がみえる

目的の壁は、墓地の南東端にある。外周道路のさらに外側だから、道路からみるとちょっとした窪地のような場所だが、そこにプレートが埋め込まれている。他に人のすがたはなかったが、しおれた花束の下に、オマージュを書いた紙片がのぞいている。この日、わたしが歩いたかぎりでは、オマージュがあるのは、こことモディリアーニの墓だけだ。

マロニエの古木がおおきな日陰をつくっている

アルザス行きのまえに「最後の授業」を読み直そうと思い、アルフォンス・ドーデの『月曜物語』を神田の古本屋でかった(大久保和郎訳、旺文社文庫、1974年:原本は1873年刊行、ドーデは33歳)。普仏戦争のころをあつかう短編集である。

いまも教科書にのっているのだろうか。冒頭におかれた「最後の授業」は、われわれの世代にはおなじみの教材である。アメル先生のフランス語(フランス文化)にたいする深くはげしい愛情が、フランツ少年の目を通して描かれる。

『月曜物語』には「ペール=ラシェーズの戦闘」も収載されている。こちらは墓の番人の目を通して描いた、5月22日から28日までの墓地の様子である。保守的心情(訳者解説、349頁)をもつドーデはここで、連盟兵の姿を、酒飲みで無秩序、砲弾におびえてたちまち逃亡する士気のひくい兵士として皮肉な筆致で描いている。書き出しはこうなる。「番人は笑いだした。『ここで戦闘が?・・・戦闘なんて全然ありませんでしたよ。そんなのは新聞の作り事でさあ』」。

ドーデの墓

こう書いたドーデの墓が「コミューン兵士の壁」からそう離れていない場所にある。ラ・フォンテーヌ、モリエールの墓の近くである。ただ、この『風車小屋だより』の作家の墓も、いまは忘れられたように森閑としている。

パラリンピック-その後

きょうから後期の卒業論文指導がはじまった。いつも進捗状況の報告にさきだって、夏休みの報告をしあうのだが、ことしはなんといっても、木村敬一くんの活躍が話題の中心だ。ゼミのみんなは、ロンドンまで応援にいった津田くん、石塚さんのはなしと、当事者の木村くんの体験談の両方をきけるので、状況を立体的に知ることができる。

トラファルガー広場でみる実況中継

世界で3番目の記録をもち、メダル獲得の有力種目といわれた自由形でメダルをのがした木村くんだが、そのあとの活躍がめざましく、まず平泳ぎで銀メダル、さらにバタフライで銅メダルをとった。

自由形のときの木村くんは、1万7千人の観衆がはなつ異様な熱気、さらには応援にこたえなければという責任感におそわれて、ガチガチの緊張状態だったらしい。スタート前、じぶんに活を入れるために胸を叩くと、その叩いた手がしびれるように震えたという。そろいのTシャツで応援する側も同じで、4年間いっしょに泳いできた津田くんなどは、レースが近づくにつれて、「緊張する、緊張する」といいながら、しきりに自分のからだを叩いている。

自由形を泳ぎ終えた日の木村くん

自由形の結果は、100m、200mともに5位入賞。タイムはけっして悪くない。大会で急成長した選手がいくにんもでてきたことで、この順位になっている。われわれにはみせないものの、木村くんのショックは相当なものだったらしい。選手村にかえってから、それまで食べずにきたハンバーガーを焼けぐいし、練習量もがくんと減らした。

これがかえってよかったことになる。というのも、いったんリフレッシュし、ひらきなおってのぞんだ2種目で、メダルをとることができたからだ。これらはもともと、個人メドレーにむけた調整種目の位置づけだったというから面白い。津田くんたちは、成田に帰着した直後に「メダルとったよ」という木村くんのメールをうけとって、大はしゃぎしたという。

卒論にむけてこれからスパート

もってみるとメダルは思いのほか大きくて重い。今回の木村くんのがんばりは、ゼミ生のこんごをも大いに励ますものとなった。

パンテオンのJ.J.ルソー展

ことしがルソーの生誕300年にあたると「天声人語」(9月4日付)が書き、「理性、判断力はゆっくり歩いてくるが、偏見は群をなして走ってくる」という『エミール』の一文を引用している。

ドームの天井からフーコーの振り子がさがる

この夏から、パリのパンテオンで「ジャン・ジャック・ルソーと芸術」という大きな展覧会がひらかれている。パンテオンは共和国の英雄をまつる壮大な建物。その中央ドームをはさんで、2つの展示室がつくられた。建物の入り口はそれなりの混雑だが、展示室のなかにはいると閑散とした雰囲気である。

片方の部屋は、ルソーの著作に焦点をあてる。著書の実物、口絵、草稿はもちろん、ルソーが開発した新記譜法のメモ、手描きの楽譜、「村の占い者」の原本、彼のつくった植物標本まであって壮観だ。もう一方の部屋は、彼の肖像にスポットをあてる。肖像画16点、肖像彫刻3体、ルソーの作品や思想にかかわるモニュメント16点など、こちらもヨーロッパ中から資料を集めている。

いうまでもなく、ルソーの著述は、文明論、政治制度論、教育論、音楽、文学、植物学、自伝など多岐にわたり、残した書簡も膨大である。「仕事の対象をかえること、それが真の骨休めになる」(「告白」)というが、学問の専門化がすすんだ現代では、ひとりの人間が「自己教育」を土台にして、これほどひろがりのある著作を残すことはおそらく不可能だろう。

この壁面が展示室の入り口になっている

ルソーは、著作でえられた名声とひきかえに、フランス高等法院はおろか祖国ジュネーブからも迫害され、諸国を転々としたあげく被害妄想におちいり、さいごは書きかけの「孤独な散歩者の夢想」を残して、エルムノンヴィルの村で亡くなった。

今回の展覧会でその草稿にであった。「孤独な散歩者の夢想」は、能率手帳をひとまわりだけ大きくしたサイズのノートに書かれている。驚いたのは文字の細密さだ。数えてみると、1ページあたりゆうに40行をこえる。しかも、美しく丁寧な文字の並びである。いくら写譜で生計をたてていたとはいえ、この密度の高さは尋常ではない。

筆跡をなぞりながら、大河のような著作群をおもいおこしていると、ルソーはきっと、美意識の徹底した人間、手作業によろこびをみいだす人間、大きな構想力と細部へのこだわりがこころのなかで同居するタイプの人間なのだろう、とあらためて思えてくる。

パンテオンの地下納骨堂におりるとすぐ、ヴォルテールの棺と一対の場所に、ルソーの棺がある。ここにきたのは35年前のこと。エルムノンヴィルにある彼のもともとの墓所「ポプラの小島」をたずねる前のことだ。鉄格子をとおして闇の向こうに目をこらすと、黒っぽい棺の正面に彫刻がほどこされ、たいまつ(理性の光を象徴する)をにぎった手がにゅっと突きだしているのがみえた。いまは明るく開放的な空間にかわり、棺のぐるりまで見られるようになっている。遺骨もふたたびエルムノンヴィルに改葬された、ときいている。

生誕300年の年にパリを訪れ、「孤独な散歩者の夢想」の草稿にであえたことに、なにか不思議な因縁を感じている。

ブログの効用

4週間のフランス・イギリス出張をおえて帰国した。ヨーロッパが涼しかっただけに、ことしの残暑がひとしお厳しく感じられ、生活のリズムを取り戻すのにいつもより時間がかかる。

出張には、PCを持参することにした。カメラさえ持たなくなっていたから、自分としてはかなり画期的なことだ。ブログをはじめたからには、旅行中も1週間にひとつくらいは記事を書こう、という算段である。おかげでひさしぶりにカメラに親しみ、ホテルのメディア環境の違いにも翻弄された。

はりきって新しいカメラも準備した。ところが、TACTのワークショップで性能を試そうとした矢先に、誤って破損。液晶画面がまったくみえなくなった。以前、TACTの記事でつかった阿倍野区民センターの写真は、かろうじて本体に残っていた3枚のうちの1枚である。

ストラスブールのホテルから 建物の下を流れる水路

やむなく古いカメラを持参したのだが、気がつくとこのひと月で400枚ほど撮っている。こんなにシャッターを押したことはもちろんないし、たぶんこれからもないだろう。通してみると、気温35度のパリから、13度のエディンバラまで、町ゆく人の服装の違いが一目瞭然である。これで旅の流れがよくわかり、撮っているこちら側のそのときの気分も髣髴する。

ホテルのメディア環境の違いも面白く感じた。部屋の通信回線を無料で開放しているところ、1時間単位で回線使用料をとるところ、希望する客にパスワードを与えてメディアルームにあるコンピュータを使わせるところなど、どういうわけか一つも同じ環境のところがないのだ。部屋に入るとコンセントの位置をまず確認するのだが、自由につかえるコンセントの数が、ホテルによってこんなにも違うのか、というのも新発見だった。

明日は獲得研の第66回例会である。メンバーの活動報告からたっぷり刺激をうけて、再始動となる。

ウェストエンドの劇場

ここでは4つの劇場の看板がみえる

ロンドンのウェストエンドの劇場密度の高さにはいつも感心する。ちょっと歩けばかならず劇場の前にでるし、一枚の写真のなかに3つの劇場がうつりこむ場所もある。観光客が手にするパンフレット「ショー・ガイド」には、ビクトリア駅やウォータールー駅あたりの劇場をふくめて48館がリストされていて、そのうち41館が上演中となっている。

「マウストラップ」の60年は別格の長さだが、ほかにも「レ・ミゼラブル」(27年)、「オペラ座の怪人」(26年)など超ロングランの舞台がいくつかあり、それを誇って、劇場の看板に数字を掲げている。

作品の面白さ、装置や演出の卓抜さ、俳優のレベルの高さなどだけでなく、英語であること、世界中の旅行者を相手にしていることなど、さまざまな条件が重なってこの密度になっている。これだけ劇場があると、大ヒット中の作品は別にして、たいがいの演目は当日でも切符が手に入る。その気安さも劇場の敷居を低くしている。

ロンドン通いもそれなりの年数になる。ただ、芝居だけをみにくるわけではないので、私が入ったことのある劇場の数は、せいぜい15か16かと思う。それでも、歴史やたたずまいが劇場ごとに違うから興味はつきない。ことにミュージカルの場合がそうだが、どこでも共通して感じるのは、劇場側の「楽しませよう」、観客の「楽しもう」という姿勢が徹底していることだ。

いつだったか、ロンドンでいちばん古い劇場というロイヤル・ドルリー・レーンのバックステージ・ツアーに参加したことがある。順路のところどころで役者の扮装をした説明役が出没するのはご愛嬌としても、見学者にまで芝居をさせてしまう。経路がロイヤルボックスの裏にある控えの間まできたときに、なぜか王様役に指名され、玉座にこしかけて俳優をねぎらう演技をやる破目になった。

立体的な広告がこの劇場の特徴になっている

芝居をみにいくと、かなりの確率で、隣に同年代の男性がすわる。私とおなじで、ほかに連れのいないひとだ。両隣のことも少なくない。日本では気になったことがないので、これは劇場側の配慮ではないのか、といぶかっている。

きょうパレス・シアターに「雨に歌えば」(ムービー・ミュージカルというジャンルらしい)を観にいったが、やはり隣に同年代のひとがいる。ロスからきたというその男性に、いつチケットを買ったのかたしかめて、私の3時間あとだとわかった。それで配慮のことが、だんだん私のなかで確信にかわりつつある。

舞台を掃除する様子も観客にみせる

その「雨に歌えば」だが、休憩の直前とカーテンコールのときの2度にわたって、天井からものすごい量の雨がふる。水浸しの舞台で、ずぶぬれの役者が、映画でジーン・ケリーが歌ったあの主題歌を歌い踊り、ついでに観客席にむかって盛大に水をけちらかす。

観客は大パニック、そして大喜び。7列目の席にいる私のひざが濡れたほどだから、2列目のシスターふたりなどは相当に水しぶきをあびている。でも嬉しそうだ。

芝居がおわると、退出する観客の列から主題歌を口ずさむ声がいくつも聞こえてきて、それが街の雑踏にきえていった。

パラリンピックと木村敬一くん

オリンピック・スタジアム

昨日、一昨日と、パラリンピックの水泳会場で、現役の卒論指導生である木村敬一くんの応援をした。100m自由形、50m自由形ともに決勝に進出し大健闘したが、惜しくもメダルには届かなかった。個人メドレーなど、彼が出場する他の種目の競技はまだ続いている。全盲の木村くんは、筑波大付属の特別支援学校から、公民科の教師をめざして教育学科にはいった学生である。

今回は、水泳部顧問の野口智博先生(体育学科教授)の引率で、私の卒論ゼミの幹事である津田くん、石塚さんなど8人の仲間も応援にきた。このことだけでも、木村くんが仲間にどんなに愛されているかわかる。

木村くんは、1年生の教育学基礎論からはじまって現在まで、ずっと私の授業・ゼミをとっている。3年生のゼミのドラマ活動ともなると、じつに思い切りのよい演技をする。彼がクラスにいることで、授業の進め方が試されるから、私自身が学ばされることも多い。今回もそうだ。なにしろパラリンピックのどの種目も、競技そのものに圧倒的な感動がある。それと同時に、政策とスポーツの関係、スポーツ文化などいろんなことについて考えさせられる。

引率の野口さんは、シドニー、アテネ、北京の三つのオリンピックで、NHKテレビの実況放送を担当したひとで、綿密な資料に裏づけられた明快な語り口に定評がある。その人に隣の席でこんな説明をうけながら声援するのだから、なんとも贅沢な経験である。「オリンピックでも短距離の決勝にはいろんな国の選手がでてきますよね。でも、長距離になると決勝に残る国は限られます。経済力もふくめて、練習環境が整わないとできない種目なんです」。

レースのたびに大歓声がおこる

障害者スポーツのイメージもひっくり返された。会場のアクアティック・センターは、どの回もつねに1万数千の老若男女で満席。強烈なリズムの音楽が大音量でながれ、DJが観客に「さあ、声をだそう」と呼びかけるや「ウワ―ッ」という耳をつんざくノイズが会場をゆるがす。ビール瓶をかかえた中年男性が、ふうふういいながら急こう配の階段を登ってくる。メジャーリーグ野球の試合を数倍にぎやかにしたものと思えばいい。女子400mで、パラリンピックのスターといわれる英国のエリー・シモンズが金メダルをとったレースでは、観客が総立ちで足をふみならし、絶叫し、60数段ある会場の床がゆれた。

この解放的ともいえる雰囲気をどう受け止めたらいいのかということも含めて、木村くんがつくってくれた今回の経験を反芻していこうと思っている。