
名古屋大学医学部で妻の曽祖父・熊谷幸之輔(1857-1923)の銅像と対面した。幸之輔は長く愛知医学校や愛知医専の校長、病院長をつとめていた人である。八事までは墓参にきても鶴舞に足をのばす機会がなかったから今回がはじめての対面ということになる。
熊谷幸之輔は東京大学医学部の一期生。28名の同期生のなかに森鴎外がいる。1881年に大学を卒業すると後藤新平校長の招きで名古屋に赴任する。幸之輔の身分は一等教諭、外科医長。医学士が貴重な時代とあって、給与も後藤校長をはるかにしのいでいたらしい。
ほどなく幸之輔の身の上が急変する。後藤新平が板垣退助の岐阜遭難を機縁として東京に去り、26歳の幸之輔が医学校の校長と病院長を兼務することになったのだ。以来その職にあること33年、その間に2500名を超える医師を世に送り出している。

ただ、名古屋大学史が“苦難の時代”と呼ぶ通り、熊谷校長の前半期は財政難などで経営が危機に瀕していたらしい。栄転の誘いを断って名古屋にとどまった幸之輔は、数々の苦難を乗り越え、愛知医専の鶴舞全面移転の事業を終えて退職する。
この胸像は、校長職を辞してまもない1918年に、校友会の募金によって愛知県立医学専門学校に建立されたもの。幸之輔の60歳ころの肖像ということになる。作者は帝室技芸員の新海竹太郎である。
基礎医学研究棟4階の飾り気のないホールにおかれた胸像は、想像していたよりもずっと大きかった。両脇に林直助博士と久野寧博士の胸像がまるで三尊形式のように並んでいるせいでよけいにそう見えたのかもしれない。ちなみに林氏は、幸之輔が亡くなったときの解剖執刀医である。
幸之輔像は、髭のある口元に強い意志が感じられる。面長な顔立ちに目鼻がゆったりと配置されているところは、義父の熊谷幸次郎(早稲田大学名誉教授)を経由してわたしの妻の面差しにつながっている。もう少し若いころの写真をみると、がっちりした体躯でそこに猪首気味の頭部がのっている。おそらく会う人に精悍な印象を与えたのではないかと想像される。
いまの幸之輔像は胸像だが、もともとは校庭の緑陰に建立された全身像だった。戦時期に金属供出にあい、戦後になってからいまの形で再建された。その除幕式に、小学生だった妻が義父にともなわれて参列している。

旧県立愛知病院の正門(大正3年)が現在も使われている
医学部史料室の親切で「鶴天学友会会報」と「関西医界時報」の追悼号をコピーさせてもらった。それをみると幸之輔は胃潰瘍で亡くなっている。「臨床記録」と「剖検記事概要」から、幸之輔が自分の脳と患部を病理学教室の標本とするよう遺言していることがわかる。
数々の追悼文が尋常でない熱気をはらんでいる。温厚の人、高潔なる人格、隠忍苦耐、慈愛、高遠なる理想、物質上において極めて淡泊、(外科手術の)霊腕妙手などの言葉とともにさまざまなエピソードが語られるからだ。
よく酒を飲んだらしいが「嘗て一度も如何なる宴席に於いても先生が乱酔されたことを見たことがありませぬ」という文章もある。幸之輔の葬儀には2千人をこす会葬者があり「中京空前の盛儀」だったという。
20本をこす追悼文を読んでみて、一筋の道ということばがどこからともなく浮かんできた。それで、なるほど幸之輔のこの生き方が熊谷家の家風のベースになってきたのか、と納得した。