読書体験」カテゴリーアーカイブ

岩波新書が刊行に

今月の21日に刊行される岩波新書『アクティブ・ラーニングとは何か』の見本本が届いた。軽快で明るい印象の帯がついている。

岩波ジュニア新書『国際感覚ってなんだろう』(1995年)のときと同様、編集担当の清宮美稚子さんの適切なサポートがあったおかげで、完成にいたるまで、二人三脚の充実したプロセスを味わうことができた。

今回の場合、本のいわば骨格ともいうべきアイデアは、1997年からの20年の間に、雑誌『世界』に断続的に寄稿した4本の論考の中で発表してきたものである。それが本書の特徴となっている。

『国際感覚ってなんだろう』は、幸いなことに版を重ね、発刊から四半世紀たったいまでも、大きな本屋さんの棚に並んでいる。

では今回の新書は、一体どんな読者の手に届くことになるのだろうか。発売の日を楽しみに待ちたいと思っている。

『<トム・ソーヤ>を遊ぶ』

年末に嬉しいことがあった。獲得研のメンバーである武田富美子さんと吉田真理子さんの『<トム・ソーヤ>を遊ぶ』(晩成書房)が刊行されたのだ。www.bansei.co.jp/

本書の発刊は、ドラマワークを通じて、マーク・トウェインの文学世界に通じる新しい道が切り拓かれたことの証である。

二人は、ドラマ教育の分野でもっともアクティブな実践的研究者のグループに属する。背景も個性も違う二人が、ときに激しく衝突しながら、お互いへの尊敬の念を失うことなく、7年がかりでドラマワークの共同開発に取り組んだ。なかなかできることではない。

本書の特徴の一つは、マーク・トウェイン文学に明るくない読者でも、多彩な楽しみ方ができることだろう。というのも、作品の解説、様々なアクティビティを駆使して展開されるワークショップとそのふり返り、ミシシッピ川周辺の現地取材報告など、懇切でライブ感あふれる構成になっているからだ。

刊行に漕ぎつけるまでに、どんな紆余曲折があったのか、その舞台裏まで含めて書いているので面白くないはずがない。

わたしも「本書によせて」で、お二人にかかわるちょっとしたエピソードを寄稿している。自立した研究者の共同研究の一つのモデルとしても、お目通しいただきたい。

竹内好春『本を作って60年―その楽しさときびしさ』

「本を楽しもう会」の竹内好春さん(岩波書店OB)から、自分史『本を作って60年―その楽しさときびしさ』(私家版 142頁)をいただいた。

竹内さんは、1950年に岩波書店に入社、出版部・製作課で本づくりをしていた方だ。製作の仕事というのは、「造本の決定、印刷・製本所への的確な指示と、進行管理を行うこと」らしい。

この本は、ご自身が制作にかかわった作品を編年体で紹介し、その説明として函やカバーのデザイン写真(37頁)と付録(本文組み、図版頁の例 33頁)をつけたものである。いかにも製作畑の人らしく、仕事の軌跡で自分を語るユニークな自分史になっている。

 収載された本のラインナップをみると、古今東西にわたるテーマと言い、文系・理系を問わぬ著者と言い、まさに壮観である。私自身がお世話になった本もたくさん含まれている。

とりわけ印象に残る本には、短いコメントやエピソードが添えてある。せいぜい10行ほどだが、そこに失敗談も人間観察もあってこれが滅法面白い。味わい深いアンソロジー集の趣なのだ。

2003年の『岩波講座 天皇と王権を考える 9・生活世界とフォークロア』(全10冊)にはこんなコメントがある。ちょっと長いが、製作の仕事が分かるので、そのまま引用してみよう。

新刊本の「校了」は、毎回神経を集中する。あらかじめ確認すべき事項がすでに整理されているので、それにしたがって作業を進める。タイトル・著訳者名(新字・旧字に注意)、ページノンブル、柱、改丁・改頁などの確認。目次と本文の照合。その際前付け、後付けはとくに注意する。はしがきが、はじめに、になっていたり、索引が、人名索引になっていたりすることがよくある。大きな文字の誤りに気づかないことがよくある、要注意だ。基本は確実なものと照合することである。これらを終わった後、一休みし、ぼんやりする。このぼんやりが大変大事だ。最後にもう一度、初めから終わりまで、ゆっくり眺めて、「校了」の朱印を捺す。
やがて印刷が終わり、一部抜きが届く。その一部抜きで、全頁もう一度、書名、著者名など、校了時に行った確認作業や、刷の調子などを丁寧に見る。終わりはたいてい奥付を注意深く点検することである。いままでいったいどのくらい奥付をみてきたか。
私は、本を創った人、作った人、造った人、つくった人、そしてツクッタ人が、みんな奥付に集まっているように思う。

通読して、なるほど岩波書店の出版文化というものが、竹内さんのような人たちに支えられて成り立ってきたのか、と想像することができた。同時に、これまでもっぱら著者として本づくりをしてきたが、本というものが、一体どれだけたくさんの人たちの努力でつくられているものなのか、改めて考えさせられた。

どうやら座右の書が一冊、増えたようである。

中村哲さんの講演会―「本をたのしもう会」主催

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先週の土曜日に、三鷹公会堂で中村哲さんの講演会があった。開始に先立って、ペシャワール会がつくった「緑の大地計画」のビデオを映写室からみた。この「アフガニスタン用水路が運ぶ恵みと平和」(朗読:吉永小百合)の映像が凄い。

DSC00014中村哲さん講演2・会場

荒廃し砂漠化した土地に、アフガン人スタッフと人力で27キロメートルに及ぶ農業用水路を建設、すでに16000ha以上の土地を緑の沃野に甦らせている。取水堰の技術は、中村さんの故郷大牟田で江戸時代から使われている堰の技術を応用したのだという。

DSC00015中村さん澤地さん

中村哲さんは、雄弁の人ではない。30年以上たゆまず続けている活動の圧倒的リアリティが、会場につめかけた聴衆の心に深く静かにしみこんでくる、そんなタイプの講演だった。

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講演の後に、澤地久枝さんとの対談があった。そこで澤地さんが、日本国内はこんなにもヒドイ政治状況なってしまっているが、中村さんのしている仕事のことを考えるたび、絶望するのはまだ早いと思えてくる、と語って会場から大きな拍手が起こった。澤地さんの発言は、私を含む多くの聴衆の思いでもあったようだ。

『世界』3月号の教育特集

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『世界』(岩波書店)の3月号に、「アクティブ・ラーニングは可能か」という一文を寄せている。“「学び方改革」の視座”と題する特集の一環で、これは2020年から実施される学習指導要領の改訂をにらんだ企画である。

『世界』が教育問題をテーマにして大きな特集を組むのは珍しい。私が以前かかわった特集では、なんといっても“総合学習大丈夫? 学校の新しいかたちを考える”(2002年6月号)が印象深い。その時に寄稿した論考が「総合学習に展望はあるか」で、教育雑誌に投稿したときとはまた違う層の人たちから反響があったからだ。まだICU高校の教師だったころのことである。

あれから15年たつが、この15年の間に、日本の言論状況そのものがすっかり様変わりした。『論座』や『展望』などの総合雑誌が相次いで撤退し、その一方で、民主主義の危機が当時よりも明らかに深刻の度を増している。その分、『世界』に期待される役割が大きくなったということだ。

ましてやこのところの社会情勢である。トランプ問題、憲法問題、沖縄問題、経済格差と貧困化、原発問題等々、限られた誌面のなかで取り上げるべき喫緊の課題がいくらもある。

それらのテーマに比べると、教育問題は一見して緊急性が乏しいテーマのようにも見える。確かにそうかもしれない。ただ総合雑誌には、アップツーデートな課題を取り上げると同時に、中長期的なスパンで考えるべき事柄を提起して言論の歴史に爪痕を残していく役割もある、と思っている。

その意味で、今回、『世界』の編集部が教育問題で特集を組む、という見識を示したことに、改めて敬意を表したい。

『世界』の5月号

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『世界』(岩波書店)の5月号が、8日に発売になった。特集で、国谷裕子さんの「インタビューという仕事-『クローズアップ現代』の23年」を読むと、画面の向こうで国谷さんが何を考えて仕事をしてきたのかがよく分かる。筋の通ったジャーナリストの姿勢というのはこういうものなのか、と実感できる。

たまたま同じ号に、「主権者教育とは何か-『18歳選挙権』導入を機に」を書いた。この半年ほど、18歳選挙権をめぐる新聞各紙の報道をウォッチしてきたが、どうしても若者の投票率アップキャンペーンのトーンが強い記事が目立つことになる。もちろんそれも大切なことだが、一方で「教育」というからには、もう少し長いスパンで考える論調も必要ではないかと思う。

主権者教育について考えることは、どんな主権者像を描くのかということと表裏の関係だし、それは民主的社会を構成する市民をどう育てるのかということであり、同時に参加民主主義の成熟の過程をどう構想するのかということにもつながっているからだ。

『世界』に寄稿するのは、「総合学習に展望はあるか」(2002年6月号)以来14年ぶりだ。まだICU高校の教師だったころのことである。当時の私と大きく違っているのは、編集する側の苦労をより身近に感じるようになったことだろうか。もちろん総合雑誌の苦労とは比べるべくもないのだが、このところ、単著ではなく編著ばかりだしているせいである。

これだけ多彩なラインアップの原稿を、しかも毎月だしつづける努力たるや並大抵のものではないはずだ。

内橋克人氏の講演「不安社会を生きる」

出版NPO「本をたのしもう会」が主催する内橋克人氏(経済評論家)の講演会が、12月30日(日)に武蔵野公会堂であった。雨もよいの天候にもかかわらず350席のホールは満員の盛況である。

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会場を静かな熱気がおおっている。格差社会の進行、特定秘密保護法、憲法改正問題など、この社会はいったいどこに向かおうとしているのか、聴衆の側に時代にたいする危機感の共有ということがある。総選挙の告示直前でもあり、実にタイムリーな企画になった。

わたしは受付のお役をすませたロビーで、スピーカーから流れてくる講演をゆっくり聴かせてもらった。内橋さんは「利益の私物化、損失の社会化」(スティグリッツ)や「人間はもはや搾取の対象ではなくなった。いまや排除の対象になった」(フォレステル)などの短くしかし鋭い言葉を紹介しつつ時代の流れを読み解いていく。そして、日本の統計的・表面的豊かさと実質的貧しさの対照は、まるで河上肇の「国は著しく富める。民ははなはだしく貧しい。げに驚くべきは、文明における多数人の貧乏である」という文章と対応するように、戦前から変わっていないのではないか、と指摘する。

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アベノミクスの本質は「国策フィクション」だという。その根拠だが、2013年末のマネタリーベースが約47兆円、その後、わずか1年間で118兆円も膨らんだ。ところがそのじゃぶじゃぶの資金が、実態経済に回っていない。というのも、いま日銀に氷漬けになっている資金が120兆円あって、トータルでは逆に市中から2兆円吸いあがってしまった計算になる。「天空回廊を資金がグルグル回っている」のだ。したがって、いまあるのはインフレ期待を煽ることで生まれた一種の気分ということになる。それを内橋さんは「国策フィクション」と呼んでいる。

この現状でリーマンショックのような事態がきたらどうなるのか、と問う内橋さんの批判は情理を尽くしたものだ。語る言葉には、過度な装飾も無駄というものもない。あるのは静かな迫力、みごとなものである。いまわれわれは、賢さをともなう勇気をもつ必要がある、と講演を結んだ。

講演の途中で、少年期をすごした神戸での空襲体験について語っている。克人少年が盲腸で入院したその夜、お父さんが掘った防空壕を爆弾が直撃し、近所に住むご婦人が命をおとした。おばさんがすわっていたのは、壕の奥、いつもなら克人少年がすわるその場所であった。内橋氏はすでに母親を亡くしていて、その夜は、病院につきそうことになった父親にかわって、その婦人が残されたお姉さんの面倒をみてくれていたのである。

まったくの偶然で内橋さんが命を永らえ、まるで身代わりのように、親切な婦人が理不尽な死にみまわれた。自分はその人たちの無念を背負い、その人たちの分も人生の時間を生きているのだ、という。内橋さんの平和を希求する原点がそれだろう。

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この日、健康に不安をかかえる82歳の内橋さんが、100分を超えて立ったまま聴衆に語りかけた。会場の反応が内橋さんを元気づけたのではなかったか。350人の聴衆から90枚ものアンケートが返ってくる公開講演というのを、これまで聴いたことがない。語り手と聴き手が一体となってつくった渾身の講演という形容があたっているかどうかわからないが、わたしの印象はそうである。

内橋さんの警世のメッセージを正面から受け止めなければならない。そう思った。

「本をたのしもう会」の会員に

パンテオンの内部とフーコーの振り子

パンテオンの内部とフーコーの振り子

出版NPO「本をたのしもう会」は、読書推進活動を通して豊かな市民文化の形成をめざすグループだ。もともと信州出身の出版人が手弁当で参集したのが最初だそうで、会員には、編集や印刷など直接本の制作にかかわる人から、広告や流通が専門という人まで、出版の“生き字引”のような人たちがズラリ名前を連ねている。市民運動で活躍する多摩地域在住の人たちも会員だ。

わたしは、ICU時代の先輩・高村幸治さん(元岩波書店編集部長)の推挙で会に加わったばかりだが、“本をおくりだす”側の視点からいつも新しい刺激をうけている。

「本をたのしもう会」は、井上ひさし氏の講演「本を読む楽しさ」(2001年)から、アーサー・ビナード氏の講演「ぼくらの日本語は生き残るか?」(2013年)まで、毎年、武蔵野市で大きな講演会を開いている。講師陣は、大岡信、谷川俊太郎、上野千鶴子、澤地久枝、辻井喬氏など錚々たるメンバーである。

ことしも経済評論家・内橋克人氏の講演「不安社会を生きる」(日時:11月30日(日曜)午後2時― 会場:吉祥寺駅近くの武蔵野公会堂パープルホール 定員350名、聴講料千円、問合せ:℡.090-2662-5218)を聴く。不安社会の構造分析とともに、ではこれからどんな社会転換が可能なのか、その方向性についてもぜひ聴いてみたいと思う。

以下に掲載するのは、会の読書情報レター「本をたのしもう」No.13(2014年10月1日発行)に寄せた「ルソー散策」という短文で、新規会員であるわたしの挨拶文である。

ここ2年ほど「演劇的知の周辺」と題したブログをやっていて、本との出会いについてもぽつぽつ書いている。読書体験を記すと、いつの間にか自分史になってしまうところが面白い。

ルソー(1712-78)の『告白』(桑原武夫訳、岩波文庫)を夢中で読んだのは45年前、高校2年生の秋である。八郎潟東岸の小さな村から秋田市内にある賄(まかない)つきの下宿に移ったばかりで、ちょっとした高揚感もあったのだろう。玄関を入ってすぐ右手の6畳間、石油ストーブの炎の明るさまではっきり甦ってくる。

本の影響というのはげに恐ろしい。そして素敵だ。まさか10年ほどあとに、ルソーの生地ジュネーブから終焉の地となるパリ郊外の村まで、1か月かけて歩きまわることになるなど、当時は想像すらできないことだった。それで彼の「不幸な魂」が、すっかり私のなかに根をおろすことになった。

ルソー研究者の道は断念したが、“「自立的学習者=自律的市民」を育てる教育”という現在の研究テーマは、『エミール』や『社会契約論』の影響なしに考えられない。

2年前の夏、たまたまパリのパンテオンで、ルソー生誕300年記念と銘うつ大きな展覧会にでくわし、閑散とした会場で『孤独な散歩者の夢想』の草稿と対面した。「夢想」は、被害妄想の果てに生みだされた透明感のある文章で、いうところの絶筆である。

ルソーの筆跡をゆっくり目でたどるうち、どうも本の味わいというのは人生経験と共に深まるものらしい、それなら年をとるのも悪くないなあ、と思いはじめたことだった。

高村幸治さん(代表世話人)のお誘いで、この夏から会員に加えていただいた。驚いたのは、1回、1回の企画にこんなにも時間と手間をかけて準備しているんだということ、先輩たちの並々ならぬ熱意にふれて、さて自分に何ができるやら、と考えはじめている。

辰濃和男さん―第3回「著者を語る・著者と語る」

出版NPO「本をたのしうもう会」が主催する第3回「著者を語る・著者と語る」で、ジャーナリスト・辰濃和男さんの講演を聴いた。テーマは、「私の読書法―出会う、知る、楽しむ」。武蔵野市民会館・集会室は、90人の参加者で超満員の盛況である。

辰濃和男さんといえば、なんといっても朝日新聞のコラム「天声人語」の印象が強い。というのも、辰濃さんが天声人語子だった時期(1975年12月―1988年8月)は、ちょうどわたしが「政治経済」の教師として新聞に親しみ、生徒たちが新聞を使ったテーマ学習に取り組むようになった時期だからだ。

グレーのスーツにノーネクタイで登場した84歳の辰濃和男さんは、意想外に長身で細面の方だった。白いもののまじる総髪に、あごひげと口髭をたくわえた意志的な口元が、むかしの剣豪を髣髴させる。

辰濃さんは、折にふれて見かえす200冊ばかりの本を身近においている。今回は、その中から25冊をリュックにつめて会場に持ち込んだ。それで、「歳時記」にはじまり、熊谷守一「へたも絵のうち」、幸田文「父・こんなこと」、H.D.ソロー「森の生活」、大岡昇平「レイテ戦記」、柳澤嘉一郎「利他的な遺伝子」など、人文系を中心としたさまざまなジャンルの本との出会いについて話してくれた。

“雑”の効用ということだろうか。辰濃さんは『文章のみがき方』(岩波新書)でも、異質な本を読むことが、①自分の世界を広げること、②未知の世界に出あうことで脳の働きに刺激をあたえることにつながる、と指摘している。13年間という気の遠くなるような期間、コラムを書き続けた人の実感である。

「本をたのしうもう会」は、講師陣が素晴らしいが、そこに集う人々も魅力的だ。今回、辰濃さんも参加した懇親会で、武蔵野の市民ボランティアをしているTさん夫妻とお隣になった。印刷会社で働いていたTさんは、80歳近い年齢である。一昨年、心筋梗塞で緊急入院しあやうく一命を取り留めた。

退院してすぐ、夫妻で、好物の天ぷらを食べに新宿にでかけた。揚げたてのふきのとうの天ぷら、それに少しの塩をかけて口にいれたとき、Tさんの眼尻からつーっと涙が流れたという。「口いっぱいに広がる春の香りを感じて、よし、生きていこう、という思いが自然に湧きあがってきたんです」。

とつとつとした話し方のむこうに、なじみの天ぷら屋でしみじみと春の訪れをかみしめる夫婦の姿が浮かんでくる。そうやって死の淵から帰還した人が“本をたのしむ”とき、その味わいはよりいっそう深いものになるに違いない。

岡田庄生『買わせる発想』を読む

買わせる発想サブタイトルは「相手の心を動かす3つの習慣」。帯には「数々のクライアントが呆然!博報堂・若手敏腕コンサルの『幻の講義』」とある。私のようなへそ曲がりは、どうせ才気ばしった若手コンサルが自信満々で処方箋を示すんでしょなどと読む前から斜に構えてしまいそう。ところがどっこい、著者に才能をひけらかす雰囲気など微塵もなく、むしろ残るのは爽やかな読後感である。

3つの習慣」というのは、具体的な事実から考える、事実を深く掘り下げて考える、コンセプトを絞ってシンプルに伝える、の3つ。奇をてらうフレームではない。むしろオーソドックスな発想といっていいだろう。だから本書の説得力は、3つの習慣にまつわる具体例の選択にこそある。これが面白い。ガソリンスタンドの新しいビジョンを考える、地方銀行の経営理念をつくるなどのコンサルティングの様子から社員研修の様子まで、関係者がどう思い込みから脱却していったのかを軸にして語られている。

そのフレームのことだが、著者は、有名な経営やマーケティングのためのフレームが幅を利かせる現状について、「基本的には過去に成功した事例の共通する要素を、どこかの(多くはアメリカの)学者や研究者が独自に研究して、使いやすくしたものです。未来に新しいアイデアを生み出す時に、必ずしもそのフレームが有効かどうかは分かりません」(48頁)と疑問を呈している。

そして「自分自身の体験や、自分がイメージした具体的な事実から考えて、それをもとに自分がオリジナルなフレームを作るんだ、そのぐらいの気持ちで考えたほうが、新しい発想に近づけるかもしれません」(64頁)とも書いている。借り物でなく、自分でフレームを作ろうという呼びかけに大いに共感した。

著者の岡田庄生さんは、ICUの高校と大学、両方でわたしの授業をとっている。とくに高3のときのプロジェクト「50年後の食卓」(1998年度「政経演習」)で大活躍した。日本の食のこれまでとこれからについて、学校祭でスキット形式で発表したのだ。

TV番組「あしたの料理」は、おなじみNHK「きょうの料理」のもじり。例の冨田勲のタンタラタラタラ、タンタンタンのテーマ音楽にのって、割烹着姿の料理研究家が登場、30周年記念と銘打って番組の歴史を振り返る。

30年の流れをたどると、より短時間でより多くの品数を紹介するようになったという。「15分でできる夕食」というように。共働きの増加、調理器具の発達などがその背景にある。岡田さんは、経験豊富な「外食専門家」の役で登場し、外食産業の浸透ぶりをレポートしている。これなど、いまの仕事に直結したプロジェクトに思えるし、そもそもリサーチにかかわるフットワークの軽快さなども、当時からのものと見た。

本書を読むと、ワークショップでのファシリテーションの知恵が満載である。「幻の講義」と銘打つ所以だろう。それで「コンサルティングとは、何かを『教える』仕事ではなく、クライアントが本来持っている価値を引き出すために『問いを投げかける』仕事である」と喝破している。「(買わせる)発想を生むのは、丁寧に生きる毎日の中で見つけた具体的な事実であり、それを誰よりも深く掘り下げる情熱であり、シンプルに研ぎ澄ます潔さである」(192頁)ともいっている。

クライアントの業種とは一見無関係にみえる業種の成功例・失敗例を提示し、その理由を売り手・買い手を問わずさまざまな角度から考えるなかで仕事の「意味」を掘り下げてみる。その思考実験をベースにして、クライアントがそれまで気づいていなかった自分自身の仕事の意味や社会的ミッションの発見につなげていく。未知の業種の人たちと出会い、一緒になってこうした意味発見の旅にでる。コンサルタントをそんなワクワク感に富む仕事と知ったのも新鮮だった。

このコンサルティングのプロセスを「教育的」といってしまうといささか語弊がありそうだが、それでも、これまで獲得研がやってきた共同研究・自己研修の歩みと、どこかでつながる要素があると感じて、それが何より面白かった。(講談社刊)