研究会・研究大会」カテゴリーアーカイブ

保立道久氏、齋藤純一氏の講演

いま継続中のプロジェクト「グローバル時代の市民性を問う」(日本国際理解教育学会研究・実践委員会の課題研究)の特徴は、外部の専門家とのコラボレーションを軸に、領域横断的な研究を企図していることだ。

本年度は、歴史学と政治学の専門家を報告者とする2回の公開研究会を開催した。「公共性・市民性と『人種問題』―トマス・ペインとヴェブレンにもふれて」(報告者:保立道久氏 東京大学名誉教授 歴史学)と「多元性のもとでの公共性と市民」(報告者:齋藤純一氏 早稲田大学教授 政治学)である。

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保立道久氏には、ヨーロッパの王権神授説の登場からアメリカ資本主義の成立につながる流れを素材として、差別を肯定する「人種主義イデオロギー」の系譜の特質を分析していただいた。

例えば、WASP(White・Anglo-Saxon・Protestant)イデオロギーに関連して保立氏は、イギリス国王を批判するトマス・ペインが、一方で、イギリス国王の野蛮さは「インディアンにも勝る」、また「インディアン、黒人をけしかけて我々を滅ぼそうとしている」と主張し、ペインが先住民やアフロ・アメリカンへの支配を当然視している点を問題にしている。

さらに、アメリカ連邦憲法の、選挙権をもつ「自由人」(1条2節3)の規定が、ネーティヴ・アメリカンやアフロ・アメリカンを「自由人」ではない存在として明瞭に排除しているという点を指摘し、実質上この憲法が「白人」憲法になっているという。

一方、ソースティン・ヴェブレンに関連して保立氏は、『有閑階級の理論』でヴェブレンが、「長頭ブロンド」(いわゆる北方人種ゲルマンなど)タイプのヨーロッパの男は西洋文化の他の民族要素に比較して、略奪文化に先祖返り(退行)する才能をもっており、アメリカ植民地における彼らの行動はその大規模な事例だと主張していることを紹介している。

保立氏は、このヴェブレンの議論が、該博な人類学的知識にもとづくいわば「人種」論的な経済学というべきものであるとし、さらにWASPを中心としたアメリカの支配層がもっていた「人種意識」が、アメリカ植民野時代から19世紀末期の資本主義の確立の時代まで連続していたこと指摘して、彼の業績がアメリカ資本主義の人種主義的性格を端的に明示したことにあった、と分析している。

そして保立氏は、社会を支える基本となる「労働」に焦点を当てて、次のような指摘をしている。人間が「類的存在」であるという公理を社会に貫くことが公共性であるとすれば、その基礎は労働の尊厳にある。労働の2つの側面であるwork(アソシエーションを通じて社会の分業に関わる)とlabor(コミュニティを通じて身体・家族と環境に関わる)を、環境と歴史の中に感じることができる社会が「公共」の原点となるべきである。

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齋藤純一氏には、公共性、市民、多元性というテーマをめぐり、各々の用語の厳密な定義をもとに、多様なアプローチの仕方があることを示していただいた。

まず、現代における「公共的なるものの範囲」だが、それはきわめて広いものである。空間的にみると、例えばWTOなどグローバルな制度の共有にみられる通り、国境線で閉じたものではない。また時間的にみると、ステイクホルダーとしての将来世代の存在がクローズアップされている通り、現在に閉じたものでもない。

では「公共的価値」とは何か。それは人々が市民として受容しうる価値のことである。多数者の利益とも人々の利益の共通部分とも違うこの公共的価値は時に、私的利益に反するものでもある。

しかし、多元性のもとで公共圏の分極化がすすむ現在の条件下にあって、何が公共的価値であるかについての合意は予め存在していない。この状況下で人々が共有できるのは、「意思形成―決定」の公正な手続きのみである。

そこで熟議を進める「市民の政治的役割」が重要になってくるのだが、その役割は、①間接的な共同立法者として政策課題を提起するauthorship(法・政策の作者)、②問題と思われる法・政策に対して異議を申し立てるeditorship(法・政策の編集者)からなり、この2つの役割は相補的な関係をなしている。

さすがにそれぞれの分野を代表する学者の報告とあって、ここで要約したのは、論点のほんの一部にすぎない。当然のこと、2回とも時間を超過して活発な質疑が行われた。

お二人に提起していただいた視点を、これまでの学会の蓄積とどう接合できるのか、まさに模索が開始されたところである。

盛岡で教育方法学会

10月の10日と11日に、岩手大学で日本教育方法学会があった。

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私たちがやった8回目のラウンドテーブルのテーマは「平和学習の転換とドラマワーク」、あかり座沖縄公演の成果をもとに参加者でディスカッションする。和田俊彦先生によるDVD資料の解説と宮崎充治先生の課題提起は、どちらも周到に準備されたもので、発表としてはもう“鉄板”の域である。(岩手大学のキャンパスは広々している)

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演劇教育が専門の広瀬綾子先生(梅光学院大学)など新しい顔ぶれがどんどん質問してくれたり、沖縄で平和学習を推進している山口剛史先生(琉球大学)が議論を盛り立ててくれたりと、絶え間なく応答が続いた。

お蔭で、井ノ口淳三先生(追手門学院大学)がコーディネーターをつとめた課題研究「戦後70年と平和教育」での議論と併せて、平和教育のパラダイム転換がいかに喫緊の課題になっているのか、みんなで再確認できた。

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駅から大学に向かう途次、迂回して、盛岡城公園を歩いてみることにした。二の丸に石川啄木の歌碑「不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸われし 十五の心」があることで知られている。盛岡まできて見ないわけにはいくまい。(上の写真が二の丸付近、この右手に啄木の歌碑がある)

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紅葉にはまだ早い。雨もようの天気とあって人かげもまばらである。そのぶん、雨に濡れた石垣のたたずまいがなんとも美しい。どこか懐かしい感じさえする。ほんのいっときだったが、ゆったりと良い時間がすごせた。

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家に帰って、新発見の石垣の美しさについて語りはじめたら、ワイフがすぐ話に割って入って、「そうなのよ。あそこの石垣いいわよね」といった。「私も大好きで、盛岡にいくたんびに訪ねてるわ」。

ああそうなんだ。ところが驚いたことに、なんと「あなたとも一緒にいったことがあるわよ。啄木の歌碑もみたじゃない」と断言するではないか。

ありゃりゃ、私が感じた懐かしさの正体はこれだったんだ。

早稲田大学で公開研究会

卒業式前に工事の柵がとれ、広々きれいになった

卒業式前に工事の柵がとれ、広々きれいになった

土曜日に、戸山キャンパスで「地域実践からみる実践研究の必要性と方向性」と題する公開研究会があった。6月にある国際理解教育学会(JAIE)の特定課題研究に向けた準備会合だ。今回の、コーディネーターは早稲田大学の山西優二先生である。

定住外国人の地域参画を積極的に促している「武蔵野市国際交流協会」、地元企業などの協力で年間29トンの食品ロスをなくしている「フードバンク岡山」、日本で3番目のフェアトレードタウン認証を目指して活動している「逗子フェアトレードタウンの会」の取り組みは、どれも創意的で面白かった。

16階の会議室からの眺め

16階の会議室からの眺め

これまでやってきた名古屋の椙山女学園大学附属小学校や尼崎小田高校の公開研究会では、実践研究の主要な担い手を教師ととらえ、当事者研究としての実践研究を「課題設定―実践プランの作成―実践―振り返り―実践報告・論文の執筆―課題設定」という循環構造で考えてきた。

では地域研究では、実践研究の担い手をだれと規定するのか、それと関連して、実践のコミュニティと実践研究のコミュニティの異同をどうとらえるのか、また地域実践の中で生まれる知見をどう共有・言語化・発信するのか、などを明らかにする必要がありそうだ。

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フロアから、草の根の市民運動の熱心さはみとめるが、その一方でファシズムにからめ捕られるようなある種の危うさも感じているというコメントがでて、そこからひとしきり議論になった。少し広げていえば、実践コミュニティの脆弱性、市民社会の脆弱性をどう克服するかということだろう。

これに関連してシンポジストから、自分たちの活動がどの方向に向かうベクトルをもつものなのか意識したり、活動の意味を客観化する作業をしたり、メンバーが自由に語り合う場をもったりすることが必要だという意見があった。もともと当事者研究としての実践研究の立脚点は、自己の実践を相対化する契機をどう組み込むかということにある。そろってそこに触れてもらえたという印象である。

井ノ口貴史先生の案内で委員会のキャンパスツアー

井ノ口貴史先生の案内で委員会のキャンパスツアー

それで、6月の研究大会にむけて、学校教育実践と地域実践とのつながりをより明瞭に意識できつつある、と感じたことだった。

日本国際理解教育学会の実践研究

この2週間ばかり、大学の公開講座「現代における希望とは」の準備作業、溜りにたまった原稿の執筆、シリーズ第3巻の編集作業などがいっしょくたになって、バタバタの状態が続いている。

少し前のことになるが、日本国際理解教育学会と連携して研究をすすめている学校の一つ、兵庫県立尼崎小田高校の公開授業に参加した。創設した「国際探求科」を舞台に、福田秀志・小林哲先生チームが、TPP問題など、意欲的なテーマの授業に取り組んでいる。

以下は、この秋、「学会会報 vol.45 」(10月31日発行)に書いた「第24回大会・特定課題研究報告」だが、福田先生たちは、ここにでてくる「研究モデルの探究と発信」に踏みこもうとしている。これからどんなコラボが生まれてくるのか、大いに楽しみである。

今期から、研究委員会と実践研究委員会が組織的に合同することになり、これを機に「理論と実践の統合」という学会創設以来の難題に本腰を入れて取り組むことになりました。研究・実践委員会が掲げたテーマは「国際理解教育における教育実践と実践研究」です。

本委員会は、3年間を通して2つの課題に挑戦します。一つは、実践研究のスタンダードの確立で、実践者による当事者研究・臨床的研究のディシプリン(研究の作法)をつくろうというもの。もう一つは、研究モデルの探究と発信で、こちらは実践的研究者としての自立の道筋と研究コミュニティの形成に関する事例研究です。学校・地域の実践に寄り添いながら、公開研究会を開いてその可能性を探っていくことになります。大きな2つの課題は有機的につながっております。

今回の「国際理解教育における実践研究の視座」が最初の提起ということになりますが、3時間のセッションを2部構成で行うことにしました。委員会からの4本の報告(80分)を受けて、参加者が4、5人グループで話し合い、その結果を全体にフィードバックするワークショップの形式です。これも特定課題研究の運営では新機軸になります。

井ノ口貴史氏(京都橘大学)、林敏博氏(名古屋市立蓬来小学校)の司会のもと、研究・実践委員長の嶺井明子氏(筑波大学)の趣旨説明につづき、まず以下のような報告がありました。

杉田かおり氏(筑波大学)の「国際理解教育研究の到達点と課題」では、国際理解教育概念の明確化、グローバル市民と国民の関係性など、本学会創設以来の研究課題を広い視野から分析したうえで、今期の特定課題研究でも、国際理解教育の研究課題の固有性を踏まえた実践研究への取り組みであることが必要だ、と提起されました。

渡部(日本大学)の「国際理解教育における実践研究の視座」では、本学会におけるこれまでの実践研究の特質と実践者自身による実践研究のアポリアとの両面を分析したうえで、これからは実践報告・論文の執筆を組み込んだ「現場での臨床的研究の循環構造」という視点が有効性をもつのではないか、と提案しました。

宇土泰寛氏(椙山女学園大学)の「学校事例にみる実践研究」では、ご自身が校長をつとめる椙山女学園大学附属小学校でのホールスクールアプローチによる学校改革を素材として、職場の変容が、管理職のリード→中核教員のリード→実践研究コミュニティの成立という「3つのステージ」で進行していったことが明らかにされました。

山西優二氏(早稲田大学)の「地域事例にみる実践研究」では、青年のためのフォーラムや教員対象のワークショップなど多様な活動を展開する武蔵野市国際交流協会(MIA)を事例として、地域における学び・教育の実践研究では、実践をつなぐネットワーク、コーディネーターの役割など「5つの視点」が重要ではないか、と指摘されました。

休憩後のワークショップでは、「学校/地域で実践研究をどう進めるのか?」「実践的研究者がどう育つのか?」の二つのトピックでグループ討論を行いました。実践を交流しながらテーマを深めるというスタイルでしたが、参加者のご協力と井ノ口委員の運営よろしきをえて、最後の全体会では全グループから討議報告を聴くことができました。話し合いがきわめて活発だっただけでなく、第1部の4つの提案に対する示唆的な質問・意見をリアルタイムで頂戴できたことも有難いことでした。

最後に、大津和子氏(北海道教育大学)より総括的発言があって、ほぼ定刻にセッションを終えることができました。

好天の奈良での日曜午後のセッション、午前中にはワールドカップ・サッカーのコートジボアール戦もありましたので、参加者数が心配されましたが、それは杞憂でした。ベテラン会員から若手会員まで、大教室がいっぱいになる盛況ぶりだったからです。今後とも、会員の皆様のますますのご参加をお願いいたします。

日本教育方法学会第50回記念大会

今回は和田俊彦さんにずっとお世話になった

今回は和田俊彦さんにずっとお世話になった

例会の帰りに両角桂子さん(コア・メンバー)から「やっぱりそうか」といわれたが、余りの慌ただしさで、しばらくブログが書けなかった。先週は、広島大学で日本教育方法学会の研究大会だった。ラウンドテーブル「演劇的知の教育方法学的検討(2)」では、昨年の宮原順寛氏(北海道教育大学)に続いて、気鋭の古典文学研究者・中野貴文氏(東京女子大学)から力のこもった報告があった。

中野氏は「ドラマ的な手法を用いた古典文学」というテーマで、古典教育のフレームの改革を提案している。中高生の7割近くが古典学習への嫌悪感を抱いているといわれる現状をどう打開するのか、そのヒントがドラマ的手法の活用にあるというのだ。

それをたんなる仮説に終わらせず、自ら実践しているところが面白い。大学生たちが『伊勢物語』の「芥川」から「世界の中心で愛を叫ぶ」のパロディー版を、また『源氏物語』の「桐壷」から「スクールカースト」のドラマを演じるという事例を紹介してくれたが、テキストとの対話から出発して、現代版のドラマをつくり、もういちどテキストに戻ることで、読みの深まりや批判的な思考の獲得がみられるのだという。

広島大学研究大会 028文献研究の道を歩いてきた中野氏が「実践のことば」で報告するのはなかなか勇気のいることだろう。だが、実践的研究者・研究的実践者として自己を定義するのであれば、今回のように、自分の実践を俎上にのせることも避けて通れない。セッションのあとで「もう後戻りできないということですよね」という述懐があったが、むしろ私は、それを中野氏の決意表明ときいた。頼もしいことである。

今回の大会にあわせて日本教育方法学会編『教育方法学研究ハンドブック』(学文社)が刊行された。444頁、著者88名という大冊で、方法学研究の歩みが一望できる。会長の深澤広明氏(広島大学)が「刊行のことば」で、「第Ⅲ部「教育学研究の歴史と展望」は、研究ハンドブックとしての本書の中核的部分であり、研究の歴史、現状、展望が学会に関係する先行研究をもとにレビューされている」と書いている通りである。獲得研にとって嬉しいのは、「授業づくり研究」の章に「授業設計・展開」と並んで「学習活動・アクティビティ」の節が入ったことだ。おかげで、この20年余りのアクティビティ研究の流れをふり返る作業もできた。

一気に読み通すわけにはいかないが、ページを繰っていくと、存外執筆者の個性があちこちにでていて、こりゃあ読み物としても面白い、と感じられてきた。

日本国際理解教育学会第24回研究大会

奈良 037今期から、研究委員会と実践研究委員会が組織的に合同したのを機に、「理論と実践の統合」という学会創設以来の難題に本腰を入れて取り組むことになった。「研究・実践委員会」(委員長・嶺井明子、筑波大学教授)が掲げたテーマは「国際理解教育における教育実践と実践研究」である。

週末に奈良教育大学であった特定課題研究「国際理解教育における実践研究の視座」が最初の提起ということになる。3年間を通して、大きく2つの課題に挑戦する。一つは、実践研究のスタンダードの確立で、実践者による当事者研究・臨床的研究のディシプリン(研究の作法)をつくるいわば理論開発の研究。もう一つは、研究モデルの探究と発信で、こちらは実践的研究者としての自立の道筋と研究コミュニティーの形成に関する事例研究である。尼崎市と神戸市の学校での実践や地域の実践に寄り添いながら、公開研究会を開いてその可能性を探っていく。もちろんこれら2つの課題は有機的につながっている。

3時間のセッションだったが、委員会からの4本の報告(80分)を受けて、4、5人グループで話し合うワークショップ形式とした。トピックは、「学校/地域で実践研究をどう進めるか」「実践的研究者はどう育つのか」の二つ。特定課題研究ではこれまでやったことのない形式だが、これがよかった。話し合いが活発だっただけでなく、リアルタイムで提案への反応が得られたからだ。

何しろ好天の奈良、しかも日曜午後のセッションである。午前中にはワールドカップ・サッカーのコートジボアール戦まである。参加者の数が心配されたが、それは杞憂だった。米田伸次先生(元学会会長)、田渕五十生先生(福山市立大学教授)などのベテラン会員から若手会員まで、大教室がいっぱいになる盛況で、まずは好調な滑り出しといえるだろう。

わたし自身は、ここにくるまでの過程が面白かった。準備段階のディスカッションもそうだし、初年度とあって、司会からコメントまで委員全員で手分けして運営にあたったのだが、メンバーの気配りの細やかさにほとほと感心させられたこともそうである。さて、これからどんな研究成果が生みだされるのか、興味津々である。

奈良 057ホテルから大学まで、強い日差しの中を毎日歩いて通った。途中にある元興寺極楽坊の門を久しぶりくぐって、こんなに清々しく手入れされたお寺だったのかと再発見もし、なんだか嬉しくも感じた。

異文化間教育学会第35回研究大会

先週末に同志社女子大学(今出川キャンパス)で異文化間教育学会第35回大会に参加した。去年は開催校とあって忙しくしていたが、今年は理事会、編集委員会などのお役目だけだから、比較的じっくり発表を聴いてまわることができた。

京都 012特定課題研究は、「実践をまなざし、現場を動かす異文化間教育学とは?」というテーマである。大和プレスクール『にほんごひろば』の実践報告があって、それを幼児教育、人権教育、ネットワーク論の専門家が「読み解く」という企画だった。

今週末は国際理解教育学会の研究大会が奈良教育大学でやられるが、特定課題研究のテーマがやはり実践研究になっている。テーマは「国際理解教育における実践研究の視座」。わたし自身も同じタイトルの報告を準備していて、そこでは「当事者研究としての実践研究」の成立条件について提起する。

異文化間教育学会の方は2年、国際理解教育学会の方は3年単位のプロジェクトであり、企画のねらいもそれぞれ違っている。ただ、両学会の特定課題のテーマがこれほど接近するのは珍しい。現場の実践家が会員の3割を占める国際の方は当然としても、大学教員の比率の高い異文化でもこのところ自由研究発表の「実践報告」が増えた印象がある。本腰を入れて実践研究に取り組む時期にきたということだろうか。

今出川通りから女子大のキャンパスを眺めてはいたが、なかに入るのは初めてである。通路沿いによく手入れされた松の木が並んでいたり、さほど大きくないジェームズ館のロビーでゆったりノートを眺めている数人の学生さんの姿があったりで、どことなく静寂さが漂っている。そのせいで、東京都心の大学とは少し違う時間が流れているように感じた。

津市でワークショップに参加

 

左から、富田さん、華穂さん、元生さん

左から、富田さん、華穂さん、元生さん

日本協同教育学会の「協同学習法ワークショップ」(321日)に参加するため、津市までいった。春は名のみの肌寒い風が吹いている。1999年に三重県総合教育センターで「多文化共生時代の教育」という講演をして以来だから、津駅で降りるのは15年ぶりである。

参加者16人というこじんまりしたワークショップで楽しかった。学会企画の催しだが、行ってみると、ファシリテーターは小学校の校長経験者がお二人。ワークショップの素材も「三桁の引き算」と「俳句づくり」の授業とあって、なんだか教員研修会の趣である。

バズ学習やジグソー法を体験するのだが、個人で考える時間も話し合いの時間も、ほとんど23分の区切りで進んでいくので、とにかく忙しい。

参加者になってみると、内容もさることながら、どうしてもファシリテーションの仕方そのものに目が向いてしまう。それでいろいろ気がつくことがあった。

朝からずっと活動したメンバー4人で、とてもいいチームワークができた。ロビーでお弁当をたべながら、いまどんな仕事をしているのか、どんなきっかけでワークショップに参加したのか、こうした技法を活用することの意義と難しさは、など色々なことを話せたのが大きい。

富田収さん(日産自動車大学校)は自動車整備の専門家。シルバー・ボランティアでパプア・ニューギニアに在住した経験をもっている。元生安宏さん(京都・桂坂小学校)は算数教育が専門で、前日卒業式を終えたばかりという。渡邊華穂さん(常葉大学教職大学院)もやはり算数教育が専門で、小学校教員を目指して頑張っている。

華穂さんから、昨日ほどグループで仲良くなった研修は初めてだったとメールをもらったが、おそらくみんなの共通した思いだったろう。それで口々に、またいつか会えたらいいね、といって別れた。

演劇的知と身体性-日本教育方法学会49回大会

台風26号の影響で大学が休校になり、ブログをアップする時間ができた。尋常でない忙しさが続いたから、今日でちょっとリズムが変わるかもしれない。

先週末、日本教育方法学会の第49回大会(埼玉大学)で6回目のラウンドテーブルをやった。共通テーマは「演劇的知の教育方法学的検討(1)」。演劇的知の概念を、いまのところ表象・実践・分析という三つのレベルでとらえている。これまでの5年間は「教育方法のトポロジー」を共通テーマにしておもに実践レベルの考察にウェートをおいてきた。これからは三つのレベルを串刺しにするセッションにしよう。そう考えて共通テーマを変えた。

共同研究が折り返し点にさしかかったという認識である。先陣をきってくれた宮原順寛氏(北海道教育大学)の報告「授業研究における身体性―演劇的知のパラダイム再考」が滅法刺激的だった。教育現象学からの提起である。

なにしろ12ページにおよぶ文章にスライドさらに実践場面のDVD試聴までつく意欲的なものだから、とてもここで整理はできないが、とくに心に残ったのが以下の点である。

まず議論の前提にかかわることだ。中村雄二郎の演劇的知の概念はしばしば近代科学への対抗軸(非合理の復権)として注目されがちである。だが、本来的には新しい統合原理であることにこそ着目すべきである。それはフッサールが現象学を統合原理にしようとしたことに照応しているだろう。

次に授業研究にかかわる以下の視点がチャレンジングだった。方法学研究の歴史的パラダイム転換というものを、吉本均氏の学習集団研究の蓄積を通して検討すると、次のような特徴が浮かんでくる。それは、パラダイムの転換が「主観と客観の解明」から「主観から主体への置き換え」の方向で おこなわれてきたということだ。そこでの”見失われた環”が、間主観性についての議論である。

これからは「主観客観問題の解明」にもう一度向き合うことからはじめて、主観客観の二元論を超克し、その基礎の上に、授業実践の間主観的な記述と考察がなされる必要がある。

最後に、難解な議論から一転して長崎県のA小学校の実践場面の報告・分析になるのだが、そこに授業の質的研究を丹念に続ける宮原氏のスタンスがみえてきた。とりわけ子どもたちが学びの場でしめす身体的共振に触れて思わず涙を流したというエピソードが紹介されたとき、ひげ面の観察者・宮原氏の人柄がそこはかとなく浮かんできて、会場から「いい話を聞いたなあ」という波動が起こった。

来年の広島大学大会では、中野貴文氏(熊本大学)が日本の古典教育の視座から提起してくれることになっている。いまから楽しみである。

国際教育系の研究会

公開シンポジウム 左端が羽田先生

公開シンポジウム 左端が羽田先生

週末、国際教育系の二つの研究会に参加した。土曜日は、「日本国際理解教育学会」研究・実践委員会/第1回公開研究会(愛知 名古屋市・椙山小学校)で「理論と実践の統合、実践を臨床的に研究する理論の構築」というテーマで報告し、日曜日は「日本国際教育学会」第24回大会・公開シンポジウム「学校における国際教育の実践と課題」(日本大学文理学部)でモデレーターの仕事をした。

国際理解教育学会(1991年創設)の方は会員の3割を現場の実践者が占めているが、国際教育学会(1990年創設)は主に大学の研究者で構成されている。それもあって、教育実践を真正面から公開シンポジウムのテーマに掲げるのは初めてだったらしい。

私は会員でないのだが、大会実行委員長をつとめた研究室の羽田積男教授(高等教育論)の発案でこの企画が実現した。

シンポジストの4名はいずれも獲得研のメンバーである。関根真理さん(啓明学園)が13年におよぶ「国際理解の日」の取り組みを、早川則男さん(中村高校)が1年間の海外留学を卒業要件にしている国際科での模索を、和田俊彦さん(跡見学園)がオーストラリアの語学研修の取り組みを、オユナさん(モンゴル国立大学)が公立小学校での留学生講師の授業を素材にして報告した。

シンポジウムを聴いた宮崎さんが四者四様と評した通り、内容が多彩なだけでなく、それぞれのライフストーリーが報告に投影しているところが興味深かった。また、会場からのたくさんの質問に実に手際よく応答する。堂々たるものだ。これなら、全国どこででも即座にシンポジウムを開けるだろう。

フロアから発表を聴いていたら、ひとつの感懐がうかんできた。こんな連想からだ。和田さんとは1980年代に国際理解教育の焦点だった帰国生教育の現場で教師・生徒として出会っている。早川さん、関根さんとは1990年代に国際教育の牽引役をつとめていた全国私学の研修会で出会った。この3人と一緒に獲得研の原点となる国際教育教材「中高生のためのアメリカ理解入門」(明石書店 2005年)の開発にあたった。そしてオユナさんとは2000年代に出会い、彼女が獲得研の教材開発・授業研究・教師研修の方式をモンゴルに導入する先進的役割を果たしている。

そんなこんなを考えているうちに、この4人のラインアップが、獲得研のこれまでの歩みとこれからの姿をそのまま凝縮するものとして見えてきた。

日本の国際教育の実践も実践研究も大きな転機に差し掛かっている。これからどんな方向に歩んでいくべきなのか、そのことを考えた2日間だった。