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ICU高校に就職

イチローのヤンキース移籍には驚いた。朝起きたら、シアトルでの11年半を振り返る様子がライブ映像で流れているではないか。いつも冷静なイチローの涙。胸中を去来する思いの深さは推し量るべくもないが、おそらく「これまで」と「これから」についての感懐がいちどきに溢れでたのだろう。

イチローは、セーフコフィールドのロッカールームの手前にある会見場に座っている。同じ会見場で記念写真を撮ったことがある。2003年の夏に「中高生のためのアメリカ理解入門」(明石書店)の取材でいったのだ。彼の目線からみえる記者席の様子を思い出しながら、いまイチローが味わっている思いは、転職経験者の多くが味わう感懐とどこか似ている、と考えた。

私の最初の転職は、1980年に錦城高校からICU高校に移ったときである。道をつけてくれたのが、前年からICU高校で倫理を担当していた岡田典夫さん(茨城キリスト教大学学長)だ。岡田さんは、武田清子門下の大先輩。奈良の日吉館で働いていたほどの美術ファンとあって、感性にも相通ずるものがある。

ICU高校は、創立3年目に政経のスタッフが必要になる。それで私を推薦してくれたのだ。着任まで紆余曲折があった。「錦城高校に満足している」としり込みする私を「仕事と研究を同じキャンパスでできるのが何よりだ」といって説得する。その一方、研究棟にある院生室まで桑ヶ谷森男教頭(ICU高校校長)、藤沢皖教頭(千里国際学園校長)を案内して私を引き合わせる。岡田さんは、職場と私の両方を説得したことになる。

院生室のある教育研究棟(左)

岡田典夫さんの粘り強い交渉がなかったら、ICU高校に就職することも、教育実践研究に専門を移すこともないだろうから、人生もいまとはずっと違ったものになったはずである。4年間、研究室で机を並べてみて、授業はもちろん、職場の問題、寮監の仕事、なにごとにも誠実に向きあう姿勢にあらためて感心した。

1970年のICUへの入学を人生の第1のターニング・ポイントとすれば、1980年のICU高校への就職は第2の転機である。しかし、うかつなことに、自分ではその意味がまだわからなかった。

着任してしばらくたったころ、副校長の原真さん(東京学芸大学教授)に「帰国生の問題を理解するには時間がかかるから、3年はこの学校にいてもらいたい」といわれたところをみると、そんなに長くはいないだろう、と思われていたふしがある。まさか20年を超えてICU高校に勤務することになるなど、自分でも考えられないことだった。

渡辺保男先生と古畑和孝先生

ドクター・コースに進むとき、ICUに3回目の入学金を払った。後日、渡辺保男教授(政治学・行政学)に「博士前期課程から後期課程にいくのに、入学金をはらう必要があるんですかねえ」と苦情をいった。ICUは「アドバイザー=アドバイジー」制度をとっていて、渡辺さんは、私が学部に入ったときからのアドバイザーだ。

しばらくして「淳くん、入学金のことだけどさあ、あれは払わなくてもよくなったよ」と知らせてくれた。黒縁メガネに黒っぽい三つ揃いのダンディだが、ちょっとべらんめいなところがある。対応の早さに感心していると「でも、いったん納めたものは返せないそうだから、あきらめるしかないね」と続ける。こうして、GSPAに3回目の入学金を払った人という希少な存在になった。

1980年から、私の関心は急速に教育実践の研究に傾斜していく。ICU高校に移って「帰国生ショック」の洗礼を受けたのが引き金である。日本大学に移るまでに6つの大学で非常勤講師をしたが、ルーテル学院大学の「近代思想の源泉Ⅰ,Ⅱ」を例外として、すべて教育学関係の科目である。

大学で教えるきっかけを、1990年の春に渡辺さんがつくってくれた。学長室を訪ねたら「きみもそろそろ大学で教えた方がいいね」といった。そうはいっても、国際教育のポストなどほとんどない時代である。ただ、東京大学の古畑和孝教授(社会心理学)なら、私の問題関心を理解してくれるだろう、という

おそるおそる東京大学文学部の研究室をノックすると、古畑さんが椅子からすっくと立ちあがった。まっすぐ目をみて明瞭な発声で話す紳士である。初対面の私に、研究者としての自身の歩みを1時間かけて話してくれる。古畑さんは、法学部コースから一人はずれて新設の教育学部に進んだ人だ。文学部社会心理学専修課程の独立とともに招聘され、10年かけて文Ⅲの中の人気コースにまで育てている。その開拓的な歩みを語ることで、まだ先の見えていない私の研究を鼓舞してくれたのだ。

翌々年、古畑さんは東大を退官して帝京大学に移る。その前から沖永荘一総長になんどもじか談判して、非常勤講師着任の可能性をさぐり、とうとう2年越しで留学生別科にたどり着いた。総長じきじきの指名とあって、別科のスタッフは、一体なにごとが起こったのかといぶかったらしい。

留学生別科の4年間が、新しい異文化体験だった。中級「日本語読解」で、佐和隆光「豊かさのゆくえ―21世紀の日本」(岩波ジュニア新書)を読みディスカッションするなかで、アジアの留学生たちの生活と意見にじかに触れたのだ。それが『国際感覚ってなんだろう』(岩波ジュニア新書)に反映されている。

たった一人の後進にチャンスを与えるために、ここまで努力と知恵を傾注できるものなのか。この間の経緯を思いだすたびに、両先生のおたがいにたいする信頼の厚さを思い、また深い感謝の念を禁じ得ないのである。

辻清明先生と民主主義

大学に入学してはじめて買った本の一冊が、辻清明『政治を考える指標』(1960年 岩波新書)である。赤鉛筆で傍線を引きながら読んだその本の著者が、大学院の指導教授になった。

『新版:日本官僚制の研究』(1969年 東大出版会)で知られる辻清明先生は、1913(大正2)年生まれ。1974年に東京大学法学部を退官してICUに着任する。長身の先生が、薄い抱えカバンをわきにはさんで教室に現れる。中高の顔立ちに丸縁のメガネ、襟元のつまったグレーのスーツ、その風貌は私たちがおもいえがく学者の姿そのままである。机に広げたノートを見ながら淡々と講義がすすむ。

講義のあとおしゃべりの輪ができた。穏やかな語り口に独特の諧謔味があるのだが、その味わいは、辻さんの文章からも感じられる。たとえば「公職私有観」を、こんなふうに説明する。「山内一豊の妻が、公務で夫の用いる馬匹の費用を、みずからの持参金でまかなったという逸話は、行政官と行政手段の分離が存していなかった事実を語るものであろう。今日の役所において、いかにヘソクリの巧みな公務員の夫人といえども、官庁用の自動車を、夫の成功のために私費で調達することはおそらく不可能でもあるし、またそのように考えること自体がこっけいでもある」。(新書118-119頁)

この本で辻さんは、二大政党制ではなく多党制が、小選挙区制ではなく比例代表制が日本にとって望ましい、としている。国民の自発性を尊重せず、利益の多元性をおさえるために抽象的な国家観念を乱用し、野党の意義を認める統合の原理を理解しない。そうした保守政治にたいする批判は、民主党と自民党のいまをも予見するものである。

研究室のおしゃべりで、こんなことをいった。「民主主義といえば、制度や思想として語られることが多い。だが、もっと手続き(procedure)の重要さに目を向ける必要がある」。辻さんは、システムの運用を通じてこそ民主主義が具体的なかたちで定着していく、というのだ。この言葉が、大きなヒントになった。

私は政経・倫理の教師として民主主義の制度と思想を講じている。しかし、果たしてそれで十分なのか、どうやって民主主義を実体化できるのか、という問いが生まれたのだ。この問いが、帰国生の教育体験、M.ヴェーバーの理念型の概念とむすびつき、やがて獲得型授業論に結実することになる。

大学院生と高校教師、二束のわらじをはいて修士論文に取り組んだ。タイトルは「J.-J.ルソーにおける政治制度論の展開 ―『社会契約論』と『コルシカ憲法草案』を中心に-」。「草案」にかんする先行研究が少なくて難渋したが、「契約論」の原理を「草案」でどう適用したかという枠組みをたて、その特質を分析した。

1977年の夏に、コルシカ島を訪問したのが、風土のイメージ形成に役立った。ルソー本人が望んでかなわなかった旅である。トゥーロンから船でコルシカ島にわたり、アジャクシオからバスティアを鉄道で横断、イタリアのリヴォルノに上陸するコースにした。ナポレオンを輩出したことで知られる島だが、2両編成の小さな列車が、2千メートル級の山なみに分け入ると、たちまち荒涼とした風景になる。むき出しの岩山、緑のあいだに顔をのぞかせる赤い岩肌。沿線の小さな耕地にはトマトとトウモロコシ、駅という駅はほとんど無人である。メリメの「マテオ・ファルコーネ」の世界を髣髴させる。

思想史が専門ではないから、内容は私のやりたいことでよい、ということだった。そのかわり文章の論理性には厳格で、もっていった原稿にその場で朱を入れる。それは論文の完成度をあげるというレベルの指導だから、限りなく完成稿に近いものを持っていく必要がある。だから、辻先生の指導は、武田清子先生とは別の意味で厳しいものだ。

この年、GSPAの博士課程にすすんだ院生は、私をふくめて3人である。

東京大学の研究生

学部をでた1975年に、武田清子先生の紹介で東大教養学科(駒場)の研究生にしてもらった。この年にうけた駒場と本郷の授業が、ICUでの経験とは別の意味で異文化体験だった。

研究指導の小林善彦教授(フランス文学)は、『ルソーとその時代―文学的思想史の試み』(1973年 大修館書店)の著者にして、白水社版「ルソー全集」の監訳者である。小林さんの講読ゼミは、私が経験した唯一の文学系ゼミだ。10人にみたない学生を相手に「告白」の原文を少しずつ読んで解説し、リズミカルな文体の美しさまで味わう。

ゼミの醍醐味は、小林さんが「孤独な散歩者の夢想」の第5の散歩について書いた以下の文章に照応している。「美しい自然描写、すなわち湖とそれをとりまく自然のなかに没入し、寄せては返す水面の波に耳を傾け、湖水の面に世のさまの移り行く姿を見ては、恍惚のうちに幸福感にひたるルソーの文章は、その筆舌につくし難い韻律の響きとともに、彼の全著作の中でもまさに圧巻をなしている」。(同前書290頁)この文章が象徴するのは、思想が生まれてくる源泉を、思想家個人の肌合いや気質まで分け入って解き明かす小林さんの学風である。

駒場のゼミと並行して、本郷の福田歓一教授の「政治学史」を聴講した。いわずと知れた『近代政治原理成立史序説』(岩波書店)の著者である。秋田高校の先輩・田口富久治教授(明治大学→名古屋大学)の紹介で法学部の研究室をたずねた。一通り挨拶を終えると、佐々木毅助教授(東大総長)の研究室に回るように、といわれた。やはり秋田高校の先輩で『マキャベリの政治思想』を著した気鋭の思想史家である。佐々木さんは最先端の研究にふれる必要を「単行本になったものは研究のまとめだから、研究論文レベルのものを読んだほうがいい」といった。

法学部の絨毯じきの研究室もそうだが、大教室の講義も重厚でものものしい。受講生の数がけた違いに多いだけでなく、ICUのカジュアルな雰囲気になれた目でみると、まるで学術講演会の趣である。南原繁氏の研究のリアリティを「切れば血のでるような思索」と表現したのが耳に残った。20年ほどあと、本郷の教育学部で非常勤講師をするようになって、やはり法学部の大教室のものものしさを特別なものと感じた。

福田先生は遠い存在だったが、ひょんなことで少し印象が変わった。ある日、日本民藝館から駒場東大前駅に向かっていると、散歩中の福田さんと一緒になった。緊張気味に並んで歩く私に、長身痩躯の先生が、あの独特の高いトーンで、オリジナルな研究のための準備にふれて「ルソーの作品では「エミール」が一番大切です」といった。広い視野で研究することをすすめてくれたのだ。

研究生として、性格の異なる2つの授業を並行して受けられたのは幸運だった。同じルソーの論理展開を説明するにしても、こんなに扱われる角度が違うのか、と驚かされると同時に、思想家の全体像を把握することの大切さ、そして思想史研究がなみなみならぬ力仕事だということをあらためて知った。

翌年、ICUに戻ることにした。ICUの大学院行政学研究科(GSPA)に博士課程ができることになったのだ。大学院進学と同時に、錦城高校で倫理・政経を教える多忙な生活が始まったから、私にとって研究生の1年間は、人生の休止符のような年だった。

卒業論文

卒業論文で、自由と平等の原理的関係について考察したいと思った。素材は「学問芸術論」から「社会契約論」にいたるルソーの諸作品である。当時、ICUに西洋政治思想史の専任スタッフがおらず、武田清子先生に指導を引き受けていただいた。

武田先生は指導の厳しさで知られている。平田オリザ氏が「武田先生の指導は本当に厳格で、適当な発表をすると厳しい叱責を受ける。発表後に注意を受け、泣き出してしまった大学院生もいた」(『地図を創る旅』白水社)と書いている。

ただ、叱られた記憶はない。2週間に一回、本館の研究室を訪ね、書き上げた分を見ていただく。論理構成、文章の正確さ、引用の仕方など具体的に指摘されたが、論点が深まらないときは「面白くないわね」とはっきり言われるから、これが良かった。

しかし、いかんせん研究対象が大きすぎる。高校時代から親しんできたルソーとはいえ、論文の対象にするとなれば話は別である。作品解釈の多様性はもちろん、研究の蓄積も膨大である。70年代に限っても、みすず書房からスタロバンスキー『透明と障害』、カッシラー『ジャン・ジャック・ルソー問題』、バーリン『自由論』などの新訳がつぎつぎでたし、岩波書店からは京大人文研の『ルソー論集』、杉原泰雄『国民主権の研究』、福田歓一『近代政治原理成立史序説』などの論考が陸続と出版されている。もちろん、啓蒙主義思想の系譜、市民革命史、日本での思想受容、現代政治理論などにも目配りが必要になる。

「これでは無理だ」とわかったから、卒業を延期することにした。一事が万事、私はこうした無茶な選択をするようにできているらしい。結局、ルソーの自由・平等観の特質を「平等主義的自由」と定義する論文「J.J.ルソーにおける平等思想の展開」を2年がかりで書き上げる。A4判192ページ(手書き・2分冊)ほどになった。

時間はかかったものの、思想史研究の面白さが実感できただけでなく、民主主義社会を支える市民像の解明という研究テーマも見えてきた。市民的資質、政治制度と人間形成の関係を具体的文脈で検討しようというのだ。そこで遅まきながら、腰を据えて研究者の道を目指すことにした。

ふり返ってみると、私のものの見方・考え方の基本がこの時期までに形成された。のちに政治思想史研究からより実践的な性格をもつ教育研究へとシフトするのだが、テーマそのものはこの卒業論文とつながっている。

 

学生証盗難事件

学部の2年生で、グリークラブの指揮者の仕事と学生自治会にあたるクラブ代表者会議の三役の仕事を同時にやった。どちらも身の丈にあまる仕事だから、それは過酷な日々だった。3年生になって、少し落ち着いて勉強できるようになり、夕方のプール通いも習慣になった。

1キロを1時間かけてゆっくり泳ぐ。壁面をけって水中に体をなげだすときの浮遊感がなんとも心地いい。雨の日でも泳ぎにいくから、監視員一人利用者ひとりのときもある。テニスに凝りだすと、雨の日でもテニスをして周囲を唖然とさせるのが私の行動パターンだが、こうした性癖は母親ゆずりである。

ベンジャミン・デューク先生(教育学科教授)は、キャンパス内の自宅から自転車でプールにやってくる。学科が違うので授業をとったことはないのだが、とても気さくな人柄だから、ロッカールームやプールサイドで親しくおしゃべりするようになり、その関係がながく続いた。私はメドレーで気分を変化させるが、デュークさんはクロールだけで1キロ泳ぐ。距離にもペースにもまったく変化がない。その徹し方にはなにか求道者的雰囲気さえただよう。おそらくそれが日常生活の律し方に通じるスタイルなのだろう。

4年生のある日、受付に預けた学生証(IDカード)がなくなった。原因不明のまま再発行ですませたが、忘れたころ事情が判明した。ローン会社から、数万円の督促がきたのだ。受話器をとると、若い女性がやさしそうな声で、吉祥寺駅前にオレンジ色の大きな広告塔をだしている会社の名前をあげ「渡部様のお借りになったお金が戻っておりません」と続けた。「あ、あの件だ」とピンときた。聞けば、私の父親が荏原製作所勤務になっているという。

そこまで確認してから、それは身に覚えのない借金であること、学生証の紛失届けをすでに大学にだしていること、そちらで学生証のコピーをとってあれば本人確認ができるはずだ、とたたみかけるようにいって電話をきった。

納得してくれたと思ったのだが、それではすまない。しばらくすると、そのローン会社から封書がきた。「金を借りておいて知らないとは言わせない。すぐでてこい!」とある。ご丁寧に「!」までついている。電話の応対と封書の文面のなんと落差の大きいことか。

大学の保安部長とふたりで三鷹警察署の窓口に相談にいくと、取調室のような小さな部屋に案内された。ほどなくあらわれた中年の担当者が「ああ、あの会社なら○○組ですよ」とよく知られた暴力団の名前をあげる。驚いたのは、その場で組長に電話を入れ「いまICUの学生さんが相談にみえているんだけど」と事情を説明してくれたことだ。

帰り際、捜査機関はあくまで警察だから、騙されたローン会社が警察に被害届をだすのが筋である、たとえ呼び出しがあってもローン会社には決して一人でいかないように、と注意をうけた。

“孤島のキャンパス”といわれたくらいだから、よもやICUまで「大学荒らし」がくるなどだれも想定していなかったが、この事件をきっかけに、プールの利用システムが変わる。学生証とは別に、体育館の利用証が発行されることになったのだ。

多文化社会としての学生寮

異文化体験として大きかったのは、ICUでの寮生活である。大学紛争の余波で閉鎖されていた学生寮が、1年生の秋に再開され、私は第1男子寮に入ることになった。3つの男子寮にはそれぞれカラーがある。第1男子寮は“アカデミック寮”と呼ばれるだけあって、たしかに勉強家が多かった。

食堂にむかう―右手が教会

木造2階建ての第1男子寮は、教会堂の真南にたっている。寮生は30人ほど。4人部屋が基本である。受付、公共スペースの掃除などは当番制で、定期的に寮会を開いて運営方針を話し合う。ICUの寮は一種の自治寮といってよい。

教会の南面は当時のまま

1年生から2年生にかけて同室だったのは、のちにメキシコの壁画芸術を研究することになる加藤薫さん(神奈川大学教授)、インドの帰国生でパイロットになった岡田修一さん(日本航空機長)、ヒロ・ヤマガタやリャドの紹介者として知られる鈴木洋樹さん(ガレリアプロバ社長)たちである。それまで私の周囲にはいないタイプ、ともて自由な発想をする先輩たちだ。もちろん先輩風を吹かす人などいないから、部屋替えのつど価値観の違う人とルームメートになるのが楽しかった。

平屋建ての食堂は大きな複合施設に変貌

カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の留学生フレデリック・ショットさん(在米)は、身長が2メートル近くある気立ての優しい美男子で、無類のマンガ好きである。肩までとどく金髪に長めのもみあげ、そしてジーンズの上下とくれば、これはもうフラワー・チルドレンを絵に描いたようなファッションだ。

寮から目と鼻の先にある大学食堂で夕食をとったあと、お母さんの手作りクッキーが入ったブリキ缶を自室の本棚から下ろし、大切に一枚たべる、それがフレッドの日課である。

フレッドに日本人寮生のガールフレンドができたとき、彼女の誕生日に歌をプレゼントするという素敵なプランが、彼のあたまにひらめいた。恋人の窓辺でセレナーデを奏でるあのゆかしい風習にならおうというのだ。しかし、いかんせん一人でいく勇気がないので、私にも一緒にいってくれという。

クリスマスのころ、手に手にろうそくをもった一団が、「諸人こぞりて」などの曲を歌ってキャンパスをまわる。このキャロリングを、女子寮では、部屋の明かりをおとした寮生たちがカーテンのむこうで静かにまちうけるのが習慣だった。

われわれ二人はまず、芝生と林の境界にあるサツキの植え込みに半分だけ身を隠すことにした。こう書くと、ほとんど「シラノ」のような設定に思われるかもしれないが、歌うのはフレッドで、私はあくまで立会人である。フレッドが窓をみあげて控えめに歌いはじめると、2階の窓辺にガールフレンドの姿がかすかにみえた。大成功。こうしてぶじに使命をはたし、凸凹コンビは意気揚々と第1男子寮に引き上げた。

その後、マンガ好きの道をきわめたフレッドは、コミックを海外に紹介する評論家として活躍し、手塚治虫文化賞(朝日新聞社)を受賞したり日本政府から勲章をもらったりしている。

実現こそしなかったが、もともとICUは全寮主義を標榜していた。1952年に文部省に提出した「大学設置認可申請書」の「ICUの目的と使命」には、「八 全寮主義を原則とし、教授と学生との民主的共同生活により、人格の陶冶及び学問と生活との一致をはかる。」とある。(武田清子『未来をきり拓く大学―国際基督教大学五十年の理念と軌跡―』2000年 国際基督教大学出版局 84頁参照)

寮の建物もすっかり変わっている

私の経験でいえば、学生寮はICUの多文化性を象徴する空間である。それぞれの学生が互いの生き方に干渉せず、適度な距離感を保って生活している。それが居心地よく感じられ、結局4年生まで学生寮で暮らすことになった。

ICUを卒業した後、ロンドン大学、エディンバラ大学、カナダ・アルバータ大学などの学生寮に泊まる機会があったが、いつも寮生だったころの記憶がよみがえってくるのだった。

ブログの再建―その後

おおかたの原稿を保存していたのと、和田さんが素早くフォーマットを用意してくれたのがうまく作用して、思いのほかはやく再建できた。みつからない写真もあるが、文章だけみれば9割方復旧したと思われる。

そうはいっても、6月20日の原状に復すには、アップの日付を確認する必要があり、私にはそれがではできない。ここだけはプリントしてくださっていた方にデータ提供の協力をお願いするしかない。

ついでのことに、タイトルのいくつかを小改訂してみた。当座の復旧作業はここまでとして、これから新しい原稿をゆるゆるアップしていきます。

と、ここまで書いてアップしたら、間髪を入れず、会員の小菅さんから過去の全データが届いた。「酒どころ」「大塚先生」(1)を読んでいるところに、この記事がアップされたのだという。なんという偶然。ありがとうございます。

ブログの再建

ブログ「演劇的知の周辺」をはじめたのは、5月3日(木)のこと。ところが6月20日(水)から入力画面にいっさいアクセスできなくなり、ほどなくアップした20本の文章と写真がすべて消失したことを知った。

マスコミでも報道されたファースト・サーバー社のシステム・トラブルが原因である。8500社の企業が被害を受けたそうだが、ことがらの全容はいまだによくわからない。システムの脆弱さをいま身をもって味わっている。

ただ休眠しているあいだに、「ぜんぶプリントアウトして読んでます。ついつい自分の生い立ちと重ねちゃうんですよね。」という声もきこえてきた。

というわけで、気をとりなおして、2週間ぶりのブログ、ゆるゆる続けさせていただきます。