美術」カテゴリーアーカイブ

箱根美術館の庭

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美術の会の遠足以来、30年ぶりに強羅の箱根美術館を訪問した。六古窯のコレクションで知られる美術館だが、今回の目的は庭園である。

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箱根美術館の庭は、広い敷地のすみずみまで神経が行き届いている。60年もの間、毎日手入れを続けているということだが、時間と労力をかけたらここまで洗練させることができる、というお手本のようなものだ。

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大涌谷の噴煙を見上げる借景、立体感に富む大小の石組み、200本のモミジが林立する苔庭、どれをとってもみごとなものである。

近年公開されるようになったコーナー(石楽園)で、二つ発見があった。

一つは、樹種を絞って庭に統一感をだす技法だ。石楽園の植栽をみると、「馬酔木」と「ヒノキ」がたくさん使われている。松などとは違って、馬酔木やヒノキは、通常庭の主役になる木ではない。あえてそれを多用した斬新なコンセプトの庭になっている。

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あまつさえ、岩にじかに根をおろし、あたかも岩の上に立ち上がったかのような風情の馬酔木があちこちにあり、それが滝組の水流とあいまって、散策する者が深山に迷い込んだかのような印象を与えている。

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もう一つは、ヒノキの若木の使い方である。まず敷地の外周にヒノキの垣根が使われていることに親近感をおぼえたが、それにとどまらず、茶室の通路、庭の真ん中を下る園路、巨岩の足元など、いたるところにヒノキの若木が配されている。

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スーッと伸びたヒノキの枝が、庭に若々しい表情を与えている。なるほどこういう使い方もあるのかと、長年ヒノキ科に属するヒバの高木と格闘してきた私にとっては、まさに目から鱗のデザイン・センスだった。

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晴れた一日とはいっても、さすがに箱根の高地、冬空をみながら散策しているうちに体が芯から冷えてきた。ただ、空気の清涼感に格別の味わいがあって、ああ冬の庭園も悪くないなあ、と思ったことだった。

藤田節子先生の個展

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美術家として、教師であることと実作者であることを両立させるのは、相当難しいことではないかと想像している。それをみごとに両立させてきたのが藤田節子先生だ。

女子美の卒業生仲間と、1962年から、2年に1回のペースで「グループ集展」をはじめ、それが昨年まで続いたというから、ゆうに50年以上である。

2007年に日洋展に“冷雨の木立”(100号 写真の作品)を初出品するや、たちまち「日洋賞」を受賞、2010年に出品した“夏の川辺”(100号)は、今年まで総理大臣官邸の壁に飾られていた。

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藤田さんといえば、鋭く研ぎ澄まされた構図、寒色系の色合いの強い静物画を中心とした理知的な画風の方という印象である。しかし、60代半ばころからだろうか。画面に湿潤な空気感の漂う、緻密さに自在さの加わった風景画がふえていったように思う。

下の写真は、わが家の玄関にある藤田さんの静物画 背景のブルーの微妙な諧調に、その緻密な画風がよくあらわれている。

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今回の個展(銀座・ギャラリー青羅)にも、ヨーロッパや石垣島の風景画が多く選ばれている。「2学期の成績をつけ終えてから旅にでるので、どうしても冬景色が多くなるんです」と藤田さんがおっしゃっているが、なるほど美術教師の仕事をきちんとしてこられた方の発言だと感じた。

絵の指導ということでいえば、ICU高校の学校祭で、藤田先生が指導する美術部の作品展示「節子の部屋」は20年以上続いたはずである。昨日も、高校や絵画教室の教え子さんたちがたくさんつめかけていた。

ご自分の好きな一筋の道を、60年の長きにわたって歩き続けてきた藤田さんの人生の充実感を、展観するこちらの側も一緒に感じることができる、なんとも幸せな展覧会だった。

庭の好み―旧三井家下鴨別邸

若いころからいわゆる名園とよばれる庭をずいぶん見てきたが、この頃になって、庭の味わい方に変化がでてきたようだ。

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一つは、自分の庭の好みがだんだんはっきりしてきたことで、例えばそれは、閉じた空間の庭よりも借景に開かれた庭、名石が見どころの庭よりも刈込がメインの庭により心地良さを感じるといったようなことだ。

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その伝でいうと、桂離宮よりも修学院離宮、醍醐寺三宝院よりも頼久寺の庭園ということになる。石川丈山の詩仙堂が好きなのもそうした理由とつながっているだろう。

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イギリスの風景式庭園のなかにもいくつか好きな庭があるが、だからといって決して自然そのままの景観がいいということでもない。イギリスの風景式庭園の景観は、大土木工事でつくられていることが多いからだ。

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こうした好みのことを、どう言葉で表現したものか考えているのだが、まだ適当な表現が思いつかない。広いか狭いかというよりも、それが清々するような空間かどうかということだろう。

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もう一つは、庭のディテールが面白くなってきたことだ。こちらの方は理由がはっきりしている。自分が庭の管理をするようになったからである。庭つくりの文法にかかわる、石組み、植栽、剪定の仕方といったものはもちろん気になるが、それが手入れがしやすい庭なのか手のかかる庭なのかといったような、マネージメントする側の視点でもみるようになった。

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そのせいで若いころよりも、かえって味わいが深まったように思う。天下の名園ならずとも、どんな地方のどんな庭にも、それなりに参考になるところが必ずあるからだ。

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今回の京都訪問でいうと、下鴨神社の南に位置する「旧三井家下鴨別邸」の庭が面白かった。観光客がひきもきらないあの鴨川デルタのすぐそばに、広大な敷地が広がっていて、糺の森を思わせる高木に囲まれた空間がつくりだす雰囲気には独特のものがある。

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おかげで無鄰菴をはじめて訪問したときに感じたのと同じあの新鮮な驚きの感覚を、ほとんど40年ぶりに味わうことができた。

(上の写真は、隣接する葵公園の尾上松之助”目玉の松ちゃん”像。銘文を蜷川虎三知事が書き、福祉事業への松ちゃんの貢献を讃えている。)

遠くて近い井上有一展

書、画、陶器など、作品が40点ばかりでていて、どれも良い。今年は井上有一(1916―1985)の書に呼ばれているようだ。

2015新春合宿 013

最初は、獲得研の新春合宿のこと。「東京大空襲・戦災資料センター」にいったら、2階の会議室に「噫横川国民学校」(1978)の大きなコピーがつりさげられていた。横川国民学校は、大空襲の当日、若き井上有一が宿直勤務をしていた学校である。1000人もの人々が避難のために殺到してきて、あらかたの人が命を落とした。阿鼻叫喚というべき内容と文字の勢いがあいまって、私はその場でくぎ付けになった。展覧会の略年譜によると、井上は「昭和20年3月10日米機大空襲により仮死。約7時間後に蘇生」とある。

獲得研の合宿から10日ばかりあと、こんどは京都御池通のギャラリーで、「花」「風」などの文字が、抽象絵画のように躍動している作品をみた。

成蹊小+井上有一 023

そして今回の展覧会である。「莫妄想」(1969)、「必死三昧」(1969)、「宮沢賢治・よだかの星」(1984 コンテ、和紙)など仏教的なモチーフの作品が目立つ。太い筆先がうねるように紙面のうえで踊る「死」(1963 凍墨、和紙)をみているうちに、建長寺の古木・ビャクシンの木肌を思い出したことで、一層その印象が強まった。

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会場のVTRで、井上の制作風景をみた。殺風景な板張りの部屋で、ウンウン唸りながら、全身で文字を書いている。彼にとって書は、楽しい仕事ではないらしい。心を決めてアトリエに入り、流派や様式にとらわれない独自の世界を、気力を振り絞って切り拓いている。アトリエの床一面に飛び散った墨が固まって、もういたるところ真黒である。

私は井上有一の覚悟ということについて考えざるをえない。それにしても、求道者然とした不敵な面構えの書家・井上有一と小学校の校長さんを定年まで勤め上げた井上有一先生の像が、いったいどこでどうつながっているものなのか、不思議もまた尽きない。(7月26日まで、菊地寛実記念 智美術館)

清水寺平成縁起絵巻

清水寺縁起絵巻 002

4月の深夜、たまたまクローズアップ現代「”宗派を越えて”清水寺1200年の歴史」の再放送をみた。10年がかりで完成した「清水寺平成縁起絵巻」(箱崎陸昌筆、全9巻、画寸全長6507cm、手織り絹に裏彩色)の公開記念特集である。

武田富美子先生(立命館大学)からときどき清水寺のことは聞いていた。お父上(横山正幸氏)がお寺の学芸顧問をしておられたことも。しかし、この番組ではじめて、亡きお父上の風貌に触れ、絵巻の原案を創られた方であることを知った。

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番組では、清水寺がなんども焼失の憂き目をみたこと、しかしその都度、庶民の観音信仰によって復活してきたことが、応仁の乱と廃仏毀釈で陥った苦難の例で説明されていた。懐かしい大西良慶和上の映像とともに、清水寺が、檀家をもたない寺であり、宗派や身分を越えて人々を受け入れる寺であることも紹介された。

この絵巻について、五木寛之さんが、「ドラマチックな構成というよりも、庶民のいたみを静かに描き出している」と語っていたが、お寺の歴史を知るにつけ、絵巻のトーンが平明で明るいものになることもむべなるかな、と納得したことだった。

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武田さんが、お寺から届いたという2冊のカタログのうちの一冊を、私に送ってくださった。ありがたいことである。絵と原案を併せてながめていると、「牛若丸と弁慶」(第5)、「物くさ太郎」(第6)、「一寸法師」(第7)「“舞台飛び”の流行」(第8)など、説話や時代の流行が巧みに織り込まれていて、清水寺が時代を超えて人々の信仰に支えられてきた寺であることが改めて実感される。

これほど親しみやすい縁起絵巻というものをほとんど知らないが、絵巻の構成と素材の選択に、原案者である横山氏のエスプリが感じられる。いつか実物をじっくり眺めてみたいものである。

黒石寺の薬師如来・みちのくの仏像展

黒石寺(岩手県奥州市)の薬師如来像にほとんど35年ぶりに対面した。「東北三大薬師」というそうだ.東京国立博物館の「みちのくの仏像展」に、黒石寺、勝常寺(福島)、双林寺(宮城)の薬師如来が勢ぞろいしている。

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会場では、入り口正面のガラスケースで、まず天台寺(岩手・浄法寺町)の“鉈彫り”聖観音が迎えてくれる。顔や腕の平滑さと体部(胸部と衣服)の鑿あとの荒々しさが鮮やかなコントラストをみせる像で、手指の表現などは極めて繊細である。

展示スペースは「本館特別5室」という1部屋のみ。エントランスの階段裏にあたる大きなスペースではあるが、それでも1部屋は1部屋である。特別展という宣伝のわりには小規模だなあ、というのが第一印象だった。

1980年代のはじめころ、なんどか東北の地方仏行脚にでかけた。そのとき別々に出会った仏たちが、こうして一堂に集まっているのを見ると、不思議な感じがする。

最初の旅は、1981年の晩夏である。20代最後の夏。「美術の会」の3泊4日の研修旅行だった。まず天台寺に直行して鉈彫りの諸仏を拝し、そこから盛岡を経由して成島毘沙門堂、藤里毘沙門堂、黒石寺、中尊寺などを訪ねるプランをみんなでつくった。北上川流域の寺である。準備は万端、往復はがきで拝観の許可もとった。

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ところが、ちょうど出発日当日に大きな台風がきた。上野駅まではいけたが、東北本線の急行「盛岡1号」が運休になった。強い雨がホームの屋根を叩いて水しぶきをあげている。さてどうしたものか。ところが、メンバーはみな若く血気盛んである。集まった8人の誰ひとり中止を言い出さない。「常磐線がかろうじて動いている。とにかく、いけるところまで行こう」ということになった。

こうして海岸線を走る列車に飛び乗ったが、動いては停まり、動いては停まりを繰り返すから、仙台につくころには夜になった。駅前のビジネスホテルに投宿。翌日はうそのような快晴である。それからレンタカーで一帯を駆け回り、花巻では宮沢賢治の羅須地人協会やイギリス海岸もいった。

この旅で圧倒的存在感を放っていたのが、今回展覧会のポスターになっている黒石寺の薬師如来像である。貞観4年(862)の墨書名があるから、貞観地震の7年前の制作ということになる。頭部を拝すると、一粒ひとつぶくっきりと大きい螺髪、厳しい目と引き締まった表情で貞観仏に特有の神秘的な顔貌をあらわしている。とりわけ反り返ったように盛り上がる上唇が強い印象をのこす堂々たる像である。

黒石寺は、境内の佇まいがまたいい。鬱蒼とした木立を背に、低い石段が横に長く築かれていて、その壇のうえに本堂と庫裡が並んで建っている。ご住職の案内で、庫裡から斜面をよこぎるようにしてお堂についた。目の前に瑠璃壺川というゆかしい名前の渓流がある。

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お堂のなかに三脚を立てて、スライドの撮影をさせてもらった。それで、この薬師如来像がきわめて正面性の強い像だということが分かった。横から拝すると、像の奥行きが乏しくて平板な印象なのである。頭部などはいわゆる“絶壁”になっている。今回のようなあけっぴろげな展覧会場であらためて見ると、下半身の彫りも簡素である。

同時代ということでいえば、神護寺や元興寺の薬師如来像が放つ豊かな量感とはかなり印象の違う像ということになる。逆に、正面性の強さに、この地の地方性がタップリ現れているともいえるだろうか。

あれこれ思い出しながら会場をめぐっているうちに、20代のころの感覚がしだいに甦ってきて、ちょっと落ち着かない気分になった。外にでると、本館前のユリノキが、夕景のなかできれいなシルエットをみせている。近づいて膨らみかけた蕾をぼんやり眺めているうち、そうか、どこか落ち着かない感じがしたのは、展示空間に若いころの心象風景が刻印されているからだ、と気づいた。

なるほど、青春時代というのは、人生の彷徨をうちにはらんでいる分、ただ懐かしいだけの時代ではないようである。(4月5日まで)

京博の平成知新館

少し前のことになるが、年が明けてから京都国立博物館にいってみた。なにかの特別展ではない。見たかったのは美術品ではなく美術品の容れものの方である。昨秋オープンしたばかりの平成知新館のことだ。

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従来の1、7倍の広さになり、かつ洗練された空間をもつ建物のインパクトはかなりのものである。オフシーズンの午前中とあって場内は閑散としている。おかげで先着30名限定の絵葉書セットをもらった。ミュージアム・ショップもぐんとあか抜けて、尾形光琳の「竹虎図」に描かれた、なんとも愛らしく、やんちゃな目つきの虎のぬいぐるみが売られている。

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特別展示室で、仏像、神像など島根・鰐淵寺の木彫像にたくさんでくわしたのは幸運だった。1980年から“美術の会”で地方仏行脚をはじめた。若狭小浜、北上川流域、国東半島と平安木彫仏の行脚を続けて、出雲地方を訪れたのは1983年のことである。仏谷寺、清水寺、雲樹寺などの寺々を訪ねたが、あいにく鰐淵寺は非公開だったから、今回が初見ということになる。

出雲の地で持統天皇6年(692)に制作された「銅像観音菩薩立像」もでている。いわれてみれば、どことなく地方性を感じなくはないが、百済観音などに通じるいかにも飛鳥仏らしい八頭身のフォルムで、ことに向かって左側面からみるモデリングが素晴らしい。

平成知新館にはボランティアガイドが活躍するスペースもできた。鎌倉仏に特有な玉眼のつくりかたを体験するコーナーがある。資料コーナーも充実していて、「鳥獣戯画」のデジタル画像が実寸でみられる。わたしは操作の仕方をおそわって、絵巻を開くようにゆっくりテレビ画面の中をながれる「甲巻」を心ゆくまで楽しんだ。

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肝心の展示スペースということだが、少し気になることがあった。一つは館内の照明で、いささか暗すぎる感じである。仏像コーナーでは、上方からスポット照明をあてて像を際立たせている。あちこちの美術展で普通に見られるようになった技法だが、どちらかといえばデザイナーの意図が鬱陶しく感じられることの方が多い。仏像を拝する角度が自ずと限定されてしまうからだ。私の経験では、こうした照明は広隆寺の弥勒菩薩が収蔵庫に入ったときがその走りである。なんども通った広隆寺だがそれから自然に足が遠のいてしまっている。

もうひとつは、空間の大きさである。2階の絵画コーナーが特にそうなのだが、せいせいするくらい広壮な吹き抜け空間である。それはいいのだが、おかげで展示された障壁画がなんとなく貧相にみえてしまう。おそらく絵師の空間感覚とも、それが本来おいてあった建築物の空間とも大きくかけ離れていることからくる印象かと思う。

照明の仕方と空間の大きさとがあいまって、平成知新館のいくつかのコーナーが、ずいぶん余所行きの雰囲気になっている。バランスが難しいのはもちろんだが、ただ、作品そのものよりも展示空間の方が芸術化してしまうのは、私にはちょっと困る。それで古い建物のころに漂っていた普段着っぽい雰囲気が、少し懐かしくなったりもした。

はて、こんな印象をもつのは、こちらが年をとったということなのかしら。

「泥象 鈴木治の世界」を観る

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若いころ、マリノ・マリーニの馬に惹かれた。マリー二は、単純化したフォルムで馬の躍動感をみごとに表現する。やがて鈴木治(1926~2001)の焼き締めの馬が気になりだした。胴部がほとんど立方体に近いフォルムの「雪の中の馬」(1973)は、その周囲に静かな空気感を漂わせている。

焼き締めの馬は、茶色味のかった備前焼をおもわせる肌をしている。緋色やゴマと見紛うところもあるからいっそう備前焼にちかい印象だが、通常の窯変にはみられない微妙な色調の変化がでている。

八木一夫にしろ、山田光にしろ、走泥社同人の作品は、大きな展覧会にでもぶつからないかぎりまとめて観る機会がない。鈴木治の場合も同様で、あちらのギャラリーで1点、こちらの美術館で2点という具合に、まるで僥倖のようにでくわすだけだから、ますます気になってくる。

今回のように150点を超す作品にふれると、こちらの予備知識が少ない分だけ、いろんな発見がある。焼き締めの馬は備前の土ではなかった。信楽の白い土を使い、ひもづくりで成形したものだ。いったん素焼きしてから、朱泥の溶液を、全体に何度も刷毛で塗り重ねることで赤の発色をえている。茶色の諧調の変化は、朱泥が乾いたあと、その上から木灰を霧吹きで厚く薄く化粧がけしてだしている。

「汗馬」「秋の馬」「嘶く馬」「天馬横転」など馬がテーマの作品がたしかに多い。ただ、私が思っていたほど馬の作家というわけではない。花や鳥、太陽や風など、森羅万象をモチーフにしている。それに、焼き締めと青白磁、オブジェとクラフトを同時並行でつくる作家という顔ももっている。

鈴木治の父・鈴木宇源治は永楽善五郎の工房(千家十職のひとつ)の職人で、轆轤の名手といわれた人、治はその3男である。京都市立第二工業高校窯業科をでて、20代で走泥社の創設メンバーとなり、いわゆる「壺の口を閉じた」作品群を発表していく。79年から京都市立芸術大学の教授を長くつとめていたから、藤平伸の同僚ということになる。

もともと泥象(でいしょう)という言葉は、鈴木が80年代から使い始めた造語である。あえてオブジェという言葉を使わないのだ。今回の展覧会「泥象 鈴木治の世界」の英文は、「SUZUKI OSAMU:Image in Clay」となっている。泥象をいったいどう翻訳したらいいのか、工夫の跡がうかがえて面白い。

この時期のものでは「掌上泥象 三十八景」(1987)がとくに印象深かった。「風ノ通い路」「太陽のシグナル」「朱夏の月」「天に到る雲」など、彼の詩的イメージを形象化した38の小品が陳列ケースにずらり並んでいる。一見して薄い板ともみえる、胎土の薄い、平面性の強い焼き締め作品である。

順番に眺めていくと、作品とタイトルが頭の中でスパークして、想像の翼がはるかかなたまで広がっていく。きわめて繊細で、ウィットに富み、軽妙である。物語性もある。それに精緻なモデリングと柔らかい印象とが併存している。

こうして形容表現を並べてみると、どれもそれなりには当てはまるのだが、かといって、いくつ言葉をつらねてもちっとも言い当てた感じがない。つかめるようでつかめないもの、恐らくそれがイメージというものの本質だろう。私の感じるある種の“はかなさ”もそこからくるかと思う。ともあれ、見飽きることがないという1点に、鈴木の作品の力がよくあらわれている。

鈴木治と同世代の作家にカルロ・ザウリ(1926-2002 イタリア・ファエンツァの人)がいる。ザウリは11歳で「王立」陶芸学校に入学したが、1944年からドイツのヒュルツ収容所に送られた経験をもっている。戦後は、ファシズムに奉仕した「正統的」彫刻―それは大理石とブロンズの彫刻でもある―の革新に、陶磁という素材をもって真正面から取り組んでいった。

鈴木がこの「掌上泥象 三十八景」を制作していたころ、ザウリは瀑布の一部を切り取ったような作品「自然」(1986)をつくっている。白いストーンウェアでできた奔流は、3メートル近い大きさがある。ぶつかりあいせめぎあう波は、アンフォルメルの表現を思い起こさせるほど複雑で、斜めに駆け下るエネルギーの塊のようにも見える。圧倒的量感である。

ザウリの印象と重ねると、鈴木治の作品は、前衛という言葉につきまとう反逆性や様式破壊からかなり距離があるように思われる。この違いが、日本とイタリアという立ち向かうべき文化的伝統の違いからくるものなのか、個人の資質の違いよるものなのか、あるいは歴史性によるものなのか、それはわからない。しかし、どうも私にはそのすべてであるように思われる。(東京ステーションギャラリー 8月31日まで)

テート・モダンのパウル・クレー展

バウハウスの教員住宅―デッサウには平野正久先生のガイドで訪問した

バウハウスの教員住宅―デッサウには平野正久先生のガイドで訪問した

31日に、パウル・クレー(18791940年)の展覧会をみた。テート・モダンをでたら冷たい雨がふっている。日本でも洪水のニュースが流れたほどだから、テムズ川がいつになく増水している。右手に濁った水面を眺めながらナショナル・シアターまで歩くうち、クレーのことをあれこれ考えた。

肌合いというのだろうか、クレー作品に漂う工芸的なるものが私には心地いい。ワイマールのバウハウスで、製本、メタル、ステンドグラスのワークショップをやったと書かれていて、なるほどと思った。

とりわけクレーの線にいつも魅かれる。「They’re Biting(1920)など、初期の作品に典型的な、水彩の地にオイルで描かれた細い線、そのかすれたような線が諧謔味と批評性をはなっている。空間構成にもひかれる。カタログの表紙を飾る「赤緑と紫黄のリズム」(1920)など、コンポジションの諧調のみごとさは、おそらくクレーが名うてのバイオリストだったことと関係するのだろうし、それが色調の深い美しさをともなうので目が離せない。

展覧会のタイトルは、“Making Visible”。「芸術は目に見えるものを再現するのではなく、見えるようにするものである」という彼の有名な言葉からとられていて、初期から晩年までの132点(17室)が展示されている。様式の目まぐるしい変化を一望し、同時にカンディンスキーなど他の作家との交流も分かる構成である。それで戦間期の芸術家としてのクレーの作品が、否応なく時代の変化を刻印されていることがはっきりする。

私には、ナチスの台頭と1933年のバウハウス閉鎖、翌年のベルン郊外への移住、そして亡くなるまでの作品群がとくに印象深かった。14室から17室までの展示だが、この時期の作品には、寒色が基調となるものがぐんと目立つ。

Pass to the Blue」(1935)では、荒々しい群青色が画面全体をおおっている。少し離れると真っ暗にしか見えない。画面の左上に、太陽だろうか、月だろうか、青い楕円が深い色をたたえて、空間に溶けこむように浮かんでいる。画面の下半分は、右下からはじまる茶色いジグザグ道が、次第に細くなって群青色のなかに消えている。なぜだか、深い悲しみを単純化した画面と穏やかな色調に昇華させた熊谷守一さんの「ヤキバノカエリ」を思い出した。

第1室に、手書きの作品カタログが展示されている。このノートを見ていると、クレーが自分の芸術的歩みにいかに自覚的だったかがよく分かる。9400点以上ともいわれる彼の作品群は、徹底した方法研究に支えられていた。方法への熱意と生み出される作品の完成度とはしばしば一致しないものだが、クレーにあっては、知的な探究と作品の感興の深さのバランスが奇跡のように絶妙である。

うす暗い会場に飾られた小品群。初見の作品が多いから、一巡するのに2時間かかり、解説を見直しながらもういちど会場をまわったら3時間半たっていた。さすがに目がかすんで諦めた。

月末にでる獲得研の新刊『教育におけるドラマ技法の探究』のカバーに、明石書店の大江さんがクレーの絵「子供たちと犬」を使ってくれるという。それで今回の展覧会が、さらに印象深いものになった。

マネの黒

フォトナム&メイソンの筋向いにある

会場は「フォトナム&メイソン」の筋向い

4月14日まで、ロンドンの王立美術院でマネの肖像画展がひらかれている。噂通りの盛況である。11時半に当日券売り場にいくと、いつも閑散としている建物の前に50~60mの行列ができていた。時間差をおいて、20人分ずつ発券しているらしい。

ルノワールやモネなどは日本でも見る機会があるが、マネの油絵50点となれば話はべつだ。イギリス人でなくたって並んででも見よう、という気になる。

切符売り場の行列

切符売り場の行列

最後尾に立っていたら、白髪の老婦人が近づいてきて、手に持っているこの入場券を12ポンドで買わないか、という。「まさか、ダフ屋まででるのか?」と驚いていると、当日券は15ポンド(2250円)だからお得なはずだ、と意外なことをいう。それに、水色のレインコート姿が、どうみても律儀な英国婦人そのものである。

きけば、午後2時15分入場指定の予約券で、時間の都合がつかなくなったから手放したいのだという。理由はわかったが、丁重にお断りし、50分ほど並んで入場した。

内部もかなり混雑している。週日の昼間とあって大方が年配者である。イヤホンガイドを聴く人が多いところまで日本の展覧会と似ている。違っているのは、ベビーカーを押すご婦人や車椅子を利用する人の姿がめだつことと、人を押しのけてでも見ようという人が誰もいないことだ。

輪郭線のない絵だから、最初はちょっと頼りない印象だが、すぐに色彩や光の心地よい諧調につつまれる。1室、2室とすすむうち、黒い洋服の人物像が多いことに気がついた。例の「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」(1872年)の衣装などは、つやつやと濡れたように輝いているし、花鳥図屏風と相撲取りの浮世絵を背景にした「エミール・ゾラ」(1868年)では、黒い上着が彼の白い横顔の英哲さをいっそう際立たせている。

そう思ってみると、「ランチョン」(1868年)、「アントニン・プルーストの肖像」(1880年)、「アマゾン」(1882年)など、黒い衣装の人物像が20点以上もある。驚いたのは濃淡も、光彩も、透明感も、質感もそれぞれ違っていることで、マネが黒の表現にどれだけ工夫を凝らしていたかが一目瞭然である。

あまりに楽しかったから、第1室までもどって、黒をテーマに会場をもう一巡してみた。ロンドンでこんなにフランス絵画を堪能したのは、5年前に、コートールド・ギャラリーでセザンヌ展の収蔵品のレベルの高さに仰天して以来である。