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壕(ガマ)と想像力―1985年の沖縄セミナー

夏がくると決まって思い出すのは、沖縄本島南部の糸数壕(アブチラガマ)に入ったときのことだ。1985年に、「沖縄戦と基地問題を考える 沖縄セミナー」(沖縄大学、高文研主催)で壕の中を案内してもらった。

糸数壕は、軍人・民間人が最大千人身を潜めた自然の洞窟である。総延長は200mをこす。なかでも地下建物があった大空洞のあたりは体育館ほどの大きさのドームになっていて、人声が遠く反響して戻ってくる。

糸数壕の南側の入り口をくぐり、足元や頭上を気にしながら、死体置き場、水汲み場、炊事場とたどる。内部は真っ暗だから、懐中電灯の明かりがたよりだ。沖縄戦の末期、壕の中は死体と排泄物のすさまじい臭いに包まれていたという。北の出口付近には、米軍の火炎放射器の炎をあびて変形したガラス瓶が散らばっている。

大空洞まで戻って、一斉に電灯を消してみた。当時の壕の暗さを実体験するのだという。スイッチを切ると、近くに立つ人のかすかな気配だけを残して全身がスーッと深い闇につつまれる。湿り気をふくんだ重い空気が肌にまとわりつき、やがて息苦しい感覚が襲ってくる。ほんの1、2分の短い時間だったはずだが、その暗闇体験が亡くなった人々への鎮魂の時間ともなり瞑想の時間ともなった。

90年代になって、沖縄修学旅行が飛躍的に増加し、壕の見学を取り入れるところも増えたと聞く。若者の体験として意味があるだけでなく、わたしは日本政治の枢要な地位にある人こそここを訪ね、暗闇の中で、戦争の実相というものに静かに想像力をはたらかせる時間を持ってほしいと思う。

「沖縄セミナー」は3日間のプログラムだった。初日が新崎盛暉氏(沖縄大学学長)と高良倉吉氏(現副知事)の基調講演、2日目が南部戦跡調査、3日目が米軍基地調査となっている。手元にある参加者リスト140名の2番目に名前があるところから、勇んで参加申込をしたことがわかる。

2日目に1号車のガイドをしてくれたのが沖縄県史料編集所の大城将保さん(沖縄県立博物館館長)である。離島をふくめて沖縄戦の聞き取り調査をしている。黒縁メガネの大城さんは40歳代半ば、サマージャケットにループタイ、麦わら帽子といういでたちで、テンポよく話す。そこはかとないユーモアが漂う語り口である。『沖縄戦―民衆の眼でとらえる「戦争」』(高文研)を上梓したばかりとあって、徹底して住民側の視点から最新の研究成果を話してくれる。心の重くなる戦跡めぐりでありながら、どこか救われる感じがあったのは、大城さんの語り口に負うところが大きい。

本島南部は、直径7㎞の地域に軍人3万人、住民13万人が袋のねずみとなった軍民混在の戦場である。戦後、この一帯でおびただしい遺骨が集められた。魂魄の塔(3万5000柱)などに、あわせて12万~13万人が祀られたという。

万華の塔(1万9800柱)の近くにある千人壕にも入った。こちらは糸数壕と違って大空間というものがない。その代わり、屈曲して狭い空洞がどこまでも続いているから、まるで腸の中をめぐるような圧迫感があって、とちゅうで足が前に進まなくなった。

以後の沖縄通いのきっかけになったのが「沖縄セミナー」ということになる。サトウキビ畑のなかを走る白い道、糸数壕の底に沈む深い闇、その強いコントラストが私の沖縄イメージの基調になっている。

2007年だったか、「キジムナー・フェスタ」(国際児童・青少年演劇フェスティバル おきなわ)の教育プログラムの打ち合わせで下山久さん(プロデューサー)の首里にあるオフィスを訪ねたとき、大城将保さんと22年ぶりに再会できた。下山さんの粋な計らいである。

大城さんの軽快な語り口は健在だった。嶋津与志のペンネームをもつ大城さんは、1フィート運動の長編記録映画「沖縄戦・未来への証言」(86年)、アニメ映画「かんからさんしん」(89年)、映画「GAMA 月桃の花」(96年)の脚本家で、劇作もやれば小説も書く。

ということは、歴史研究者でもあり文学者でもあるということだ。なるほど、現実の世界とフィクションの世界を往還する視点の豊かさと、持ち前のテンポの良い語り口とがあいまって、あの印象深いツアーになったのかと納得した。

その後もなんどか戦跡めぐりをしたが、やはり大城さんのガイド・ツアーの印象がいまも際立って残っている。

沖縄大学と土田武信先生

『国際感覚ってなんだろう』がときどき入試問題に使われる。ことしも岡山県の公立高校の「国語」で使われたようだ。2003年に沖縄大学の推薦入試の課題図書になったときは、意想外の展開になった。たまたま試験監督をしていた土田武信先生(民法学)が、この文章を読んで大学での講演を依頼してきたのだ。ICU高校の肩書でした最後の講演である。

沖縄大学地域研究所・大学教育研究班が主催する講演会ということだが、FD活動の一環という位置づけらしい。大学教員が高校教師の授業研究に学ぶという姿勢に、沖縄大学の柔軟性がよく表れている。土田さんの提案したタイトルは、「いま、改めて問う 知識注入型授業から獲得型授業へ―「学力低下」問題と「総合学習」の課題―」。かなり力が入っている。ちょうど『世界』に「総合学習に展望はあるか」という論文を書いたあとだったから、それも反映したタイトルになっている。

どうせなら市民にも公開しようという話になり、地元ケーブルテレビのクルーまで陣取って、ちょっと大がかりな催しになった。定年間際の宇井純先生が聴きにきて、賛同のコメントをしてくれたり、新崎盛暉先生(元学長)のご子息と私の教え子が、大学で同じ自転車ツーリング・クラブに入っているのを知ったりと、いろんな出会いがあった。

土田さんは、淡々とした語り口の人だが、すこぶるつきの行動の人でもある。なにしろ1月に私の存在を知って、もう2月には講演会が実現していたのだ。ジュゴンネットワーク沖縄の事務局長をしていて、普天間飛行場の辺野古移転の反対運動に熱心にかかわっている。それで、講演会のあと、住民が座り込みをするテントにも案内してくれた。

辺野古の海を見渡す高台の公園から、開けけた平地にポツンとたつテントがみえる。片足をちょっと引きずるようにして歩く土田さんのあとをついていくと、ニュース映像で何度も目にした場所についた。なかで数人の男女が談笑している。やあやあ、という感じであいさつをすませると、早速メンバーを紹介してくれた。

ちょうど基地の測量問題が緊迫していた時期のことである。海に潜って測量を阻止しようとする側も、政府側にたってそれを排除しようとするダイバーもどちらも地元の住民なのだという。反対派が海底のポイントにしがみついていると、もみあいをするダイバーのなかに、水中で両手を合わせて、すまないと合図を送ってくるものもいたという。陽光を穏やかに照り返す海の底に、本土の政治が沖縄の人々に強いている理不尽な構図がみえてくる。

2005年に、あかり座沖縄公演をやったとき、会場校を沖縄大学にひきうけてもらった。仲立ちしてくれたのが、土田さんで、このときも沖縄尚学高校の先生たちなど、さまざまな出会いを演出してもらった。その土田さんが2010年に亡くなり、私は沖縄に通じる大きなドアを失ってしまった。