学生時代」カテゴリーアーカイブ

大学時代の友人

春日井・磐田 017

別々に会うことはあったが、こうして仲間3人が顔をそろえるのはかれこれ40年ぶりになる。われわれ3人は、ICUの第1男子寮で卒業まで一緒に過ごしたなかである。わたしから見ると、足立進一郎くん(写真左)は「堅実派」、米川佳伸くん(写真中央)は「夢追い派」の学生ということになる。両君ともそれぞれキャリアを全うし、いまは悠々自適である。

国際法を専攻した米川くんは、国連職員として35年間ニューヨークで働き、リタイアしてから拠点を東京に移した。護国寺で得度して真言宗の僧侶になったと思ったら、さらに大学院にまで入り直し、いまも仏教学を学んでいる。宗教活動を通じて、人と人とをつなぐ仕事をしたいのだ、という。

フランス文学を専攻した足立くんは、卒業と同時にふるさとの静岡に戻り、高校の語学教師になった。駿河と遠江の3つの高校で英語を教え、さらに教育委員会やら現場の管理職やらの仕事をしてリタイアした。いまは地域の外国人に日本語を教えたり、夫人と一緒に国内・国外を旅して回ったりしている。

春日井・磐田 022

2人とも相応に世間の風に当たってきたが、それでも生きる姿勢というのだろうか、本質的なスタンスが若い頃とつながっているように思う。だから、話しはじめるや、40年という時間がたちまち溶解してしまう。米川くんの近況にふれて、足立くんが思わず発した「ちっとも変わらないねえ」という言葉が、その間の事情を象徴している。

足立くんの案内で、明治初期に開校した旧見付学校を見学した。見付は東海道筋の宿場町だったところで、西に向かって掛川宿、袋井宿、見付宿(磐田)、浜松宿という並びである。校舎は、旧東海道を見下ろす位置にあり、このあたりのランドマークともいうべき洋風建築である。

磐田の”しまごん”は養鰻池のほとりの美味しい店だ

磐田の”しまごん”は養鰻池のほとりの美味しい店だ

伊豆の松崎にある旧岩科学校(重文)、伊賀上野にある旧小田小学校などいくつか同時代の小学校建築を見てきたが、1874年(明治8)開校の見付学校は、なかでもひと際古い建物のようである。基礎の石垣は遠州横須賀城のものだったとか。地域の人びとの教育に寄せる思いの深さがよくわかる。

こういうリユニオンは良い。今回は足立くんにすっかりお世話になったが、次回は、アジアの開発問題に長く取り組んできた米川くんに、東南アジアあたりをじかに案内してもらえたらなあ、などと思っている。

1980年の転機

人生の転機がどんな風にやってくるのか。それを考える手がかりが1980年にある。ICU高校に就職し、ひとつキャンパスで教育と研究にとりくむことになった年だ。ICU高校の教育、大学院生としての研究活動、「美術の会」の活動という、三つの活動に全力でとりくんでいたから、かるい高揚感のなかで1年間をすごした。ここでは、三つの柱としておこう。

第一の柱であるICU高校には、草創期らしいカオスがあった。生徒はもちろんのこと、教師たちも手探りの状態とあって、学びの場そのものがどことなく熱をおびている。わたしは、必修「政治経済」(6クラス)と「政経演習」(1クラス)をひとりで担当する。ICU高校の場合、3年生のホームルーム単位の授業は、キリスト教概論と政治経済だけである。ひとりで3年生全員をうけもつ責任こそあるが、横並び圧力がないぶん自由に実践できた。

いまの常識で考えると「受験生相手にそんな無茶な」という実践もたしかにある。ただ、要求レベルをあげてもちゃんとこたえてくれるから、教師としてこんなに楽しいことはないし、工夫のしがいもある。そんなこんなで、帰国生たちの反応にみちびかれながら、授業実践に深入りすることになる。

必修「政経」では、生徒が2か月半かけてとりくむ“政経レポート”の実践をはじめた。この取り組みは、ほどなく240名が、総計1万ページのレポートを提出するような、1学期最大規模のプロジェクトに成長していく。

「政経演習」では、時事問題の調査・発表・討論をセットにしたグループ学習の指導をはじめた。生徒たち自身がテーマを選んで発表し、クラス全員で討論する。この学習もどんどん熱気をおび、授業時間の枠をはみだした活動が、学校祭での研究発表に展開していく。2学期にある文化祭の展示企画「今考える日本の食糧」(1984年)や模擬裁判形式のプレゼンテーション「エデュケーション・ナウ」(1987年)である。演劇的発表は、毎年テーマと形式をかえて15年間つづくことになる。

まだ名づけていなかったが、獲得型授業を構成する3つの要素(リサーチワーク、プレゼンテーション、ディスカッション/ディベート)に挑戦しはじめたのが1980年である。ちなみに、1980年度に演習クラスでとりあげたのは、チトーと非同盟、韓国の政情(光州事件)、衆参ダブル選挙、ポーランドの「連帯」、金融政策と日銀、モスクワ・オリンピック、イラン・イラク戦争など18テーマ。時代のうごきにビビットに反応しているのがわかる。

第二の柱である研究活動だが、春学期に学内で公開講座を開講し、秋学期からは読書会に熱を入れた。まず、4月から大学院セミナーで「J.J.ルソー思想入門」を開講する。大学院セミナーというのは、院生が学部生のためにひらく自主ゼミのこと。セミナー開設の音頭をとったのは第1男子寮の先輩でアイディア・マンの山口和孝さん(埼玉大学教授)である。

会場となる教育研究棟の会議室は、院生室のはいっている建物で、高校の校舎とは目と鼻の先にある。講義は9回、1977年のルソー行脚でとったスライドの上映からはじめて、孤独について、ルソーの自由観、自然観、道徳観、芸術観、社会観、コルシカ憲法草案、女性観を、一回一テーマで語る。応募した聴講生は数人だが、秋月弘子さん(亜細亜大学教授)、梅津裕美さん(本多記念教会牧師)など優秀な女性たちばかり、手ごたえ十分である。

このセミナーが、研究の歩みをひとまとめする機会になるが、なぜかルソーの教育観だけテーマに入っていない。ルソーの教育観は、当時のわたしにとって、できれば避けてとおりたい隘路だった。

もっとも、いまのわたしの実践研究は、“市民形成のための教育”というシェーマと不可分であり、ルソーの教育観が下敷きにもなっている。その意味で、1980年までのルソー研究がかたちをかえて展開したものだ、と見ることもできる。

秋学期から、中村孝文さん(武蔵野大学教授)とつくった「政治思想研究会」の読書会に集中して取り組んだ。中村さんに問い合わせたところ、クリック、バーリン、マンハイム、デカルトなどを、17回にわたって読んだということらしい。「らしい」というのは、二人の記憶をつないでも、どれをどんな順番で読んだのか、正確に再現できないからである。こればかりは資料がでてくるのを待つしかない。

第三の柱である日本美術の研究も、佳境にさしかかっていた。「美術の会」の定例会では、雪舟の水墨画などをテーマにしていたが、1980年の夏から、地方仏の研究に大きくシフトする。

きっかけは、小浜・羽賀寺の十一面観音、高月・渡岸寺の十一面観音など、若狭・近江の仏像めぐりをしたことである。とりわけ渡岸寺十一面観音の彫刻としての完成度の高さに衝撃をうけた。それまで、どちらかといえば奈良にある白鳳・天平仏や鎌倉仏を中心にみていたのだが、等閑視していた平安仏への関心が一気にたかまる。

これが1990年代までつづく地方仏行脚のはじまりである。訪問対象は、東北から九州にまでひろがる平安前期の木彫仏。全国にちらばる地方仏と奈良・京都のいわゆる中央仏を交互に訪ねるうち、仏像様式の伝播を手がかりとして「日本文化」の形成過程をさぐるというテーマに、わたしの関心が凝集していくことになる。

こうしてみると、1980年には、その後の20年間、私の研究の核心になる要素がほとんどでそろっている。若さというのは恐ろしい。力まかせに、どんどん新しい領域に踏みだしていけるからだ。それはICU入学からちょうど10年目、わたしが28歳になった年のことである。

パリの初秋-森有正の通勤路

森有正の「パリの冬とその街」(『木々は光を浴びて』所収)は、「私はパリの町を歩くのが好きだ」という文章ではじまる。森さんが、休日に、自宅のあるセーヌ左岸のグラン・ドクレ街からサンジェルマン大通りにでて、リール街にある勤務先の東洋語学校まで、25分ほどの道のりを歩く。そのおりの様子が、ちょっとした小路のたたずまいも含めてきめ細やかに報告されている。「毎日毎日同じところを往復する動物か鳥のように同じ散歩を十年も繰り返していても少しも飽きるということがない」のだという。

森さんが通ったみち

この文章がずっと気になっていたものだから、今日は地図を片手に、同じ道をたどってみた。なにしろ40年前の沿道のスケッチである。当然のこと、森さんの文章にでてくる街並みはすっかり変わってしまっている。それでも通勤路の距離感を味わい、往時の様子を想像することができた。

いま滞在しているホテルは、オペラ座のほど近くにある。ホテルが面するオスマン通りは、森さんの往復したサンジェルマン大通りと同じで、プラタナスの並木がどこまでもつづくゆったり広い通りである。

8月14日に猛暑のパリについてからずっと、ホテルの周辺には、サンダルでぺたぺた歩きの観光客があふれていた。しかし、8月20日から3日ほどストラスブールで過ごしてパリにもどると、あたりの空気がすっかり変っている。

プラタナスの黄葉が一気にすすみ、朝夕の風がひんやりしてきた。もっと驚いたのは、ネクタイに革靴のビジネスマンやハイヒールの女性が、昼時のカフェを占拠していたことである。この人たちは、歩くスピードも速ければ、姿勢も颯爽としている。なにか目的をもってあるいている、という雰囲気なのだ。まるでどこかの違う町に戻ってきたような具合である。

そんなことを考えながら、オデオン広場のカフェで雨をさけ、ぼんやり外をながめていたら、森さんが例のうつむき加減の歩き方で、サンジェルマン通りの落ち葉を踏んで足早に歩いてくるような気がした。

ロダン美術館の空

ICU高校に就職

イチローのヤンキース移籍には驚いた。朝起きたら、シアトルでの11年半を振り返る様子がライブ映像で流れているではないか。いつも冷静なイチローの涙。胸中を去来する思いの深さは推し量るべくもないが、おそらく「これまで」と「これから」についての感懐がいちどきに溢れでたのだろう。

イチローは、セーフコフィールドのロッカールームの手前にある会見場に座っている。同じ会見場で記念写真を撮ったことがある。2003年の夏に「中高生のためのアメリカ理解入門」(明石書店)の取材でいったのだ。彼の目線からみえる記者席の様子を思い出しながら、いまイチローが味わっている思いは、転職経験者の多くが味わう感懐とどこか似ている、と考えた。

私の最初の転職は、1980年に錦城高校からICU高校に移ったときである。道をつけてくれたのが、前年からICU高校で倫理を担当していた岡田典夫さん(茨城キリスト教大学学長)だ。岡田さんは、武田清子門下の大先輩。奈良の日吉館で働いていたほどの美術ファンとあって、感性にも相通ずるものがある。

ICU高校は、創立3年目に政経のスタッフが必要になる。それで私を推薦してくれたのだ。着任まで紆余曲折があった。「錦城高校に満足している」としり込みする私を「仕事と研究を同じキャンパスでできるのが何よりだ」といって説得する。その一方、研究棟にある院生室まで桑ヶ谷森男教頭(ICU高校校長)、藤沢皖教頭(千里国際学園校長)を案内して私を引き合わせる。岡田さんは、職場と私の両方を説得したことになる。

院生室のある教育研究棟(左)

岡田典夫さんの粘り強い交渉がなかったら、ICU高校に就職することも、教育実践研究に専門を移すこともないだろうから、人生もいまとはずっと違ったものになったはずである。4年間、研究室で机を並べてみて、授業はもちろん、職場の問題、寮監の仕事、なにごとにも誠実に向きあう姿勢にあらためて感心した。

1970年のICUへの入学を人生の第1のターニング・ポイントとすれば、1980年のICU高校への就職は第2の転機である。しかし、うかつなことに、自分ではその意味がまだわからなかった。

着任してしばらくたったころ、副校長の原真さん(東京学芸大学教授)に「帰国生の問題を理解するには時間がかかるから、3年はこの学校にいてもらいたい」といわれたところをみると、そんなに長くはいないだろう、と思われていたふしがある。まさか20年を超えてICU高校に勤務することになるなど、自分でも考えられないことだった。

東京大学の研究生

学部をでた1975年に、武田清子先生の紹介で東大教養学科(駒場)の研究生にしてもらった。この年にうけた駒場と本郷の授業が、ICUでの経験とは別の意味で異文化体験だった。

研究指導の小林善彦教授(フランス文学)は、『ルソーとその時代―文学的思想史の試み』(1973年 大修館書店)の著者にして、白水社版「ルソー全集」の監訳者である。小林さんの講読ゼミは、私が経験した唯一の文学系ゼミだ。10人にみたない学生を相手に「告白」の原文を少しずつ読んで解説し、リズミカルな文体の美しさまで味わう。

ゼミの醍醐味は、小林さんが「孤独な散歩者の夢想」の第5の散歩について書いた以下の文章に照応している。「美しい自然描写、すなわち湖とそれをとりまく自然のなかに没入し、寄せては返す水面の波に耳を傾け、湖水の面に世のさまの移り行く姿を見ては、恍惚のうちに幸福感にひたるルソーの文章は、その筆舌につくし難い韻律の響きとともに、彼の全著作の中でもまさに圧巻をなしている」。(同前書290頁)この文章が象徴するのは、思想が生まれてくる源泉を、思想家個人の肌合いや気質まで分け入って解き明かす小林さんの学風である。

駒場のゼミと並行して、本郷の福田歓一教授の「政治学史」を聴講した。いわずと知れた『近代政治原理成立史序説』(岩波書店)の著者である。秋田高校の先輩・田口富久治教授(明治大学→名古屋大学)の紹介で法学部の研究室をたずねた。一通り挨拶を終えると、佐々木毅助教授(東大総長)の研究室に回るように、といわれた。やはり秋田高校の先輩で『マキャベリの政治思想』を著した気鋭の思想史家である。佐々木さんは最先端の研究にふれる必要を「単行本になったものは研究のまとめだから、研究論文レベルのものを読んだほうがいい」といった。

法学部の絨毯じきの研究室もそうだが、大教室の講義も重厚でものものしい。受講生の数がけた違いに多いだけでなく、ICUのカジュアルな雰囲気になれた目でみると、まるで学術講演会の趣である。南原繁氏の研究のリアリティを「切れば血のでるような思索」と表現したのが耳に残った。20年ほどあと、本郷の教育学部で非常勤講師をするようになって、やはり法学部の大教室のものものしさを特別なものと感じた。

福田先生は遠い存在だったが、ひょんなことで少し印象が変わった。ある日、日本民藝館から駒場東大前駅に向かっていると、散歩中の福田さんと一緒になった。緊張気味に並んで歩く私に、長身痩躯の先生が、あの独特の高いトーンで、オリジナルな研究のための準備にふれて「ルソーの作品では「エミール」が一番大切です」といった。広い視野で研究することをすすめてくれたのだ。

研究生として、性格の異なる2つの授業を並行して受けられたのは幸運だった。同じルソーの論理展開を説明するにしても、こんなに扱われる角度が違うのか、と驚かされると同時に、思想家の全体像を把握することの大切さ、そして思想史研究がなみなみならぬ力仕事だということをあらためて知った。

翌年、ICUに戻ることにした。ICUの大学院行政学研究科(GSPA)に博士課程ができることになったのだ。大学院進学と同時に、錦城高校で倫理・政経を教える多忙な生活が始まったから、私にとって研究生の1年間は、人生の休止符のような年だった。

卒業論文

卒業論文で、自由と平等の原理的関係について考察したいと思った。素材は「学問芸術論」から「社会契約論」にいたるルソーの諸作品である。当時、ICUに西洋政治思想史の専任スタッフがおらず、武田清子先生に指導を引き受けていただいた。

武田先生は指導の厳しさで知られている。平田オリザ氏が「武田先生の指導は本当に厳格で、適当な発表をすると厳しい叱責を受ける。発表後に注意を受け、泣き出してしまった大学院生もいた」(『地図を創る旅』白水社)と書いている。

ただ、叱られた記憶はない。2週間に一回、本館の研究室を訪ね、書き上げた分を見ていただく。論理構成、文章の正確さ、引用の仕方など具体的に指摘されたが、論点が深まらないときは「面白くないわね」とはっきり言われるから、これが良かった。

しかし、いかんせん研究対象が大きすぎる。高校時代から親しんできたルソーとはいえ、論文の対象にするとなれば話は別である。作品解釈の多様性はもちろん、研究の蓄積も膨大である。70年代に限っても、みすず書房からスタロバンスキー『透明と障害』、カッシラー『ジャン・ジャック・ルソー問題』、バーリン『自由論』などの新訳がつぎつぎでたし、岩波書店からは京大人文研の『ルソー論集』、杉原泰雄『国民主権の研究』、福田歓一『近代政治原理成立史序説』などの論考が陸続と出版されている。もちろん、啓蒙主義思想の系譜、市民革命史、日本での思想受容、現代政治理論などにも目配りが必要になる。

「これでは無理だ」とわかったから、卒業を延期することにした。一事が万事、私はこうした無茶な選択をするようにできているらしい。結局、ルソーの自由・平等観の特質を「平等主義的自由」と定義する論文「J.J.ルソーにおける平等思想の展開」を2年がかりで書き上げる。A4判192ページ(手書き・2分冊)ほどになった。

時間はかかったものの、思想史研究の面白さが実感できただけでなく、民主主義社会を支える市民像の解明という研究テーマも見えてきた。市民的資質、政治制度と人間形成の関係を具体的文脈で検討しようというのだ。そこで遅まきながら、腰を据えて研究者の道を目指すことにした。

ふり返ってみると、私のものの見方・考え方の基本がこの時期までに形成された。のちに政治思想史研究からより実践的な性格をもつ教育研究へとシフトするのだが、テーマそのものはこの卒業論文とつながっている。

 

学生証盗難事件

学部の2年生で、グリークラブの指揮者の仕事と学生自治会にあたるクラブ代表者会議の三役の仕事を同時にやった。どちらも身の丈にあまる仕事だから、それは過酷な日々だった。3年生になって、少し落ち着いて勉強できるようになり、夕方のプール通いも習慣になった。

1キロを1時間かけてゆっくり泳ぐ。壁面をけって水中に体をなげだすときの浮遊感がなんとも心地いい。雨の日でも泳ぎにいくから、監視員一人利用者ひとりのときもある。テニスに凝りだすと、雨の日でもテニスをして周囲を唖然とさせるのが私の行動パターンだが、こうした性癖は母親ゆずりである。

ベンジャミン・デューク先生(教育学科教授)は、キャンパス内の自宅から自転車でプールにやってくる。学科が違うので授業をとったことはないのだが、とても気さくな人柄だから、ロッカールームやプールサイドで親しくおしゃべりするようになり、その関係がながく続いた。私はメドレーで気分を変化させるが、デュークさんはクロールだけで1キロ泳ぐ。距離にもペースにもまったく変化がない。その徹し方にはなにか求道者的雰囲気さえただよう。おそらくそれが日常生活の律し方に通じるスタイルなのだろう。

4年生のある日、受付に預けた学生証(IDカード)がなくなった。原因不明のまま再発行ですませたが、忘れたころ事情が判明した。ローン会社から、数万円の督促がきたのだ。受話器をとると、若い女性がやさしそうな声で、吉祥寺駅前にオレンジ色の大きな広告塔をだしている会社の名前をあげ「渡部様のお借りになったお金が戻っておりません」と続けた。「あ、あの件だ」とピンときた。聞けば、私の父親が荏原製作所勤務になっているという。

そこまで確認してから、それは身に覚えのない借金であること、学生証の紛失届けをすでに大学にだしていること、そちらで学生証のコピーをとってあれば本人確認ができるはずだ、とたたみかけるようにいって電話をきった。

納得してくれたと思ったのだが、それではすまない。しばらくすると、そのローン会社から封書がきた。「金を借りておいて知らないとは言わせない。すぐでてこい!」とある。ご丁寧に「!」までついている。電話の応対と封書の文面のなんと落差の大きいことか。

大学の保安部長とふたりで三鷹警察署の窓口に相談にいくと、取調室のような小さな部屋に案内された。ほどなくあらわれた中年の担当者が「ああ、あの会社なら○○組ですよ」とよく知られた暴力団の名前をあげる。驚いたのは、その場で組長に電話を入れ「いまICUの学生さんが相談にみえているんだけど」と事情を説明してくれたことだ。

帰り際、捜査機関はあくまで警察だから、騙されたローン会社が警察に被害届をだすのが筋である、たとえ呼び出しがあってもローン会社には決して一人でいかないように、と注意をうけた。

“孤島のキャンパス”といわれたくらいだから、よもやICUまで「大学荒らし」がくるなどだれも想定していなかったが、この事件をきっかけに、プールの利用システムが変わる。学生証とは別に、体育館の利用証が発行されることになったのだ。

多文化社会としての学生寮

異文化体験として大きかったのは、ICUでの寮生活である。大学紛争の余波で閉鎖されていた学生寮が、1年生の秋に再開され、私は第1男子寮に入ることになった。3つの男子寮にはそれぞれカラーがある。第1男子寮は“アカデミック寮”と呼ばれるだけあって、たしかに勉強家が多かった。

食堂にむかう―右手が教会

木造2階建ての第1男子寮は、教会堂の真南にたっている。寮生は30人ほど。4人部屋が基本である。受付、公共スペースの掃除などは当番制で、定期的に寮会を開いて運営方針を話し合う。ICUの寮は一種の自治寮といってよい。

教会の南面は当時のまま

1年生から2年生にかけて同室だったのは、のちにメキシコの壁画芸術を研究することになる加藤薫さん(神奈川大学教授)、インドの帰国生でパイロットになった岡田修一さん(日本航空機長)、ヒロ・ヤマガタやリャドの紹介者として知られる鈴木洋樹さん(ガレリアプロバ社長)たちである。それまで私の周囲にはいないタイプ、ともて自由な発想をする先輩たちだ。もちろん先輩風を吹かす人などいないから、部屋替えのつど価値観の違う人とルームメートになるのが楽しかった。

平屋建ての食堂は大きな複合施設に変貌

カリフォルニア大学サンタ・バーバラ校の留学生フレデリック・ショットさん(在米)は、身長が2メートル近くある気立ての優しい美男子で、無類のマンガ好きである。肩までとどく金髪に長めのもみあげ、そしてジーンズの上下とくれば、これはもうフラワー・チルドレンを絵に描いたようなファッションだ。

寮から目と鼻の先にある大学食堂で夕食をとったあと、お母さんの手作りクッキーが入ったブリキ缶を自室の本棚から下ろし、大切に一枚たべる、それがフレッドの日課である。

フレッドに日本人寮生のガールフレンドができたとき、彼女の誕生日に歌をプレゼントするという素敵なプランが、彼のあたまにひらめいた。恋人の窓辺でセレナーデを奏でるあのゆかしい風習にならおうというのだ。しかし、いかんせん一人でいく勇気がないので、私にも一緒にいってくれという。

クリスマスのころ、手に手にろうそくをもった一団が、「諸人こぞりて」などの曲を歌ってキャンパスをまわる。このキャロリングを、女子寮では、部屋の明かりをおとした寮生たちがカーテンのむこうで静かにまちうけるのが習慣だった。

われわれ二人はまず、芝生と林の境界にあるサツキの植え込みに半分だけ身を隠すことにした。こう書くと、ほとんど「シラノ」のような設定に思われるかもしれないが、歌うのはフレッドで、私はあくまで立会人である。フレッドが窓をみあげて控えめに歌いはじめると、2階の窓辺にガールフレンドの姿がかすかにみえた。大成功。こうしてぶじに使命をはたし、凸凹コンビは意気揚々と第1男子寮に引き上げた。

その後、マンガ好きの道をきわめたフレッドは、コミックを海外に紹介する評論家として活躍し、手塚治虫文化賞(朝日新聞社)を受賞したり日本政府から勲章をもらったりしている。

実現こそしなかったが、もともとICUは全寮主義を標榜していた。1952年に文部省に提出した「大学設置認可申請書」の「ICUの目的と使命」には、「八 全寮主義を原則とし、教授と学生との民主的共同生活により、人格の陶冶及び学問と生活との一致をはかる。」とある。(武田清子『未来をきり拓く大学―国際基督教大学五十年の理念と軌跡―』2000年 国際基督教大学出版局 84頁参照)

寮の建物もすっかり変わっている

私の経験でいえば、学生寮はICUの多文化性を象徴する空間である。それぞれの学生が互いの生き方に干渉せず、適度な距離感を保って生活している。それが居心地よく感じられ、結局4年生まで学生寮で暮らすことになった。

ICUを卒業した後、ロンドン大学、エディンバラ大学、カナダ・アルバータ大学などの学生寮に泊まる機会があったが、いつも寮生だったころの記憶がよみがえってくるのだった。

ICUへの進学

大学本館

高校3年生のときの悩みは、大学の専攻を文学と政治学のどちらにするか、ということだった。まだ何ものでもない自分が何かになるために、まずは社会の構造そのものを知る必要があるというはなはだ抽象的な結論をえて、私は政治学を選ぶことにした。

本館前から教会方向をみる

1学期のある日、「蛍雪時代」をかこんで雑談した。教室にいた5,6人は私も含めてみな国立大学志望だったが、ページをパラパラめくるうち、なぜか国際基督教大学(ICU)という名に目がとまった。教養学部だけの単科大学、試験科目名が通常の「数学」や「歴史」でなく、自然科学、社会科学など大きなくくりになっている。私立大学には珍しく2次試験まであって、面接もやるらしい。留学生の比率が高い国際的な大学というのも気になった。

泰山荘の庭

そんなことを話していると、たまたま顔をだした担任の山岡雄平先生(国語)が、ドアのあたりから「ICUはいい大学だよ」と一言いった。前年度、いっしょに合唱をしていた菊池壮蔵さん(福島大学教授)など、少なくとも3人が秋田高校からICUに進学しているから、なにか情報があったのかもしれない。

泰山荘の門-学生時代の散歩コースになった

この年の夏、久里浜にいた優子叔母のところを拠点にして都内の大学を見て歩いた。都心の大学は、新聞社の写真部員だった弘学叔父もつきあってくれたが、三鷹にあるICUへは1人でいった。

正門から教会堂まで、八百メートルほどの桜並木(マクリーン通り)がまっすぐ続く。教会前のロータリーのほどよく手入れされた花壇を右折して本館にいくと、建物の前に広々とした芝生が広がっている。一斉休暇中のせいか、芝生で語らう外国人学生のほかに人影がみあたらない。

静かなキャンパスを時計と反対廻りに一周してみた。木々のあいだにゴルフコース、洋風の一戸建て住宅、学生寮、和風庭園などが点在するばかりで、大きな建物がほとんどない。

東京にある大学のイメージとはかけ離れた、まるで別世界のようなキャンパスだった。境界は判然としないものの、四方を雑木林に囲まれた広大な校地であることは分かる。林間の道をぬけグランド沿いの道にでると、そこだけぽっかり日盛りの大きな青空が広がっていた。

グラウンド越しに体育館をみる

大学紛争の真っ最中だとはつゆ知らなかったが、キャンパスを出るときには「ここを受験しよう」と心に決めていた。

近所で「かぶらの跡取りが牧師の学校に入ったそうだ」と噂されるほど、地方でICUの存在が知られていない時代のことである。

その後の33年間、このキャンパスが私の学びと生活の場になった。

森有正と出発の意識

大学1年生の秋、ICU教会の祭壇にオーストリア・リーガー社製の大きなパイプオルガンが入ることになった。グリークラブの一員として献納式の演奏に加わったそのオルガンで、フランス在住の哲学者・森有正氏が練習をはじめる。噂では、毎朝5時半頃に起床してバッハを弾いているという。

朝食時間がわれわれ寮生とかさなるから、辻邦生さんが「森先生はうつむき加減にあるく」と書いているまさにそのとおりの姿勢で、足早に食堂に入ってくる。大柄な体躯で精力的に食事をする森さんの姿と、リリカルなタイトルの本の著者としてのイメージのギャップが面白かった。

ロータリーから教会をみる

学生寮のおしゃべりの会にきてくれたとき、「おやっ」と思ったことがある。靴下のかかとに穴があいていたからだ。ワイシャツの袖口もほつれている。いくら40年前とはいっても、さすがに靴下の穴は珍しい。その無頓着さを好ましく感じた。

木下順二さんが、弔文「森有正よ」(『展望』1976年12月号)で、若き日の部屋の乱雑さにふれている。本郷YMCAの自室で、たった一人しかいない指導学生の卒論を紛失してしまい、主任教授が大学に始末書をだしたというのだ。

まず影響をうけたのは出発の意識に関する文章だ。お父さんの納骨の一週間後、13歳の有正少年が、一人でもういちど多磨墓地にやってきて、こう決意したという。「僕は墓の土をみながら、僕もいつかかならずここに入るのだということを感じた。そしてその日まで、ここに入るために決定的にここにかえって来る日まで、ここから歩いていこうと思った。」(「バビロンの流れのほとりにて」筑摩書房)。それは、「その日からもう三十年、僕は歩いてきた。」(5頁)という文章に続く。森さんが、はるか遠くまで歩いていって戻ってくるプロセスそのものを人生だととらえたことに共感したのである。

森さんの文章が、ヨーロッパ文明にむきあう手がかりだった時期がある。にもかかわらず、読者としては実に勝手な読み方をしていた。「旅の空の下で」に大伝馬船がセーヌ川をさかのぼる話がある。流れに逆らってゆっくり上っているようにみえる船が、気がつくとずっと上流まで進んでいるという文章だ。森さんは船を見ている自分の側の「変貌」について語っている。だが、それを読んでいる私はといえば、水の流れに抗して進む伝馬船に自己の存在を仮託して、意志の持続というものを考えている。

船のスピードが遅いと感じるのは通常の時間感覚だが、内的な変貌はこの時間感覚よりもさらにゆっくり、しかも絶え間なく続いている。だから、一人の人間のなかの時間感覚のズレが、驚くほど遠くまでいったと感じさせるのだと解釈した。私がときどき感じる「ああ、こんなに遠くまできた。」という実感は、そうした変化の自覚である。この自覚は、出発の意識があってはじめて確かなものになる。それが変貌というものの姿ではないか、と漠然と感じていたのだ。

伝馬船の例にしてもノートルダム寺院のことにしても、森さんの文章には思索の手がかりがいくつもでてくる。それを表現する仕方も作品によってどんどん変化する。同じ経験についての叙述が、音楽のように転調するから、繰り返し読んでも対象を掴めたという実感がない。逆に読者の多様な解釈を誘発することが、古典の域に入る作品の条件のように思えたりもする。

私は森有正が形成する文化圏の脇を通っただけだから、ちっとも思想の本質を理解できたと思わない。しかし、森さんの思考が自分の感覚のなかに定着していることを感じる瞬間がこれまでいくらもあった。

森さんが亡くなった翌年、ルソーの旧跡をたずねてシャンベリーからレ・シャルメットに向かう田舎道をとぼとぼ歩いているときに「とうとうここまできてしまった。」と感じたこともそうだし、ブルゴーニュの山の上にある森閑とした広場で、ロマネスク教会のファサードを見上げながら、やはり同じように感じたとき、私は自分のなかにある森さんの影響を感じないわけにはいかなかった。