身体性」カテゴリーアーカイブ

茂山千作師と千之丞師

茂山千作さん(大蔵流狂言師 人間国宝)が5月23日に、93歳で亡くなった。付き添っていた恵子夫人が眠っている間に、自室で息を引き取ったという。大往生である。

野村万作さんの追悼談話「狂言を芸術にした主役」(朝日新聞・5月25日付)が秀逸だった。「舞を拝見すると(千作さんの)体の線の強さが分かります。新劇のように体をリラックスさせて演じるのではなく、ピシッと緊張した体をとてもよく動かすことができた。美しい「型」はそういう体がつくるもの。そうした基礎の上に濃い個性と愛嬌があふれ、誰にもまねのできない芸になっていました」と語っている。

このブログで、2002年に京都で千作さんと対談したときのことを書いた。その場で小舞の「京わらんべ」を見せてもらいながら、千作さんの身体性について感じたことが、実はこういうことだったのか、と談話を読んで納得した。

続けて万作さんは、狂言が能に付属するものではないという主張を、社会にむかってどう示すかを考えたプランナーが弟の千之丞さんで、その企画にのって、狂言の面白さを広く認めさせたのが千作さんだ、と述べている。

千之丞さん抜きで千作さんは語れない。千作さんの回顧談を読むと、二人で賀茂川の流れをはさんでセリフの稽古をしたこと、宿舎で蚤にくわれるような苦労をしながら学校公演を続けたことなど、芸道の二人三脚ぶりがしばしば登場する。

千之丞さんは理知的な前衛性を体現していた。沖縄市コリンザでみた現代劇の一人芝居、所沢市マーキーホールでみたオーケストラとの協演など、晩年にいたるまで、印象深い舞台がいくつもある。

千作さんは、朗らかに突き抜けた明るい芸風を築いた。晩年の国立能楽堂の舞台では、歩行もままならない様子だったが、存在感の大きさは健在で、観る者に微塵も暗さを感じさせなかった。この二人の個性があわさって、狂言の奥深い魅力を形成している。

ことしの正月に、NHKテレビで、茂山千五郎家の正月行事が紹介された。千五郎家の雑煮には、お椀がいっぱいになるほど大きな丸餅が入る。丸餅にかぶりつく家族のなかに千作さんの姿があり、それが私にとっては、千作さんをみかけた最後だった。

ロイヤル・オペラ・ハウス

おなじロンドンの劇場でも、スタッフの対応の丁寧さにおいてロイヤル・オペラ・ハウスが群を抜いている。ここは、公演のないときでも自由に出入りできるオペラとバレエのための劇場である。

コヴェント・ガーデン 広場側の入り口

コヴェント・ガーデンの広場側入口

何年か前のことだが、近くにあったはずの演劇博物館がどうしても見つからない。それで、受付の若い男性にきいたら「恥ずかしいことですが、最近、資金不足で廃館しました」といってから「展示品の一部がビクトリア&アルバート美術館に引き取られたそうです」と教えてくれた。博物館がなくなったことへの落胆より、恥ずかしながらなどという表現が自然にでてくることの方にまず驚いた。

開演の前に

開演の前に

今回、朝の9時半にロイヤル・バレエの当日券を買いにいったら、もう20人ほどが建物の前で列を作っていた。10時開門。案内係の中年男性がカウンターのそばまで誘導し、一人ひとりに声をかける。そのエレガントな対応で、当日券が50枚ばかりあることや残っているチケットの種類などについて、カウンターに行く前に知ることができた。

公演は、「アポロ」など三演目である。同じプログラムでの上演は3回だけだから、よほど日程に恵まれないと短期旅行者が観るのは難しい。それでも、客席に日本人の姿がめだつのはブームの影響だろうか。

昨年夏のアフリカ音楽ワークショップ

昨年夏のアフリカ音楽ワークショップ

オペラ・ハウスの裏側がコヴェント・ガーデンの広場である。広場の真ん中にあるレンガ造りの建物は昔の青果市場でミュージカル『マイ・フェア・レディ』の舞台だ。もともと庶民がはたらく空間だったわけだが、いまでもこの周辺はお祭りのような喧騒につつまれている。

大道芸人が同時多発的にパフォーマンスを披露するので、あちこちに人だかりができるし、吹き抜けになった建物の地下広場でも、若い演奏家や歌手が入れ代わり立ち代わり音楽をかなでているからだ。雑多なものの混交する空間がコヴェント・ガーデンである。

ドームの下が大きなレストランとバーになっている

ドームの下が大きなレストランとバー

オペラ・ハウスのバレエ公演が、特定の文法にしたがって極限まで鍛えられた身体をもつダンサーの動きを鑑賞するためのシステムだとすれば、そこは、観客のふるまいや服装まで含めて、システムを支えている身体性が露出する空間でもある。劇場で働くひとたちの応対ももちろんそれとつながっている。

だから、この一帯にただよっているは、オペラ・ハウス内の静けさと広場の喧騒とのコントラストだけでなく、立ち居ふるまいや身体性のコントラストでもある。わたしはその振幅の大きさをいつも面白く感じている。

大雪とスキーの身体

大雪の成人式である。雪に降りこめられて、連休の最終日を家で過ごした人も多いことだろう。

大雪の記憶では、やはり三八豪雪(1963年)が鮮明である。小学校6年生のときだ。「かまくら」で有名な横手市などとちがって、平野部にあるわたしの村は、さほど降雪量の多くない地域なのだが、この年ばかりは、けた違いの雪がのしのしと降った。

屋根から降ろした雪の高さが、軒端ちかくまできたのを幸い、足からプールに飛び込む要領でダイブして遊んだ。全身がかくれるほど、柔らかい雪に埋もれるのがなんとも楽しかったが、すぐそんな悠長な状態でなくなった。窓という窓が、雪の壁でおおわれ、日中でも家の中が薄暗くなってしまったのだ。

隣町の映画館に「まぼろし探偵」がかかると聞き、集落の同級生で観にいった。自動車みちが、細く踏み固められた一本道になっている。列をつくって、踏み跡をたどっていくと、足元から自動車の屋根がでてきた。雪で立ち往生した車が、そのまま放置されてしまったものらしい。

物心つくころから、そりやスキーに親しんでいた。最初の記憶は、ごく幼児期に、祖父が見守るなか、庭の築山からそりで滑りおりたときのものである。

小学校時代は、スキーに夢中だった。近くの山が雪に覆われるのをまって、朝早くから暗くなるまですべる。スケートもやったが、こちらの難点は、池の氷がじゅうぶん厚くなるまで待たねばならず、楽しめる期間が限られることだ。

もちろんスラロームを楽しむようなゲレンデもなければ用具もない。60年代半ばになって、スキー板とスキー靴をセットで買ってもらう子もあらわれたが、大方は長靴をゴムバンドでスキー板と固定する簡易ないでたち、素早いターンなどおよびもつかない装備だった。段々畑の頂上までスキー板をかついでいき、あとはひたすら滑降する。大きなギャップもそのままジャンプで越える。実際のところは、ブレーキをかける方法がなかったというのが正しい。

誰に習ったのでもないが、乱暴なすべりを、見よう見まねで繰り返しているうちに、バランス感覚がきたえられ、滅多なことで転倒しなくなった。

中学校のときから、ほとんどスキーというものをやっていない。ただ、実践で身につけた感覚は、ながく残るらしい。というのも、ICU高校の教師時代、初級者コースではあれ、スキー教室の指導員の役割を大過なくこなせたからだ。

茂山千作師と狂言の身体

 

ガーデンパレスから蛤御門をみる

茂山千作さん(大蔵流狂言師 人間国宝)の芸の魅力については、いまさらいうまでもない。小柄なからだが舞台に登場するだけで圧倒的存在感を発揮する。その千作さんが、大・中・小の笑いを笑いわけるのを、目の前でみた。大きく開かれた口、ゆったりしたリズム、全身が笑いそのものになっている。ちょうど10年前の公開対談のおりだ。

対談の場所は、蛤御門のまえにある京都ガーデンパレス。宴会場の仮設舞台である。ある研究会で「狂言の身体と表現力」という講演をお願いしたのだが、「ひとりでしゃべるのはどうも。」ということで、急遽、対談形式になった。対談のプロットを書いたのは同志社高校の網谷正美先生(国語)である。ご自身がキャリア30年をこすプロの狂言師とあって、質問の内容がじつに行き届いている。

対談にさきだって打ち合わせに伺った。舞台やテレビは別として、じかにお目にかかるのは初めてである。京都御所近くにあるご自宅の応接間で対面した瞬間「あっ」と思った。ちょっと重心を低くして立つ姿が、狂言の姿そのものなのだ。

ことばでうまく表現できないが、そのとき私が感じたのは「生きた狂言がここにいる。」ということだ。このときの千作さんは83歳。芸歴はすでに80年を数えている。この日から、立ち姿の大切さについて考えるようになった。

対談当日、会場で意想外のことが起きた。羽織袴姿の千作さんが、扉のすぐ内側のジュータンの上で草履を脱いだのだ。しかも、そのまま舞台にむかって真っすぐ歩きだすではないか。千作さんは、もう橋懸りをゆく舞台人の顔になっている。

私はあっけにとられ、靴を脱ぐタイミングを失したまま千作さんについていく。黄門様のあとを小走りでおいかける“うっかり八兵衛”のようなものだ。「やはり靴を脱いだほうがいいですね。」と半歩後ろから小さく声をかけると、千作さんがまっすぐ前をむいたまま、低い声で「ハイ」と一言いった。なんとも間抜けな質問をしたものだ。

私は千作さんの講演を支える助演者たるべきだったのだが、心の準備が十分でなかった。その日の私の服装はといえば、ジャケットにハイネックのシャツ、とうぜん靴下をはいている。対談のおりの写真をみるたびに「それにしても舞台で靴下はさまにならない。」と思うのである。

蛤御門から仙洞御所の方向をみる

雪国の身体-相撲

きのうの運営委員会でこのブログが話題になった。ゆるさ加減がちょうど良いという意見から、もっとはじけて欲しいというものまで、コメントに幅がある。アップの仕方については、文章を小分けにして続き物にしたら、ケータイでも読みやすいし回数も稼げるのでは、というアドバイスも頂戴した。参考にさせていただきます。

半年近く雪にふりこめられる生活がやっかいだというのは確かだが、子どもはどんなところでも楽しみをみいだして暮らしている。また雪との暮らしが、北国の子ども特有の身体性を生んでいるように思う。

私の村の冬のスポーツの代表がスキー、そして相撲だった。秋田はとりわけ相撲の盛んな土地柄で、村には草相撲の力士がたくさんおり見巧者も多かった。初代若乃花や輪島などの横綱を育てた花籠親方(元力士・大ノ海)が地元小学校の出身ということもあって、小さい頃から新聞の星取表を欠かさずチェックしていた。当時、土俵の鬼・若乃花、褐色の弾丸・房錦、潜航艇・岩風、起重機・明武谷など味のあるお相撲さんがたくさんいたが、わたしは未完の大器と呼ばれた花籠部屋の若三杉(大豪)がひいきだった。大豪関には失礼だが、必ずしも大スターでない人を応援する志向がすでに当時からあったようだ。

冬になると集団登校の時間を早めて体育館に向かい、床に引かれた円を土俵にみたてて集落対抗戦をするのが日課だった。複数の試合が同時進行で行われるため、始業前の体育館がいつも熱気と喚声につつまれる。1年生同士の取組からはじめて6年生まで勝ち残りで土俵にあがるのだが、どうかすると下級生が3人抜きくらいすることもある。ヒートアップした年などは、近所の空き地に雪を積み上げ、それを踏み固めて本物さながらの土俵を築き、休日も練習に励んだりした。

勝ったり負けたりを6年間も繰り返すわけだから、重心の置き方など自然に工夫するようになる。子どもたちは押し相撲や四つ相撲など、それぞれ自分の相撲の型をもつようになるのだが、どんな型に落ち着くかはそれぞれの体格や敏捷性に規定されていた。私のばあいは四つ相撲に磨きをかけた。

得意技は右下手投げである。できるだけ重心を低くたもち相手の身体を持ちあげるようにして投げをうつ。これでも十分に効果があったが、やがて変則的な二丁投げを体得する。こんな具合だ。まず、右下手から相手の左足をはねあげ、相手が右足一本で重心を支える状態をつくる。そして相手の左足がまだ空中にあるうちに、支え足をもう一度素早くこちらの右足で払うのである。もともと小柄で重心が低かったこともあり、自分より体の大きい上級生にこの技がことに有効だった。5、6年生にかけて体が大きくなると、とうとう敵なしになった。中学校にあがってからまったく相撲をする機会がなくなったが、いまでも大相撲観戦が私の楽しみの一つである。

野球、剣道、柔道、バレーボール、ラグビー、水泳、テニスなど色々なスポーツに親しんだが、私の身体技法の基本をつくったのはなんといってもスキーと相撲である。