90歳の熊谷守一さんが、深さ2.7メートルの涸れ池に腰をおろして、真っすぐこちらを見あげている。顔の半分をおおいつくす長いひげ、手にはステッキ。晩年の守一さんは、50坪の庭を自分の世界と定めいっさい外出しなかったようだ。
穴の底で深山幽谷の気分が味わえたというが、それは守一さんの過酷すぎる人生経験とひた向きな画業のはてに生まれた世界である。だれもがもてる世界ではないし、ましてやその味わいの深さについては推し量るべくもない。(熊谷守一画文集「ひとりたのしむ」求龍堂 1998年)
平凡を生きるものに世界を味わう経験があるのか。そう考えるうちに、幼いころの記憶がよみがえった。小学校にあがるまえで、半径数百メートルが世界のほとんどだった時代のことである。縁側のすみで木箱のような電話機をみつけたり、ほんものの熊の手でつくった巾着―爪も生えている―を土蔵の引き出しで発見したりという具合に、いたるところに冒険の種がある。だから世界は十分に広いし、集落の子どもたちと村の中を駆け回ることが、そのままルソーのいう「自己教育」だった。
子どもたちは、どこの藪のどの果実がいつ食べごろかを知っている。生家の屋敷では、季節ごとに、すもも、杏、スグリ、野いちご、グミ、無花果、ザクロ、豆柿、百目(百匁)柿がとれる。サツキの花のラッパ状の芯をすうと蜜の甘さが口に残るし、「ハムレット」では毒薬の材料になるオンコ(イチイ)だが、その種をつつんでいる赤い透明感のある仮種皮がねっとりと甘くて好物だった。
このあたりでは、収穫したあとの稲藁を、冬の終わりまで熟成させて田圃の堆肥にする。化学肥料にとってかわられる前のはなしだ。生家の場合は、道路を隔てた「向かい屋敷」に、人の背丈より高く積みあげて、ちょうどモンゴルのゲルのような形にする。
それを使って渋柿のちょっとした加工をはじめた。稲藁の壁に渋柿をさし入れ、自然に熟すのをまつのだ。寒さが募るころ、ゼリーのようなトロトロの実になったら食べごろである。ただ、柿を入れた場所をときどき忘れてしまうのは、百舌のはやにえにも似ている。
よく「子ども期の喪失」ということがいわれる。しかし、もしあなたの人生の黄金期はいつかときかれたら、野の恵みとともに季節の空気を全身で味わうことのできた、このほんの短い時期だ、と答えるだろう。