私の育った地方にはいくつか日本酒の蔵元があり、酒好きもすこぶる多い。何かと理由をつけては飲み、理由がなくても飲む。飲み屋というもののない村だったから、だれかの家が宴会場になるのがつねで、子どもたちは小さいころからお酌の仕方をおそわり、ついでに人間観察の機会をあたえられる。
かくいう私も嫌いなほうではない。若い時分、Good Beer Guide(1979年版)を手がかりに、かたっぱしから英国ビールをためしてみたし、近年も「琉球泡盛銘柄マップ」(沖縄県酒造組合連合会)を手元において泡盛の完全制覇を試みたりしている。
中学校3年生のとき、わが家で小学校と中学校の先生たちの宴会があった。両校の家庭訪問の日程・地域が重なり、せっかくだから合同で、となったようだ。奥座敷まであけはなして、めいめいが膳に座るので壮観だ。
お銚子をもって担任のS先生(英語)の前にいくと、先生が私の顔を正面からみすえて「淳くん、きみはもっと広い世界で活躍したほうが良い。この村をでるべきだ」といった。冗談ひとついわない謹厳実直な先生の、なんともストレートな忠告だった。
不意をつかれた思いでいると、1年生で担任だったA先生(保健体育)が「そうだ。でたほうがいい」と即座に同意した。S先生もA先生も村外の出身だけに、客観的に私の将来をみていたのではないかと想像する。
村の人たちの集まりでは、興がのってくると誰からともなく手拍子がでて「どんぱん節」など秋田民謡がうたわれた。狂言の演目「木六駄」は、使いに出された太郎冠者が寒さのあまり主人から託された酒を飲みほしてしまう話だが、一杯また一杯と飲むうちに太郎冠者の酔いがどんどん回っていくあの演技を観るたびに、私は幼少年期の宴席の様子を思い出すことになる。
ただ、酒に飲まれる人も多かった。帰りみちで自転車ごと田圃に突っ込んだ、などというのは良いほうだ。いつまでも戻らない当主を探しにいったら、墓場の地面にすわって一人で宴会をしていた、という類のエピソードが流布している。村の人たちは声をひそめて「きつねに化かされたんだ」と噂した。
他家に寄り道する癖のある人もいた。夜半、集落のはずれのほうで酔人の大声がして、その声がだんだん近づいてくる。まだ明かりの点っている家々では、その声を合図に「それっ」とばかりに電灯を消す。しかし、効果は希薄だ。玄関先の暗さもものかは、いっこうに立ち去る気配がないのだ。根負けして電気をつけると、座敷にすわりこんで「なあんもいらね。酒ッコだけあればいい」とコップ酒を所望する。
もう完全にできあがってしまっているから、こわいものなし。家族のだれかが迎えにくるまで、とりとめのない話がえんえん続くことになる。
翌朝、酔い覚めの本人は意気消沈。奥さんが「あいー、仕方ねすなあ。(なんとも、申し訳なくて)」といいながら立ちより先を詫びて歩く。面白いのは、酔客を邪険に扱う人がだれもいないことで、都会生活では考えられないほど酔っぱらいに寛容な風土だった。