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大塚久雄先生と静謐な空間 (1)

1970年の春に、リベラル・アーツの教育を掲げるICUに入学した。指導教授の武田清子先生は、リベラル・アーツの特質を「自分自身から解き放たれて、他者・多文化と出会うこと」と定義している。

いまICUの学年定員は600名ほどだが、私の入学した18期でいうと、4月入学生は126名。新宿や渋谷の街中ですれちがうと、お互いに気づいてしまうような規模だった。

理学館(N棟)の外観は昔のまま

4月23日に入学オリエンテーションの一環で記念講演があった。演題は「科学における専門化と総合化」、講師は欧州経済史の大塚久雄先生である。キャンパスの北西にある理学館の階段教室に登場した大塚さんは、羽織袴の正装である。ICUという洋風の響きのある大学で和服姿というのも不思議だったが、そのうえ両手に松葉杖を握っている。

1968年に東大経済学部を退官した大塚さんは、翌年、集大成となる『大塚久雄著作集』(岩波書店 全10巻)を刊行、この春ICUに着任したばかりだった。武田清子先生による講師紹介のあと、なにもないテーブルにすわって、ひとあたり会場をみわたしてから、ゆったりしたリズムで話しはじめた。

N棟の入り口

穏やかで凛とした語り口にひきこまれ、会場は水をうったように静かなのだが、なにせ抽象度が高い。これから話すことは、諸君にはまだよく分からないかも知れないが、やがて分かるときがくるだろう、と前置きした通りの展開になった。

おおよそこんな話だ。ひと口に専門化といっても、専門化には理論的専門化と実践的専門化がある。これまで後者のほうが一段低くみられる傾向にあったが、次第に前面にでるようになった。いまではたんなる専門化をこえた総合化、また理論的知識の総合ということが避けがたい流れである。一方で、実り豊かな総合のためには、専門化もどんどん進める必要がある。

科学研究の背後には一定の思想が控えている。しかし、思想や宗教のかたちで現れる価値自体は科学の対象となりえない。だから“科学的”という語を聞いて文句なしに頭を下げるのではなく、科学の名で説かれる因果連関がどのくらい可能であるのか、それを支えている法則的知識そのものを用いて検証する価値批判の方法(M.ヴェーバー)を採用する必要がある。そうした科学の立場にたつ物の見方や考え方の基本を学ぶのに、大学は相対的に適した場所である。

階段教室の中段で聴いたこの講演が、私の体験した最初の学術講演である。のちに小さなパンフレットになって学生に配布されたから、何度か読み返してみた。いまは『社会科学と信仰と』(みすず書房、1994年刊)にも収録されている。興味深い事例がふんだんにでてくるのが大塚さんの講義の特徴だが、このときの講演は、18歳の若者相手にしては、エッセンスの方がやや前にでているようにみえる。当時は気づかなかったが、この講演はリベラル・アーツにむかう方法意識を鮮明にうちだしたものだと考えるようになった。

これが大塚先生との最初の出会いということになる。私はとてもうかつな人間で、生き方もふくめて、大塚さんの影響を強く感じるようになるのは、この日から10年以上たってからである。

ICUへの進学

大学本館

高校3年生のときの悩みは、大学の専攻を文学と政治学のどちらにするか、ということだった。まだ何ものでもない自分が何かになるために、まずは社会の構造そのものを知る必要があるというはなはだ抽象的な結論をえて、私は政治学を選ぶことにした。

本館前から教会方向をみる

1学期のある日、「蛍雪時代」をかこんで雑談した。教室にいた5,6人は私も含めてみな国立大学志望だったが、ページをパラパラめくるうち、なぜか国際基督教大学(ICU)という名に目がとまった。教養学部だけの単科大学、試験科目名が通常の「数学」や「歴史」でなく、自然科学、社会科学など大きなくくりになっている。私立大学には珍しく2次試験まであって、面接もやるらしい。留学生の比率が高い国際的な大学というのも気になった。

泰山荘の庭

そんなことを話していると、たまたま顔をだした担任の山岡雄平先生(国語)が、ドアのあたりから「ICUはいい大学だよ」と一言いった。前年度、いっしょに合唱をしていた菊池壮蔵さん(福島大学教授)など、少なくとも3人が秋田高校からICUに進学しているから、なにか情報があったのかもしれない。

泰山荘の門-学生時代の散歩コースになった

この年の夏、久里浜にいた優子叔母のところを拠点にして都内の大学を見て歩いた。都心の大学は、新聞社の写真部員だった弘学叔父もつきあってくれたが、三鷹にあるICUへは1人でいった。

正門から教会堂まで、八百メートルほどの桜並木(マクリーン通り)がまっすぐ続く。教会前のロータリーのほどよく手入れされた花壇を右折して本館にいくと、建物の前に広々とした芝生が広がっている。一斉休暇中のせいか、芝生で語らう外国人学生のほかに人影がみあたらない。

静かなキャンパスを時計と反対廻りに一周してみた。木々のあいだにゴルフコース、洋風の一戸建て住宅、学生寮、和風庭園などが点在するばかりで、大きな建物がほとんどない。

東京にある大学のイメージとはかけ離れた、まるで別世界のようなキャンパスだった。境界は判然としないものの、四方を雑木林に囲まれた広大な校地であることは分かる。林間の道をぬけグランド沿いの道にでると、そこだけぽっかり日盛りの大きな青空が広がっていた。

グラウンド越しに体育館をみる

大学紛争の真っ最中だとはつゆ知らなかったが、キャンパスを出るときには「ここを受験しよう」と心に決めていた。

近所で「かぶらの跡取りが牧師の学校に入ったそうだ」と噂されるほど、地方でICUの存在が知られていない時代のことである。

その後の33年間、このキャンパスが私の学びと生活の場になった。

酒どころ

私の育った地方にはいくつか日本酒の蔵元があり、酒好きもすこぶる多い。何かと理由をつけては飲み、理由がなくても飲む。飲み屋というもののない村だったから、だれかの家が宴会場になるのがつねで、子どもたちは小さいころからお酌の仕方をおそわり、ついでに人間観察の機会をあたえられる。

かくいう私も嫌いなほうではない。若い時分、Good Beer Guide(1979年版)を手がかりに、かたっぱしから英国ビールをためしてみたし、近年も「琉球泡盛銘柄マップ」(沖縄県酒造組合連合会)を手元において泡盛の完全制覇を試みたりしている。

中学校3年生のとき、わが家で小学校と中学校の先生たちの宴会があった。両校の家庭訪問の日程・地域が重なり、せっかくだから合同で、となったようだ。奥座敷まであけはなして、めいめいが膳に座るので壮観だ。

お銚子をもって担任のS先生(英語)の前にいくと、先生が私の顔を正面からみすえて「淳くん、きみはもっと広い世界で活躍したほうが良い。この村をでるべきだ」といった。冗談ひとついわない謹厳実直な先生の、なんともストレートな忠告だった。

不意をつかれた思いでいると、1年生で担任だったA先生(保健体育)が「そうだ。でたほうがいい」と即座に同意した。S先生もA先生も村外の出身だけに、客観的に私の将来をみていたのではないかと想像する。

村の人たちの集まりでは、興がのってくると誰からともなく手拍子がでて「どんぱん節」など秋田民謡がうたわれた。狂言の演目「木六駄」は、使いに出された太郎冠者が寒さのあまり主人から託された酒を飲みほしてしまう話だが、一杯また一杯と飲むうちに太郎冠者の酔いがどんどん回っていくあの演技を観るたびに、私は幼少年期の宴席の様子を思い出すことになる。

ただ、酒に飲まれる人も多かった。帰りみちで自転車ごと田圃に突っ込んだ、などというのは良いほうだ。いつまでも戻らない当主を探しにいったら、墓場の地面にすわって一人で宴会をしていた、という類のエピソードが流布している。村の人たちは声をひそめて「きつねに化かされたんだ」と噂した。

他家に寄り道する癖のある人もいた。夜半、集落のはずれのほうで酔人の大声がして、その声がだんだん近づいてくる。まだ明かりの点っている家々では、その声を合図に「それっ」とばかりに電灯を消す。しかし、効果は希薄だ。玄関先の暗さもものかは、いっこうに立ち去る気配がないのだ。根負けして電気をつけると、座敷にすわりこんで「なあんもいらね。酒ッコだけあればいい」とコップ酒を所望する。

もう完全にできあがってしまっているから、こわいものなし。家族のだれかが迎えにくるまで、とりとめのない話がえんえん続くことになる。

翌朝、酔い覚めの本人は意気消沈。奥さんが「あいー、仕方ねすなあ。(なんとも、申し訳なくて)」といいながら立ちより先を詫びて歩く。面白いのは、酔客を邪険に扱う人がだれもいないことで、都会生活では考えられないほど酔っぱらいに寛容な風土だった。

 

佐竹寛先生とゼミナール

私を西洋政治思想史の研究に導いてくれたのは佐竹寛先生(モンテスキュー研究 中央大学名誉教授)である。先生が亡くなってから、早いもので1年がたとうとしている。先生がICUで土曜日の午前に開講しいていた「西洋政治思想史Ⅰ.Ⅱ.Ⅲ」(学部の専門科目)は、プラトン、マキャベリ、ホッブズ、ロック、ルソー、J.S.ミル、エンゲルスなどの古典を読むゼミナール形式の授業だ。

私は、ちょっと背伸びして2年生のとき受講をはじめた。1971年はまだ大学紛争の余燼がくすぶっていたころで、20人にみたない受講者のなかに留年組が幾人もいた。この授業では、報告者でなくてもブック・レポートをだすことになっている。仕事の遅い私は半徹夜でレポートを仕上げ、本館前の芝生を横切って、第1男子寮から森閑とした教室までの道を歩くのがつねだった。

新学期がはじまったばかりのころ、課題レポートを持たずに教室にきた上級生がいた。「先生はどうするのだろう。」と思っていると、ちょっと間をおいて、「あなたはこの教室にいる資格がないのででていってください。」と静かに、しかし断固とした調子で通告した。プリンストン大学に留学したとき、ゼミナールの教育効果に目を開かされたということだが、2度目の海外留学をへて、それは先生の確信になっていたようである。

こう書くと、いかめしい雰囲気の教師をイメージするかもしれない。たしかに、40代後半の先生は颯爽としていた。ただ、いかめしいというよりは、笑顔に愛嬌のある温厚な紳士という言い方のほうがあたっている。サイドベンツの上着、腰を軸にしてすっと立つ様子は、どこかオペラ歌手の立ち姿を思わせる。

佐竹先生は、陸軍幼年学校、陸軍士官学校をでた職業軍人として23歳のときに終戦を迎え、その年に父君を亡くしている。さまざまな肉体労働で一家の生活を支え、「本当のことを知りたい」と改めて中央大学にはいったときには28歳になっていた。

後年、中央大学の本務のほか、市川房枝さんの婦選会館の市民講座を39年間担当し、多くの市民運動家、地方議員を育てている。驚くべき持続力である。ICUの授業、中央大学のゼミ合宿、婦選会館の講座、どこでも聞き役に徹しているように見えたが、そうしたスタイルは、民主主義にたいする持続する志と表裏の関係だったのではないか、と思えてくる。

先生の来歴については、中村孝文さん(武蔵野大学教授)が編んだ「佐竹寛先生 年譜・主要著作目録」がたくさんのことを教えてくれる。というのも、先生自身が個人史について多くを語らず、随想の類も残さなかったからである。陰影にとんだ人生の歩みを語り伝えることの困難を前にして、生(なま)のかたちで体験談を語ることへのある種の断念があったのではないか、というのが私の想像である。

ただ、先生がいつになく雄弁に語ったことがある。1990年の秋、熊本から天草半島まで泊りがけでドライブしたときだ。佐竹先生、中村さん、私の気のおけない3人旅である。旅の途次、戦後に遭遇した価値観の転換、学問を志したいきさつ、留学中にご母堂を亡くして経験した精神的危機などについて、はじめてゆっくりと聞いた。旅のゴールは崎津天主堂で、海がすぐ近くまでせまる畳敷きの小さな教会である。その祭壇をみつめながら「私はカソリックの信仰をもっているのです。」とうちあけられたときは、きっとこの慎ましい空間が、先生の口を開かせたのだろうと感じた。

私は、佐竹先生から、古典を介して自分の人生と向き合う仕方を、また学生の発言をまってかれらの良さをひきだすゼミ運営のスタイルを学んだといえる。

異文化間教育学会の研究大会

カフェテリア ”学生たちは街のことを下界と呼んでます。”

週末に、大分の立命館アジア太平洋大学(APU)で、異文化間教育学会第33回研究大会があった。学会の会員数は現在920名。時代の要請もあるのだろうか。大学の教育実践に真正面から取り組んでそこから理論構築をはかろうとする刺激的な報告がふえているように感じる。

来年の34回大会(2013年6月8日―9日)の会場は日本大学文理学部、獲得研も全面的に運営をサポートする。そこで幹事役をになう和田俊彦さん、藤井洋武さんが、APU大会に参加し、大会委員長の近藤祐一先生、副委員長の平井達也先生にインタビューさせていただいたり、記録写真をとったりと精力的に取材を進めた。

APU大会の特徴の一つは、学生さんたちの大活躍だ。受付、発表会場、休憩室、キャンパスツアーなど、あらゆる場面で若々しく雰囲気を盛り上げている。懇親会の司会まで学部生がやる研究大会はみたことがない。力みのない自然なもてなしにAPUの学校文化があらわれているなあ、と感じる。

眺望絶景の山上に広がるAPUのキャンパスと、東京でも珍しくなった学生街の先に広がる文理学部のキャンパスの雰囲気は対照的といっていいものだ。ただ、APUのもてなしの心に学び、活性化のすすむ学会の研究活動をじゅうぶんに反映する研究大会にしよう、と想を練りはじめている。

1300人収容の学寮  ”7割は留学生なんです。”

指先の感触

映画では源流行の起点になるあたり(左下に家族連れの姿がある)

川に親しんで育ったせいで、清流というものに無条件の憧れがある。私が親しんだのは、奥羽山脈から八郎潟東岸にそそぐ総延長20キロの川、その中流域のあたりだ。中学校にあがるまで、春秋はフナ釣り、夏は手づかみのオイカワ(ヤマベ)漁に熱中した。泳ぎもここで自然に覚えた。

八郎潟東岸は広大な平野だから、いくつも川が流れている。父の実家がある隣町の川はもっと大きい。上流が映画「釣りキチ三平」のロケ地になるほどの清流だから、父の子ども時代は素潜りで魚を突いたものらしい。

私にとって忘れがたいのは手づかみの漁である。生家から南に緩い坂をくだり300メートルほど田圃道をいくと木橋があり、欄干ごしに、浅瀬を泳ぐ魚の群れがキラキラ銀色の光をかがやかせているのが見える。ずいぶん大きな川に思えたが、川幅はせいぜい20メートルあったかどうかだろう。上流はイワナのすむ清流で水温も低いが、このあたりは水温もさほど低くないうえに水量も下流域ほど多くないから、水遊びに最適の条件をそなえている。

岸に服を脱ぎすて、膝から腰のあたりまでくる水をこいで川の中を進む。オイカワは岩の下流側のくぼみに身を隠す性質がある。そこでポイントに近づくと、あたりをつけて両腕をソーッと抱え込むように差し入れ、指先に神経を集中させてつかまえる。顔は水の上にあって手元が見えない。だから指先の感覚だけが頼りの、きわめて原始的な漁である。オイカワのメスはアユのような地味な色だが、オスは体長も大きく婚姻色は虹のように美しい。

鬱蒼とした緑におおわれた淀み、堰堤を下った流れが水しぶきを上げる場所、浅瀬の大きな石など、ポイントをたどりながら川を下っていく。とらえた獲物は鰓(えら)から口に柳の枝を通してもち運ぶ。もう一つ下流の橋までいく間に、どうかすると枝がいっぱいになるほどオイカワが獲れることがあった。

いちどだけ鯰(なまず)をつかまえたことがある。場所は木橋のすこし上(かみ)だ。大雨のせいで湾曲部にある大木の地面がえぐられ、細かい根が水中で簾のように絡まりあっている。ここを手探りしているうちに、はずみで両手に余るほど太い胴がすっぽり手に収まった。その柔らかい感触にはっとしたが、こころを落ち着かせ、相手が暴れないように静かにからだに引き寄せる。そして胸のあたりに抱え込むがはやいか、一目散に岸をかけのぼった。草のうえに獲物を放りだすと、立派なひげの鯰が尾を左右にふって草の上をはねた。そのときの興奮が、両手のぬるぬるした感触とともにいまも蘇ってくる。

夏でも身をきるように冷たい

世界の広さ-人生の黄金期

庭のザクロ

90歳の熊谷守一さんが、深さ2.7メートルの涸れ池に腰をおろして、真っすぐこちらを見あげている。顔の半分をおおいつくす長いひげ、手にはステッキ。晩年の守一さんは、50坪の庭を自分の世界と定めいっさい外出しなかったようだ。

穴の底で深山幽谷の気分が味わえたというが、それは守一さんの過酷すぎる人生経験とひた向きな画業のはてに生まれた世界である。だれもがもてる世界ではないし、ましてやその味わいの深さについては推し量るべくもない。(熊谷守一画文集「ひとりたのしむ」求龍堂 1998年)

平凡を生きるものに世界を味わう経験があるのか。そう考えるうちに、幼いころの記憶がよみがえった。小学校にあがるまえで、半径数百メートルが世界のほとんどだった時代のことである。縁側のすみで木箱のような電話機をみつけたり、ほんものの熊の手でつくった巾着―爪も生えている―を土蔵の引き出しで発見したりという具合に、いたるところに冒険の種がある。だから世界は十分に広いし、集落の子どもたちと村の中を駆け回ることが、そのままルソーのいう「自己教育」だった。

子どもたちは、どこの藪のどの果実がいつ食べごろかを知っている。生家の屋敷では、季節ごとに、すもも、杏、スグリ、野いちご、グミ、無花果、ザクロ、豆柿、百目(百匁)柿がとれる。サツキの花のラッパ状の芯をすうと蜜の甘さが口に残るし、「ハムレット」では毒薬の材料になるオンコ(イチイ)だが、その種をつつんでいる赤い透明感のある仮種皮がねっとりと甘くて好物だった。

このあたりでは、収穫したあとの稲藁を、冬の終わりまで熟成させて田圃の堆肥にする。化学肥料にとってかわられる前のはなしだ。生家の場合は、道路を隔てた「向かい屋敷」に、人の背丈より高く積みあげて、ちょうどモンゴルのゲルのような形にする。

それを使って渋柿のちょっとした加工をはじめた。稲藁の壁に渋柿をさし入れ、自然に熟すのをまつのだ。寒さが募るころ、ゼリーのようなトロトロの実になったら食べごろである。ただ、柿を入れた場所をときどき忘れてしまうのは、百舌のはやにえにも似ている。

よく「子ども期の喪失」ということがいわれる。しかし、もしあなたの人生の黄金期はいつかときかれたら、野の恵みとともに季節の空気を全身で味わうことのできた、このほんの短い時期だ、と答えるだろう。