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高校の同級生

秋田高校の同級生・堀井伸夫くんを誘って、いまもときどきおしゃべりする。進路について同級生でよく議論したものだが、なかでもバレーボール部のキャプテンをしていた堀井くんが一番の話し相手だった。彼は佐竹藩の在郷武士の末裔である。雄物川に面した屋敷のはじに巨大なアカマツが聳え、長押に漆塗りの長い槍がかけわたしてあった。

広小路側から旧県立図書館をみる

広小路側から旧県立図書館をみる

もともと次男として生まれたのだが、家族内の事情から、大学をでたら秋田に戻って家を継ぐとはやくから決めていて、実際にその通りにした。そういう運命の受容の仕方を、私はなんとも潔いものに感じた。

堀井くんとは受験勉強も一緒にした。県立図書館の閲覧室がわれわれの勉強場所で、窓から旧久保田城のお濠越しにメインストリートの広小路が見渡せる。広小路は百貨店や専門店が立ち並ぶ賑やかな通りである。当時、老舗の木内(きのうち)デパートは売り場に秋田美人が多いことで知られていた。市内に実家のある友人が帰省すると、まず木内の売り場を一周し、それから安心して家路につくのだと自慢していたものだ。

繁華だった広小路も今は昔、1982年に17千人あった一日の通行量が、2005年には3千人を切ったという(201116日付朝日新聞・秋田版)。もっとも、いまは少し盛り返しているのではないかと思う。

ふたりは図書館をでると反対方向に別れる。堀井くんは明かりのともる広小路を通って保戸野の下宿に、私は千秋公園の薄暗い坂をのぼり平田篤胤、佐藤信淵を祀る弥高神社の脇を抜けて千秋北の丸の下宿に、それぞれ帰るのである。

千秋公園 下宿tに続く道

千秋公園 下宿tに続く道

職業安定所に就職した堀井くんは、秋田県内をくまなく転勤してまわり、大館市のハローワークの所長で定年を迎えた。3人の子どもを立派に育て、家を守り、秋田の経済を足元から支えてきた人生である。

そんな堀井くんと話していると、ときどき、別の人生を生きてきた「もう一人の自分」と会っているように思えるから不思議である。

正月を迎える

秋葉権現 1978年の撮影

上京して食べる機会がなくなったものに、真っ赤な酢蛸(すだこ)がある。物心ついてから、正月の食卓にずっとあったものだ。先日スーパーでみかけて、幼少期の光景がよみがえってきた。うかんでくるのは、3世代8人家族の暮らしぶりである。

1950年代の農村では、小学生といえども、春の菖蒲叩き、夏の七夕行列、正月のなまはげなど、季節ごとになにかしら行事があったから、時間の区切りがいまよりもはっきりしていた。

ことに正月迎えの儀式が忘れがたい。いつからはじまったものだろうか。わが家では、大晦日の夕方に、屋敷内を参拝してまわる習慣があった。気忙しい準備のハイライトである。仏間、三面大黒のある台所、屋敷の西南方向にあるお稲荷さんの祠、母屋の西にたつ米蔵というように毎年おなじルートでまわる。享保年間の棟札のある土蔵が、その当時、米蔵になっていた。

昼間のうちに父親が、母屋から庭をつっきり、祠と米蔵にいくルートの雪かきをしておく。その細いみちをたどって土蔵にはいると、厚い漆喰扉のむこうに大きなろうそくの炎がゆれ、ととのえられた祭壇をほの明るくみせている。周囲をとりまく漆黒の闇がことに幻想的である。

コースを一巡して明るい客間にもどり、さいごに天井近くにしつらえられた神棚をおがむ。餅花がさがり、石造の秋葉権現がおかれた神棚だ。長押には、天照大神をまんなかにして、農神、高砂、お多福などの軸が盛大にかざられ、まるで神々が勢ぞろいしたようなにぎやかさになる。その前のテーブルにお供え物を載せたお膳が二つ。佐竹藩主の描いた茶がけの軸も、この時期だけかかる。

この儀式がすむと、めいめいがお膳について、大晦日の夕食になる。一年の感謝と来年への期待がこもった食事には、どこか厳粛な雰囲気があった。そのお膳に欠かせないのが、ぶつ切りの蛸なのである。

いく日もかかる正月迎えの準備があってこそ、正月気分がいっそう晴れがましいものになる。年取りの夜が明け、新しい履物や衣類をととのえてもらうと、すがすがしい気分になった。

「ハレ」と「ケ」というが、こうした儀式を通して、日常の時間のなかに非日常の時間が入り込んでくる。そこにうまれるのが、いまは失われてしまった演劇的空間である。わたしにとってその空間は、光と闇のコントラストが鮮やかな世界だった。

中学の同級生

日立中央研究所の大池

日曜の正午ピッタリに国分寺の友人宅をたずねた。打ち立て・ゆでたての蕎麦を夫婦でご馳走になるのだ。鷲谷信一くんは、「ことば」カテゴリ-の記事「方言とラジオ(1)」に登場するWくんだ。そば通でない私でも、北海道産新そばの香り、こし、そして包丁づかいのみごとさがわかる。彼はそんなそばを打つ。

「中学時代、いつも一緒にいたよね」と夫人の厚子さんが言う通り、信一くんがいちばん気の合う友人だった。別々の高校にかようようになってからも、ふたりで松島、中尊寺方面に旅をしている。文学少年だったわたしは、牡鹿半島から金華山までのおだやかな海上風景を、文語体で旅日記に書いたりした。高校2年生の夏のことだ。

西国分寺駅付近の夕暮れ

昼食の後、日立中央研究所庭園の一般公開、湧水でしられるお鷹のみち、7世紀の東山道の史跡など、武蔵野らしいルートを案内してくれた。ことに日立中央研究所庭園は大盛況。観光バスが周囲に何台もとまり、団体客が乗り降りしている。20万平方メートルの敷地に2万7千本の樹木がしげり、野川の源流があることでも知られている。この研究所が、信一くんのもとの職場だから、またとないガイドである。

鷲谷夫妻とわたしは、もともと統合中学校の同級だ。厚子さんにいたっては、東小学校時代からの同級生で、児童会長選挙の応援演説をしてくれた人だ。厚子さんは、わたしの生家から自転車で10分ばかり上手の集落の生まれ、西小学校出身の信一くんは、生家から八郎潟方向にやはり10分ほど下った集落の生まれである。

ともだち結婚のふたりと話していると、とても穏やかな時間がながれる。この日も8時間あまり、おたがいの病気自慢もまじえて、あれからこれへとおしゃべりがつづく。とりわけ、わたしのなかの15歳の記憶が、多様な角度から補強されたり、修正されたりするから面白い。

ふたりはまだこのブログ「演劇的知の周辺」を読んだことがない。いつか感想を聞いてみたいと、思っている。

酒どころ

私の育った地方にはいくつか日本酒の蔵元があり、酒好きもすこぶる多い。何かと理由をつけては飲み、理由がなくても飲む。飲み屋というもののない村だったから、だれかの家が宴会場になるのがつねで、子どもたちは小さいころからお酌の仕方をおそわり、ついでに人間観察の機会をあたえられる。

かくいう私も嫌いなほうではない。若い時分、Good Beer Guide(1979年版)を手がかりに、かたっぱしから英国ビールをためしてみたし、近年も「琉球泡盛銘柄マップ」(沖縄県酒造組合連合会)を手元において泡盛の完全制覇を試みたりしている。

中学校3年生のとき、わが家で小学校と中学校の先生たちの宴会があった。両校の家庭訪問の日程・地域が重なり、せっかくだから合同で、となったようだ。奥座敷まであけはなして、めいめいが膳に座るので壮観だ。

お銚子をもって担任のS先生(英語)の前にいくと、先生が私の顔を正面からみすえて「淳くん、きみはもっと広い世界で活躍したほうが良い。この村をでるべきだ」といった。冗談ひとついわない謹厳実直な先生の、なんともストレートな忠告だった。

不意をつかれた思いでいると、1年生で担任だったA先生(保健体育)が「そうだ。でたほうがいい」と即座に同意した。S先生もA先生も村外の出身だけに、客観的に私の将来をみていたのではないかと想像する。

村の人たちの集まりでは、興がのってくると誰からともなく手拍子がでて「どんぱん節」など秋田民謡がうたわれた。狂言の演目「木六駄」は、使いに出された太郎冠者が寒さのあまり主人から託された酒を飲みほしてしまう話だが、一杯また一杯と飲むうちに太郎冠者の酔いがどんどん回っていくあの演技を観るたびに、私は幼少年期の宴席の様子を思い出すことになる。

ただ、酒に飲まれる人も多かった。帰りみちで自転車ごと田圃に突っ込んだ、などというのは良いほうだ。いつまでも戻らない当主を探しにいったら、墓場の地面にすわって一人で宴会をしていた、という類のエピソードが流布している。村の人たちは声をひそめて「きつねに化かされたんだ」と噂した。

他家に寄り道する癖のある人もいた。夜半、集落のはずれのほうで酔人の大声がして、その声がだんだん近づいてくる。まだ明かりの点っている家々では、その声を合図に「それっ」とばかりに電灯を消す。しかし、効果は希薄だ。玄関先の暗さもものかは、いっこうに立ち去る気配がないのだ。根負けして電気をつけると、座敷にすわりこんで「なあんもいらね。酒ッコだけあればいい」とコップ酒を所望する。

もう完全にできあがってしまっているから、こわいものなし。家族のだれかが迎えにくるまで、とりとめのない話がえんえん続くことになる。

翌朝、酔い覚めの本人は意気消沈。奥さんが「あいー、仕方ねすなあ。(なんとも、申し訳なくて)」といいながら立ちより先を詫びて歩く。面白いのは、酔客を邪険に扱う人がだれもいないことで、都会生活では考えられないほど酔っぱらいに寛容な風土だった。

 

指先の感触

映画では源流行の起点になるあたり(左下に家族連れの姿がある)

川に親しんで育ったせいで、清流というものに無条件の憧れがある。私が親しんだのは、奥羽山脈から八郎潟東岸にそそぐ総延長20キロの川、その中流域のあたりだ。中学校にあがるまで、春秋はフナ釣り、夏は手づかみのオイカワ(ヤマベ)漁に熱中した。泳ぎもここで自然に覚えた。

八郎潟東岸は広大な平野だから、いくつも川が流れている。父の実家がある隣町の川はもっと大きい。上流が映画「釣りキチ三平」のロケ地になるほどの清流だから、父の子ども時代は素潜りで魚を突いたものらしい。

私にとって忘れがたいのは手づかみの漁である。生家から南に緩い坂をくだり300メートルほど田圃道をいくと木橋があり、欄干ごしに、浅瀬を泳ぐ魚の群れがキラキラ銀色の光をかがやかせているのが見える。ずいぶん大きな川に思えたが、川幅はせいぜい20メートルあったかどうかだろう。上流はイワナのすむ清流で水温も低いが、このあたりは水温もさほど低くないうえに水量も下流域ほど多くないから、水遊びに最適の条件をそなえている。

岸に服を脱ぎすて、膝から腰のあたりまでくる水をこいで川の中を進む。オイカワは岩の下流側のくぼみに身を隠す性質がある。そこでポイントに近づくと、あたりをつけて両腕をソーッと抱え込むように差し入れ、指先に神経を集中させてつかまえる。顔は水の上にあって手元が見えない。だから指先の感覚だけが頼りの、きわめて原始的な漁である。オイカワのメスはアユのような地味な色だが、オスは体長も大きく婚姻色は虹のように美しい。

鬱蒼とした緑におおわれた淀み、堰堤を下った流れが水しぶきを上げる場所、浅瀬の大きな石など、ポイントをたどりながら川を下っていく。とらえた獲物は鰓(えら)から口に柳の枝を通してもち運ぶ。もう一つ下流の橋までいく間に、どうかすると枝がいっぱいになるほどオイカワが獲れることがあった。

いちどだけ鯰(なまず)をつかまえたことがある。場所は木橋のすこし上(かみ)だ。大雨のせいで湾曲部にある大木の地面がえぐられ、細かい根が水中で簾のように絡まりあっている。ここを手探りしているうちに、はずみで両手に余るほど太い胴がすっぽり手に収まった。その柔らかい感触にはっとしたが、こころを落ち着かせ、相手が暴れないように静かにからだに引き寄せる。そして胸のあたりに抱え込むがはやいか、一目散に岸をかけのぼった。草のうえに獲物を放りだすと、立派なひげの鯰が尾を左右にふって草の上をはねた。そのときの興奮が、両手のぬるぬるした感触とともにいまも蘇ってくる。

夏でも身をきるように冷たい

世界の広さ-人生の黄金期

庭のザクロ

90歳の熊谷守一さんが、深さ2.7メートルの涸れ池に腰をおろして、真っすぐこちらを見あげている。顔の半分をおおいつくす長いひげ、手にはステッキ。晩年の守一さんは、50坪の庭を自分の世界と定めいっさい外出しなかったようだ。

穴の底で深山幽谷の気分が味わえたというが、それは守一さんの過酷すぎる人生経験とひた向きな画業のはてに生まれた世界である。だれもがもてる世界ではないし、ましてやその味わいの深さについては推し量るべくもない。(熊谷守一画文集「ひとりたのしむ」求龍堂 1998年)

平凡を生きるものに世界を味わう経験があるのか。そう考えるうちに、幼いころの記憶がよみがえった。小学校にあがるまえで、半径数百メートルが世界のほとんどだった時代のことである。縁側のすみで木箱のような電話機をみつけたり、ほんものの熊の手でつくった巾着―爪も生えている―を土蔵の引き出しで発見したりという具合に、いたるところに冒険の種がある。だから世界は十分に広いし、集落の子どもたちと村の中を駆け回ることが、そのままルソーのいう「自己教育」だった。

子どもたちは、どこの藪のどの果実がいつ食べごろかを知っている。生家の屋敷では、季節ごとに、すもも、杏、スグリ、野いちご、グミ、無花果、ザクロ、豆柿、百目(百匁)柿がとれる。サツキの花のラッパ状の芯をすうと蜜の甘さが口に残るし、「ハムレット」では毒薬の材料になるオンコ(イチイ)だが、その種をつつんでいる赤い透明感のある仮種皮がねっとりと甘くて好物だった。

このあたりでは、収穫したあとの稲藁を、冬の終わりまで熟成させて田圃の堆肥にする。化学肥料にとってかわられる前のはなしだ。生家の場合は、道路を隔てた「向かい屋敷」に、人の背丈より高く積みあげて、ちょうどモンゴルのゲルのような形にする。

それを使って渋柿のちょっとした加工をはじめた。稲藁の壁に渋柿をさし入れ、自然に熟すのをまつのだ。寒さが募るころ、ゼリーのようなトロトロの実になったら食べごろである。ただ、柿を入れた場所をときどき忘れてしまうのは、百舌のはやにえにも似ている。

よく「子ども期の喪失」ということがいわれる。しかし、もしあなたの人生の黄金期はいつかときかれたら、野の恵みとともに季節の空気を全身で味わうことのできた、このほんの短い時期だ、と答えるだろう。

屋根のある風景―茅葺き屋根の家

冬枯れのころ:生家の庭

めったにみる機会はないが与謝蕪村の「夜色楼台図」が好きだ。暗い夜空、白い雪山のふもとに家々の屋根がつらなる風景である。作品のもつ静かな詩情にひかれるということもあるが、失われたものの記憶が呼び覚まされるからではないか、と思っている。

私の想念は、この画に触発されたという三好達治の「太郎を眠らせ 太郎の家に 雪ふりつむ。」の世界に遊び、そこから萱葺屋根の家ですごした少年時代にまで飛んでいく。

奥羽山脈と秋田平野の境界となる低い台地のうえに、戸数50戸ほどの集落がある。その中の一軒、典型的な葺屋根の農家が私の生家である。宮沢賢治の羅須地人協会の黒板に「下ノ畑ニオリマス」と書かれているのは有名だが、花巻のことは知らず、私の育ったところは農作業にでるときも戸締り不要で、日中はいつも開けっ放し、それでも留守中に泥棒がきたという話はついぞ聞かなかった。

屋敷はいまでも野生の雉の散歩コースで、つがいの雉が植え込みの間をけたたましい声をあげて行き来している。

外から生家の屋根をみると、大屋根の上にもう一つ空気抜きの小屋がのっている。その下にある土間は、黒く煤けた柱組みが露出するひんやりと湿り気を含んだ空間である。炉で燃やした薪の煙が天井を燻し、萱に虫がつくのを防いでいると聞いた。

中学校で国語を教わった小林卓巳先生が、写真集『男鹿・八郎潟-その歴史とさいはての詩情』(木耳社 1968年)のなかでこの屋根を「忍従に耐えた男らしさ、静かに春を待ち続ける不屈のエネルギーが息づいている」と表現した。

萱屋根の下に大家族の暮らしがあった。土間の一角の「板の間」が農繁期の食事場所になり、賑やかな餅つきが年末恒例の行事だった。ある年は、黒川番楽の一行が「奥の間」で勇壮に舞い、屋根の葺き替えには村中から人が集まった。

いまはどれも記憶のなかにだけある世界だ。高度経済成長の裏側で農業は衰退を続ける。私が村を離れた1970年代、暮らしは格段に便利になったが、このあたりにあった萱屋根もすべて消え、軽量でカラフルなトタン屋根の広がる風景になった。

晴れわたった冬の夜、あたりの空気が「シンッ」とするのは、厚く葺かれた萱が音を吸収してしまうためだろうか。母屋の北側にある作業場から空を見上げると、中空に月が浮かび、その下に、融け残った雪をのせた屋根がくろぐろと広がっている。それが私のこころの風景である。

中学校で「萩大名」を演じる

演劇的手法にかかわる本をいくつか書いたし、ふだんから芝居にふれる機会も多いが、かといって演劇部にいたことはない。ただ、何かしら人前で演じてきた記憶がある。

それは小学校時代にはじまる。学芸会が最大行事のひとつとあって、村中の老若男女が体育館につめかけ、それは賑やかなものだった。1年生のとき「おだんごころころ」のお地蔵さんに指名された。上手から下手に、ドッジボール大につくられただんごが坂をころがり落ちてくる。あたりをみまわした私が、壇をおりてそれを食べ、村人がくる前にそ知らぬ顔でもとのお地蔵さんのポーズにおさまる。その瞬間、客席がどっと湧き、どよめきが波動になって舞台に伝わってきた。これが演技の面白さに開眼した瞬間だったように思う。

中学校のとき狂言「萩大名」の全校上演があり、ここでは無教養な大名の役に指名された。無聊をなぐさめるべく庭園見物にいく大名が、庭の主人に感想をもとめられたときの用意に和歌を習う話だ。太郎冠者が教えたのは「七重八重 九重とこそ思ひしに 十重咲きいずる 萩の花かな」というもの。これが覚えられない。苦肉の策で、太郎冠者がサインを送り、それをたよりに一区切りごとに詠み進めるが、それすらうまくいかない。とうとう太郎冠者がさじを投げる。庭にひとり取り残された大名が、「萩の花かな」を「太郎冠者のむこうずね」と詠んで恥をかくところが見せ場になる。

この大名はしどころのある役柄で楽しかった。演出は国語のK先生。大名の衣装は家庭科の先生がわざわざ縫ってくれたのだが、太郎冠者のきる裃だけはわが家の土蔵からひっぱりだした古着で代用することになった。太郎冠者を演じるMくんは、高校ラグビーで全国大会に出場したつわもの。いかつい体型である。はたして彼の衣装として、布地の草臥れた江戸時代の裃がほんとうに役立ったのかどうか、そのあたりの記憶が定かではない。

こう見てくると、意図してそうしたのではないにしろ、観客のまえで歌ったり演じたりする機会が意外に多かったことに気づく。私が好きなのは創造的で心地よいアンサンブルが創りだされる瞬間だ。だから、そのプロセスに参加すること自体がまたなんとも楽しいのである。

と、ここまで書いて妻にみせたところ、「ただ目立ちたがりで、喝采を浴びたのが嬉しかっただけじゃないの。」と一蹴して去って行った。

小学校の体育館

集落対抗相撲のこともそうだが、小学校の体育館がしばしばハレの空間になった。式典はもちろん、学芸会、映画会などの文化・スポーツ行事がすべてここでおこなわれたからだ。その体育館についてちょっとした思い出がある。

一つは、入学してほどなく瞼を切った事件である。休み時間、友だちと前後して体育館に駆け込もうとしたとき、なかを走り回っていた上級生と鉢合わせしたのが原因である。「目から火がでる」というがまさにそれで、にぶい衝撃を感じると同時にもんどりうって転倒した。最初は何が起こったかわからなかったが、まもなく眉毛のあたりから血が滴りだした。上級生の学生服のボタンがちょうど目のあたりにあたったらしい。すぐに村の診療所に運ばれ、その場で数針縫ってもらった。手術のあと看護婦さんに「よく泣かなかったわねえ。」とほめられたのがちょっと自慢だった。気丈というよりは、あれよあれよという間に手術が終わってしまっていたというのが正しい。右の瞼にいまも薄く残る傷跡がそのときの勲章である。

もう一つは、夜の体育館のことだ。叔母がこの学校の教師だったり、親戚のK先生が12年間も校長だったりした関係で、就学前からよく遊びにいったが、さすがに学校に泊まったことはなかった。なんのきっかけか忘れたが、3年生のとき、担任のM先生の宿直に合わせて泊めてもらう話がまとまった。

M先生は、マンガ「ど根性ガエル」に登場する町田先生を少しだけ小柄にしたような方だ。ちゃんと鼻の下にちょび髭もたくわえている。怪談話が得意で、少しくぐもった話し方に何とも言えない味がある。話法は単純明快、山場にくると一瞬言葉をとめてみんなを集中させ、全員が息をのんだとみるや「ワッ!」という思いもかけない大声をあげて聞き手をぎょっとさせる。それと同時に、トレードマークの皮製スリッパで木の床を激しく踏み鳴らすのだ。通常の話し声と「ワッ!」の落差がすこぶる大きい。野球で言えば、投手のスローボールがゆるいほどストレートが速くみえる、というあれだ。だれもが先生の技法を熟知していたから「さあ、そろそろくるぞ。」と身構えるのだが、それでもやっぱり一瞬の沈黙のあとにくる「ワッ!」にぎょっとし、そして喜んだ。

夜、懐中電灯をもって見回りするM先生のあとをついていくと、古い木造校舎の表情が私の知っている昼間の校舎とまるで別物だった。階段のギシギシする音が踊り場に響き、廊下を歩くと大きな暗い筒がどこまでも伸びているような錯覚を覚えた。ひとあたり仕事を終えて体育館に戻り、M先生と二人で跳び箱を飛んだ。明かりのとどかない闇に囲まれているせいか体育館がいつもよりずっと大きな建物に思えた。

翌朝、先生のつくった味噌汁をいただいて家に帰った記憶があるから、おそらく土曜日か夏休みの夜のことだったかと思われる。

 

井伏鱒二―私の好きな作家

生家の空

高校3年生の担任だった国語の山岡雄平先生は、カラーシャツにネクタイ、低音の落ち着いた物腰の先生である。萩原朔太郎の詩「竹」の授業でいっぺんに朔太郎ファンになったから、孫の萩原朔美さん(多摩美術大学教授)と東放学園の「ドラマケ―ション」普及プロジェクトに関わるようになったときは嬉しかった。

そして山岡先生が授業で取り上げた井伏鱒二の小品「「槌ツア」と「九郎ツアン」は喧嘩して私は用語について煩悶すること」(初出1937年)が、私のものの見方を大きく変えた。題名こそ長いが、本文は筑摩書房版『井伏鱒二全集 第六巻』(1997年刊行)でわずか7ページの作品である。

井伏の郷里では、名前の呼び方が「××サン」にはじまり「××ツアン」「××ヤン」「××ツア」「××サ」まで五つに区別されていた。井伏はこれを用語の階級的区別と表現している。作品の主要人物は、村会議員「槌ツア」と村長の「九郎ツアン」である。「槌ツア」は人から「××サン」と呼ばれたいという希望をもっている。その「槌ツア」が、あるときの会合で「九郎ツアン」から「槌ツア」と呼ばれたことに激しく抗議する。「満座のなかで人を呼び捨てにしたのう。」と喰ってかかるのである。それに対して村長「九郎ツアン」が「槌ツアと言ったが悪いかのう。」と反問したことから大騒動がはじまる。家族をあげての確執、村中をまきこんでの批評合戦、ヒートアップした対立はたんなる呼び方の問題にとどまらず、「槌ツア」の家が大阪弁、「九郎ツアン」の家は東京弁をそれぞれ会話に導入して互いに対抗するにいたる。

農村社会の根強い階層性とそこに暮らす人々の心理の綾をみごとに描いた作品、「これは私の村のことだ。」と感じた。まとわりつくように濃密な人間関係、「世間の目」という名の圧迫感をどう克服するのか、それば農家の跡取りに生まれた私の切実なテーマだったのだ。当時の村では、農村特有の相互扶助システムがまだ機能していた。飛騨高山の結ほどの規模ではないが、萱葺屋根の葺き替えがあると集落中から50人もの人が集まってそれは賑やかなものだった。そうした関係に居心地良さを感じる自分がいる一方で、同じ自分が何世代にもわたる地縁・血縁に息苦しさも感じていた。

文体、構成の見事さはおくとして、なによりうたれたのは作品世界と作者本人との絶妙な距離感である。槌ツアにしても九郎ツアンにしても登場人物たちはそれぞれに必死だ。たしかに必死なのだが、彼らが必死に行動すればするほどその言動がユーモラスに見える世界でもある。こうした世界を外部の眼で批評することはたやすいだろうが、けっして厚みのある作品にはならない。井伏は、作品世界の真っ只中に幼少の「自分」と祖父を登場させ、状況を丸ごと相対化する視点で描いている。そこにこそ「私の世間」を克服する視座があるような気がした。

後年、福山市から福塩線に乗り万能倉駅で下車し、井伏の郷里の旧加茂村大字粟根(現・福山市加茂町)までタクシーを走らせたことがある。駅をでてしばらく走ると、徐々に谷筋が狭まっていき、周囲の山が間近かに見えるころに粟根集落についた。大きなお地蔵さんがすわる道端から斜めに急坂を登るとちょっとした高台で、その上に室町時代から続く井伏邸がある。散在する瓦屋根がひろがる風景は、私の郷里にくらべるとずっと歴史の厚みを感じさせるものだが、そうではあっても、井伏作品に登場する眼前の農村風景と遠くに俎板山を見晴るかす郷里の風景が、私にはどうしても二重写しになってみえてくる。

作品の末尾近くに井伏が「「オトツツア」「オカカ」「オトウヤン」「オカアヤン」「オトツツアン」「オカカン」という用語は、百年たっても消え去らないように思われた。」と書いている。私の郷里では、用語改革も生活改善運動のテーマだったはずだが、1960年代にいたってなお呼び名の階層性が明瞭だった。詳しく調べたことはないが、本当に用語が変わったのは戦後世代の夫婦が子どもに「パパ、ママ」を使わせるようになってからではないだろうか。当時、村の子どもはお互いを呼び捨てにしていた。なぜか私が屋号で「かぶらの淳チャ(ちゃん)」と呼ばれていたため「チャ」を名前の一部だと思いこんでいる子どももいて、ときどき丁寧な言い回しで「淳チャちゃん、いるべか(いますか)。」と訪ねてきたりした。

この作品との出会いを期に、透徹した作品世界に長く親しんできた。彼の交友関係をたどり青柳瑞穂の『ささやかな日本発掘』や『壺のある風景』なども読むようになった。生前の井伏に会ったことはない。告白すると、荻窪清水町の井伏邸の前までいってみたことはある。丸い穏やかな風貌から、酒の飲み方、旅の仕方にいたるまで、井伏鱒二は私にとって成熟したオトナのモデルであり、それはどこかで私の祖父のイメージにつながっている。