(前回の続き。)池間苗さんがひとりでやっている「与那国民俗資料館」が祖納集落にある。資料館といっても、ごく普通の民家である。苗さんはことし90歳。私の指導教授の武田清子先生と同い年ということになる。

ティンタハナタから ナンタ浜はもっと広かったという
道路に面して、右手に真新しい郵便局、左手に廃墟然とした旧郵便局がある。その間に立つと敷地の奥まったところにコンクリートの二階家がみえる。大きめの玄関ホールが展示スペースになっていて、三面の棚、部屋の真ん中におかれたショーケースに、衣類、什器、農具、玩具などがつまっている。戦前・戦中・戦後の暮らしをささえてきた品物である。
前回の記事で『与那国の歴史』を参照した。この本は苗さんの実父である新里和盛氏が起稿し、夫の池間栄三氏がほぼ完成させ、夫の死後は苗さんが原稿を整理して刊行にこぎつけたものである。その間になんと32年の歳月がたっている。
資料館の入り口におかれた机が、苗さんの受付兼応接スペースである。ここでは展示品と苗さん自身の体験が不可分に結びついている。例えば植民地時代の台湾からもちかえったホーロー製の花柄の食器は、小学校5年生のときはじめてみた台湾のデパートのきらびやかなイメージとつながっている。
だから資料館に足をふみいれる訪問者は、必然的に彼女の人生にふれることになる。苗さんの父上は地元の郵便局長だった。彼女は10人きょうだいの一人で、沖縄本島の第1高等女学校をでてから電信を扱う通信士の仕事につく。戦後は医師だった池間氏の仕事を手伝っていたが、過労がもとで栄三氏が65歳で亡くなってしまう。この土地は実家のあったところで、いまは苗さんのご子息が郵便局長である。
飛び飛びに聞き取った情報を再構成したらこうなった。このなかに興味深い話がいくつもでてくる。女学校では差別を警戒して与那国出身者だと明かさなかったこと、米軍の上陸用舟艇がきたとき苗さんたち家族がティンタハナタの山に逃げ、父親の和盛氏が島を代表して通訳にたったこと、密貿易時代はこの屋敷の背後にあたるナンタ浜が物資の荷揚げ場所だったこと、『与那国の歴史』の著者である栄三氏が島のことばを一切話さないひとだったことなどだ。苗さんの話から浮かび上がってくるのは、戦前からつづく島のインテリ家庭の暮らしぶりである。
与那国の旅から戻って知ったのだが、司馬遼太郎『街道をゆく6 沖縄・先島への道』が、苗さんの55歳のころの風貌を活写している。司馬さんが来島した1974年ころ、苗さんは与那国空港で民芸品を扱う売店をやっていた。
タクシーがなくて困っている司馬さんたちに、たまたま苗さんが自分のライトバンに同乗するようにすすめ、宿まで送っていくことになる。そのくだりを引用してみよう。
「どうせ家に帰るついででございますから」と彼女はドアをあけ、助手席のもたれを前に倒し、動作の鈍い私と須田さんをねじこむようにして押し入れてくれた。彼女は戦前の成人者にしては背が高く、洋服のよく似合うひとだった。その背のわりには小さすぎる自動車だったが、ブレーキをたおすとすばやく始動し、勢いよく走りだした。諸事きびきびしていた。そのくせ、物腰も物の言い方もゆっくりしていて、いかにも昭和初年ころに良家で育ったひとの良さをすべて身につけているような感じだった。(改行省略)
こうして司馬さんの文章を書き写してみると、なるほどわたしがうけた印象とつながってくる。別れ際に90歳と知って驚いたが、話している間はもっとずっと若い年齢と思いこんでいた。それほどかくしゃくとしている。
経済交流・文化交流の中継点の役割を果たした与那国に、たくさんのひとが訪れそして去っていった。もともと住んでいたひとも多く島を離れた。苗さんはどれだけの人を見送ってきたのだろう。
「この島に生まれたことを恨みました」とこちらがドキリとする表現を使う。しかしすぐに、色々な経験ができたからいまは良かったと思っている、と続ける。どちらも本当の気持ちだろう。
沖縄本島まで509キロ、石垣島でさえ127キロのかなたである。だからこの島では、ひとを見送るということに格別の意味があったにちがいない。

東崎の灯台も断崖のうえにある
以前は、出航の前夜に、人々が旅立つ人を囲んでナンタ浜に集ったという。そして明日はさよならが言えないからという歌詞のついた送別の歌をうたいそして踊る。当日の朝は、みんなで船を見送る。健脚の若者たちは、その足で数キロ先の東崎まで駆けていき、岬にたって沖をいく船に大きく手をふった。
美しい旅立ちの光景である。静かな満月の浜辺で歌い踊る人々の姿、坂道を駆けのぼる若者たちの姿が、脳裏にシルエットとなってうかんできた。
閉館時間を気にするわたしを、苗さんが外まで送りにでてくれた。ゆっくり歩いて敷地をぬけ、郵便局をすぎ、つぎのT字路のうえで別れた。
いまきた道と直角にまじわる通りをどんどん歩き、ふとふりむくと、苗さんがまだT字路のうえにたたずんでいた。