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江戸っ子の蕎麦―会津八一と岩本素白

浅草から向島側をのぞむ

浅草から向島側をのぞむ

朝日新聞の夕刊(4月22日付)に、波乃久里子さんが浅草「並木 藪蕎麦」のおかめそばを「おつゆは辛くて江戸っ子の味」と紹介している。「両親(十七代目中村勘三郎夫妻)はダラダラ話をするのが嫌いで、さっと食べて、さあ帰りましょうって。味わっていられないですよ」とも。

このコラムを読んで、義父・熊谷幸次郎(早稲田大学名誉教授)から聞いた会津八一と岩本素白の戦前のやり取りを思い出した。あるとき会津八一が、落合に引っ越すことを同僚の岩本素白に話したら、蕎麦好きの素白から「落合にもそば屋はあるのかい」と言われた話だ。義父は、師の会津八一からこの話を聞いている。八一はいささか心外のていで「そば屋くらいあらあな」と義父にいった。

義父の幸次郎は湯島新花町で育ったひとで、本人も江戸っ子の気風をもった蕎麦好きである。池之端の蓮玉庵で素白にでくわしたことがある、とも聞いた。八一と素白が友人同士でなければ、ただの厭味になりかねないエピソードなのだが、二人の関係を知っているとしみじみ味わいがある。幸次郎がこの話を長く記憶していたのは、義父のなかにも素白の諧謔味に通じるものがあるからだろう。

私も並木藪の蕎麦が美味しいと思う。ただ、18歳で上京するまで、おそば屋さんの蕎麦というものを食べたことがなかったから、蕎麦をすする習慣は青年期以降に属するものである。

江戸っ子の好みはいまもってわからないのだが、ようやく“そば屋で一杯”を楽しめる年齢になってきたことだけは嬉しい。

書斎の整理

八国山と庭 003

41日から半年間の研究休暇に入った。とはいっても、何やかやと仕事があるから、出たり入ったりの生活をしている。その合間に、書斎の資料を整理した。

 書斎は、居間がわりにしている食堂の真上である。余りの重さで、すでに2階の床がかしいでしまっている。ワイフに「あなたの留守のあいだに、私がぺちゃんこになったらどうするつもり!」とずっと脅されてきた。

 書斎に残すもの、2階の納戸に移すもの、1階の和室に降ろすもの、庭の倉庫に移すもの、廃棄処分にするもの、この4種類に分けるのだから、何しろ時間がいる。思い切って捨てることも難しい。相手が本となれば尚更である。それやこれやで、玉突きのように荷物が移動するばかり。かけた労力の割には達成感が乏しい。

 それでも1週間かけてやっと形がついたので、ワイフの強迫からしばらくは解放されることだろう。気が付けば八国山の山桜が満開、わが家のぼけも花盛りである。

 これでじっくり研究に取り組めるはずなのだが・・・。さて?

雪害その後

実に手際よく撤去が進んだ

実に手際よく撤去が進んだ

10日以上たつのに、庭にも道路にもまだ雪が残っている。最初は30年ぶりの大雪ということだったが、翌週のニュースで45年ぶりということになった。山梨の果樹農家や埼玉の養鶏農家の被害の大きさを知るにつけ心がふさがる。

カーポートの方はきれいさっぱりなくなった。お隣も撤去したので、なんだか空が広くなり、ここに越してきたときの光景が甦った。それで半分は、もう再建しなくていいという気分になっている。

雪かきの合間にこれまで話したことのない人とずいぶん立ち話をした。とくにカーポートが大破した人とは、お互いヒドイことになりましたねえ、などから始まって話が長くなる。

大雪の翌朝、近所を通ったら、カーポートの屋根が真っ二つ折れて、車の上におおいかぶさっている家があった。ご夫婦で雪をとかす放水をしている。ご主人が、庭にお父さんの形見の鉢植えをとりにいったら、背後でドスンと音がしたという。きっと雪が落ちたんだろうと思って戻ってみたら、間一髪、さっき通ったばかりのカーポートがこんな具合になってたんです、と話してくれた。ほんの8時過ぎのことらしい。

それで、わが家の被害がそんなに大ごとでないことがわかった。ざっと歩いただけで、25件ほど倒壊を確認したから、実際の数はもっと多いだろう。

もうひとつわかったのは、高齢化の進行具合だ。雪かきに早くとりかかる通りと遅い通りの違いがはっきりしている。私のところは2街区だが、同じ2街区でも、新住民の多い西の端のあたりは雪かきのスピードが断然早い。逆に、東にあたる1街区の方が、このあたりより早く住宅ができただけあって、高齢化が進んでいる印象だ。

もともと新興住宅地だから、近所付き合いが淡泊で、その気安さがまたいいところでもある。ただ、こんな非常時になると連帯感のようなものが生まれ、色んな知恵を持つ人がアドヴァイスしてくれるのでありがたい。

車の屋根を修理するので、ディーラーが引き取りにきてくれることになった。修理の依頼が殺到しているらしく、1週間はかかります、と言われている。

油断―大雪の被害

余りの忙しさで、しばらくブログに向かう余裕がなかった。

湿った雪の重さを屋根の一点で支えている

湿った雪の重さを屋根の一点で支えている

今朝2階の窓をあけて、はじめてカーポートの異変に気づいた。片流れの屋根が、いつもと反対側に向かって傾いているではないか。とりあえず外から全貌を知りたいと思ったが、落雪が多くて、玄関をでるのさえ一苦労というあり様だ。

母屋に異常はないが、カーポートの柱が完全にひしゃげ、かろうじて車の屋根がつっかえ棒の役をしている。大量の雪をのせた屋根の先端が、ほとんど腰の辺まで折れ曲がっているから凄い。なんだか、一晩で大きな犬小屋でもできたような具合である。そこにプリウスがすっぽり収まっている。手遅れではあるが、とりあえず降ろせるだけの雪はおろした。

お隣りの被害も似たようなものだが、ワンボックスカーの屋根が高い分、それが支えになってカーポートの屋根も高い位置で止まっている。

ここに越してきたばかりのころだから、もう30年近くまえだが、やはり大雪があり近所中の雨どいが曲がって、屋根屋さんが住宅地を駆け回ったことがあった。それ以来の大雪ということになるが、おそらく被害はもっと大きいだろう。地域のエクステリアの業者に電話したら、もう15件ほど依頼があり、身動きがとれないという。

先週の大雪でも大丈夫だったから、と油断したのがいけなかった。千葉に住む妹から「だからいったじゃない。積もりきらないうちにとりかからないと・・・」といわれた。さすが雪国育ちである。ご近所の新潟出身の方も、やはり夜中に手当てをしたという。

昨日の夜半まで仕事をして寝についたが、異変に気が付かなかったところをみると、どうも3時を過ぎてからの出来事らしい。業者もきてくれそうにないから、わが家のカーポートは、とうぶん、近所に「油断大敵」を知らせる立体看板の役割を果たすことになる。

 

秋の庭

春の山桜がこうなった

春の山桜がこうなった

気がついたら書斎からみえる八国山がほどよく黄葉している。窓外にみえるわが家のドウダンツツジも、いつもの年より鮮やかに紅葉した気がする。それで思い立って、ドウダンのまわりにある金木犀とサンゴジュの剪定をすることにした。

庭に下りてみると、シュウメイギクが咲き、千両や万両の実もほんのり赤くなっている。すっかり秋の庭になっていた。こう忙しいと、どうしても手入れが滞りがちになる。この家に引っ越して四半世紀たつが、当時の方が時間もあったし、ずっと熱心だった。

もともと西武不動産で植えた樹が庭に5、6本あったのだが、父親と妹の義父がどっさり若木を運んでくれたので、すっかり配置をやり直した。二人は大の庭好きである。だが、どうも住宅団地の庭の広さを見誤っていた気がする。後日、義父の幸次郎が庭を一瞥して「まるで幼稚園児の遠足だな」といったので、その描写の適切さに思わずふきだした。

手入れをしようと張り切っているころには、樹がちっとも育たない。ところが10年たってこちらの熱が冷めたころ、まるでそれを見計らったかのように、勢いよく伸びだした。木々が庭にしっかり根付いた証拠である。折あしく仕事も忙しくなったから、こんどは手入れが追いつかない。

地面に百日紅の影が映っている

地面に百日紅の影が映っている

茫々たる山野にあるごとく枝が伸び、重なり合って繁茂する。こうなると切枝や葉っぱの始末が大変である。生ごみの日にビニール袋にいれる程度ではとうてい間に合わないから、車に積みこんで、直接クリーンセンターに持ち込む仕儀になってしまった。

植物の成長というのは、凄いものである。日当たりのいい道路側の紅梅などは、気がつくと近所のランドマークになっていた。ただ、脚立の再上段に乗って高枝切り鋏をのばしてもてっぺんに届かないから、何年も2階のベランダ越しに剪定していたものの、とうとう諦めて、チェーンソーで太い枝を何本か刈り込んだ。

日の傾くのがとても早い 右手は白梅

日の傾くのがとても早い 右手は白梅

地面の方は鄙びた雑草園の風情になった。以前、妻の友人が遊びにきたとき、見かねて「私が芝生を刈ってあげようか」といったらしい。ところがよくしたもので、手をかけないでいるうちに、苔やら雑草やらがほどよく侵食してきて芝生がなくなり、限りなく自然にちかい苔庭になった。負け惜しみに聞こえるだろうが、わたしはいまの方がすきである。

ほんの数時間の庭仕事だが、それでもリフレッシュはできる。明日は「高校生プレゼンフェスタ」の本番である。遠方からの参観者もあって、賑やかなお祭りになることだろう。

名古屋大学の熊谷幸之輔像

名古屋大学病院と胸像 029

名古屋大学医学部で妻の曽祖父・熊谷幸之輔(1857-1923)の銅像と対面した。幸之輔は長く愛知医学校や愛知医専の校長、病院長をつとめていた人である。八事までは墓参にきても鶴舞に足をのばす機会がなかったから今回がはじめての対面ということになる。

熊谷幸之輔は東京大学医学部の一期生。28名の同期生のなかに森鴎外がいる。1881年に大学を卒業すると後藤新平校長の招きで名古屋に赴任する。幸之輔の身分は一等教諭、外科医長。医学士が貴重な時代とあって、給与も後藤校長をはるかにしのいでいたらしい。

ほどなく幸之輔の身の上が急変する。後藤新平が板垣退助の岐阜遭難を機縁として東京に去り、26歳の幸之輔が医学校の校長と病院長を兼務することになったのだ。以来その職にあること33年、その間に2500名を超える医師を世に送り出している。

名古屋大学病院と胸像 034

ただ、名古屋大学史が“苦難の時代”と呼ぶ通り、熊谷校長の前半期は財政難などで経営が危機に瀕していたらしい。栄転の誘いを断って名古屋にとどまった幸之輔は、数々の苦難を乗り越え、愛知医専の鶴舞全面移転の事業を終えて退職する。

この胸像は、校長職を辞してまもない1918年に、校友会の募金によって愛知県立医学専門学校に建立されたもの。幸之輔の60歳ころの肖像ということになる。作者は帝室技芸員の新海竹太郎である。

基礎医学研究棟4階の飾り気のないホールにおかれた胸像は、想像していたよりもずっと大きかった。両脇に林直助博士と久野寧博士の胸像がまるで三尊形式のように並んでいるせいでよけいにそう見えたのかもしれない。ちなみに林氏は、幸之輔が亡くなったときの解剖執刀医である。

幸之輔像は、髭のある口元に強い意志が感じられる。面長な顔立ちに目鼻がゆったりと配置されているところは、義父の熊谷幸次郎(早稲田大学名誉教授)を経由してわたしの妻の面差しにつながっている。もう少し若いころの写真をみると、がっちりした体躯でそこに猪首気味の頭部がのっている。おそらく会う人に精悍な印象を与えたのではないかと想像される。

いまの幸之輔像は胸像だが、もともとは校庭の緑陰に建立された全身像だった。戦時期に金属供出にあい、戦後になってからいまの形で再建された。その除幕式に、小学生だった妻が義父にともなわれて参列している。

旧県立愛知病院の正門(大正3年)が現在も使われている

旧県立愛知病院の正門(大正3年)が現在も使われている

医学部史料室の親切で「鶴天学友会会報」と「関西医界時報」の追悼号をコピーさせてもらった。それをみると幸之輔は胃潰瘍で亡くなっている。「臨床記録」と「剖検記事概要」から、幸之輔が自分の脳と患部を病理学教室の標本とするよう遺言していることがわかる。

数々の追悼文が尋常でない熱気をはらんでいる。温厚の人、高潔なる人格、隠忍苦耐、慈愛、高遠なる理想、物質上において極めて淡泊、(外科手術の)霊腕妙手などの言葉とともにさまざまなエピソードが語られるからだ。

よく酒を飲んだらしいが「嘗て一度も如何なる宴席に於いても先生が乱酔されたことを見たことがありませぬ」という文章もある。幸之輔の葬儀には2千人をこす会葬者があり「中京空前の盛儀」だったという。

20本をこす追悼文を読んでみて、一筋の道ということばがどこからともなく浮かんできた。それで、なるほど幸之輔のこの生き方が熊谷家の家風のベースになってきたのか、と納得した。

初海茂さんと男性合唱団エルデ

初海ファミリーと久しぶりに再会

初海ファミリーと久しぶりに再会

日曜日に「創立30周年・東日本大震災復興支援 男性合唱団エルデ第10回定期演奏会~つながる・響きあう」がオリンパスホール八王子であった。2年に一度の大きな発表会とあって、1200人の聴衆がつめかけ、2階席までいっぱいになった。地域合唱団でこれだけの観客を集めるのは稀だという。

獲得研事務局長の初海茂さんがここでテナーを担当している。初海さんは、学生時代からかわらず歌好きである。

いつだったか、閑散とした東北自動車道で「夏の思い出」など思いつくままにハモっていたら、目的のランプを通り過ぎてしまい、大騒ぎになったことがある。まだ、東北自動車道の工事が栃木あたりで止まっていたときのことだ。

エルデはとても元気である。団員は30人ほど、平均年齢68歳。ひごろから被災地に花を贈る活動も続けていて、今回のプログラムにも東北民謡が4曲入っている。

休憩をはさんで2時間。組曲「雪明りの路」、日本民謡、日本の歌、ミュージカル「学生王子」と4つのステージをこなす。

ステージごとに、スーツ、はっぴ、カラフルなシャツと着替える。手ぬぐい、ジョッキ、花束など小道具をつかった振付もはいるから、明るくにぎやかな演奏になる。

なによりいいのはエルデの団員が歌うことを本当に楽しんでいて、それが聴衆にも伝わってくることだ。こうした合唱団が地域に根をおろしているのは、素晴らしい。

夏休み―八国山の蝉

大学教師の夏休みは、言葉通りの「休み」ではない。まとめて自分の仕事ができる期間のことだ。今年は、3冊分の編著の企画が進行しているのでひときわ忙しい。その上この暑さである。もはや規則正しい生活で乗り切るしかないだろうと殊勝なことを考え、夕方に八国山の散歩をいれることにした。

今日、人影もまばらな尾根道を歩いていたら、左手首の外側に小型の蝉がペタリととまった。ちょっと驚いたが、振り払うのもためらわれて、腕をふらずにそのまま歩き続けることにした。細い前足をときどき右、左と動かすのでこそばゆい。

ひじをゆっくりまげて上からのぞきこむと、顔の周辺は綺麗な緑青色である。「いったいどういうつもりなんだい」と話しかけたが、はかばかしい反応がない。四角い顔の両端にある芥子粒ほどの黒い目玉からは表情がなにもよみとれない。

5分ほど歩いたろうか。蝉が飛び去って、全山が蝉しぐれになっていたことに初めて気がついた。

これをワイフに自慢してやろう。バード・ウォッチングをはじめてこのかた、鳥のことでは自慢のされっぱなしである。なにしろ彼女のいくところ、カワセミ、ルリビタキなど青い鳥がやたらに姿をみせる。京都御所の九条邸の庭、南禅寺の天授庵、宇治川など、およそ池や流れのあるところならどこでも、という感じである。

ある夏、ロンドンのキューガーデンの芝生でうたたねしているワイフの姿をみたら、知らぬ間にリスや小鳥が集まっている。これを目撃したときはさすがにわが目を疑った。

彼女がアッシジの聖フランチェスコならぬ“所沢のフランチェスカ”をひそかに自認するようになったのはそれからである。おかげで珍しい鳥が目の前にあらわれようものなら、その手柄をことごとく自分のものにしてしまう。こんな状態がもう20年ちかく続いている。

しかし、これからは手柄の独り占めをさせないつもりである。

実は〆切型人間でした

尾上明代さんのワークショップでみんなに驚かれたが、私は〆切型人間である。物心ついてからコツコツ型だったという記憶がない。当然のこと原稿の執筆はいつもギリギリ、筋金入りの〆切型である。

いくら楽天的な私でも、これでいいと思っているわけではない。息もたえだえで原稿を書き上げたときなど、寅さんのセリフではないが「いまはただ反省を日々と過ごしております」という気分になる。ワイフからは「締め切り間際に急病にでもなったらどうするつもり?」と脅される。私と正反対のタイプだ。

これまでにコツコツ型に転換する機会がいくらもあったが、一向に改善がみられない。原因のひとつは「締め切りが迫りテンションがあがったときの方が、アイディアが湧いて、結果的に良い原稿になる」という思い込みだ。これなどはほとんどへ理屈の類だろう。

というと、依頼原稿といういわば他力本願で研究内容が決まっているみたいに聞こえるが、そういうことではない。「そろそろこのテーマで書かなくちゃ」と思っているところに注文がくる、そんなタイミングが多いのだ。不思議な予定調和である。

改善がみられないもう一つの原因が、無意識の自己防衛だ。ICU高校時代、ことに30代後半からどんどん仕事が忙しくなった。本務だけでも十分に忙しいのに、複数の大学の非常勤講師、学会や研究会の仕事、講演など、たとえ作業計画をたてても到底できそうもない仕事量にまで膨らんだ。破綻する計画表をながめるよりテンションをあげて目の前のハードルをクリアする、そんなスタイルが定着した。その結果、忙しくなればなるほどますます〆切型の行動が助長されることになる。

このやり方が気質にもかなっている。陸上でいえば長距離走よりも短距離走タイプ、テニスのダブルスでいえば集中力を高めてチャンスに飛び出す前衛タイプである。

それでも、そろそろコツコツ型に変わる時期かなと思うときがある。集中力の低下を自覚するようになったのだ。集中力こそ〆切型の生命線である。これが低下しては同じスタイルが貫けない。野球投手が速球派から技巧派に転身するというあれだ。

私の出会ってきた教師の圧倒的多数がコツコツ型である。おそらく職業的類型といっていいだろう。それで、教師を目指す学生には折にふれて「4つのマネージメント」―目標、時間、作業量、こころのマネージメント―の方法を指南している。4つのマネージメントというのは、七転八倒の歩みから生まれた体験的仕事術のことだ。

仕事術が生まれる背景を省いて結果だけ伝授しているので、彼らが私を生来のコツコツ型人間だと誤解している可能性は大いにあるのだが。

さて、転身は可能だろうか。

野鳥をみる―八国山

11月の八国山

11月の八国山

庭の梅の木に白ハラがとまって、野鳥シーズンの到来をつげたので、2か月ぶりに八国山をあるいてみた。

わたしは、書斎の窓から八国山を眺めくらしている。山とはいっても、東西に細長くのびる丘陵である。地面の高さだけなら、せいぜいわが家の屋根の3倍ていどだろう。

コナラ、クヌギ、イヌシデ、山桜などの雑木林をぬって尾根道がはしる。ゆるいアップダウンのある全長2キロの道は、早朝から日の暮れまで、散歩やジョギングを楽しむひとでいつもにぎわっている。尾根道の東端には、新田義貞の鎌倉攻めのおりの史蹟・将軍塚もある。

八国山の北側は、いまでこそ1100世帯がくらす住宅地だが、もともと大谷たんぼと呼ばれた農地である。引っ越してきた当時は、まだ半分も分譲されていなかったし、八国山を散策する人の数もすくなかったから、トトロのネコバスが、尾根道のむこうから飛んででそうな雰囲気だった。

1月 日が傾くころ

1月 日が傾くころ

バードウォッチングに熱中し、八国山を縦横に歩き回るようになったのはそんな頃である。それで、定番のツグミ、シロハラ、ジョービタキの類から、オオタカ、カケス、アカゲラ、トラツグミ、キレンジャク、キクイタダキなどまで確認できたから、どんどん勢いがつき、ついには窪地のいくつかに名前をつけ、自作の地図の上に観察記録をつけることまでした。

「ルリビーの沢」は、急斜面で、自然石の階段が長くつづく場所。ここには、毎冬きまって、まん丸の目玉が愛くるしいルリビタキがやってくる。ある年、高い山からおりてきたこの賓客は、きわめて社交的だった。行く手にしばしば姿をあらわすだけでなく、どうかすると、沢筋をおりきるまでついてくることがあった。

地面と低い枝のあいだをせわしく行き来しては、一瞬うごきをとめて首をかしげる。どうぞみてください、といわんばかりだ。数メートルの距離をたもって、立ちどまるととまり、うごくと先へすすむを繰り返し、林の出口にくると「ここまでですよ」というようにさっと姿を消してしまう。

「ツグミ沢」は、雑木の足元に小笹が一面にひろがる大きい沢である。ここでは、背伸びするように首をのばしたツグミが、一声鳴いて枝に飛びうつる姿にかならずであえるので、こう命名した。

ある冬のはじめ、地面がざわざわするような異様な生命感が、ツグミ沢いっぱいにみちていた。地面がうごくようにみえたのはおびただしい数のツグミがいたからで、シベリアから渡ってきた群れが、この沢を中継地にしたのである。わたしの出現がかれらを驚かせたようだ。いっせいにとびたった群れが、沢の中空をものすごいスピードで旋回すると、無数の羽音が重なりあってゴーッとうなりを発した。

八国山3 002山が騒がしくなって野鳥がへったり、わたし自身が忙しくなったりして、めっきり鳥をみにいかなくなった。ただ、この季節だけの、別のたのしみがある。晴れた日の夕方、あたりの空気が急速に冷えこんでくるころ、すっかり葉をおとした雑木林に、大きなオレンジ色の太陽がスーッと落ちる、いかにも武蔵野らしい景色がみられるのだ。