わたしの沖縄」カテゴリーアーカイブ

一年半ぶりの那覇

2015年の8月に「不屈館 瀬長亀次郎と民衆資料」でやったあかり座公演以来だから、一年半ぶりである。

DSC00013沖縄1

よほどのことがない限り、滞在中に一度は沖映通りにあるジュンク堂によることにしている。モノレールの見栄橋駅からほど近い場所だ。

DSC00014沖縄2

お目当ては2階の沖縄本コーナー。ラインアップが素晴らしい。上の写真に写っている棚全部が琉球・奄美関係の本で埋まっている。ジャンルも多彩で、考古学の成果に始まり、琉球王朝時代を扱ったもの、戦前・戦中・戦後の沖縄の歴史や国際関係を対象とするもの、ことば、習俗、芸能、工芸、食文化、街歩きガイド・・・、重いものから軽いものまで、実に充実している。その大部分が地元の出版社の本だからまた凄い。

これだけ豊かな出版文化があるということは、もちろん琉球王朝以来の民度の高さを示してもいるだろうが、その一方で、過酷すぎる歴史のしからしむるところではないのか、とも思う。片端から読みたいのだが、残念ながらしばらくは時間がとれそうもない。

DSC00015沖縄3

沖縄では、ここ何年も観光地然としたところに近寄らなくなっている。その代わり、ちょっと時間がとれると、何でもない通りを歩いて、地元の人がいく普通のお店で食事をとる。

今回も感じの良い沖縄そばのお店にぶつかった。それで、次回もここにきてみようかな、などと考えている。

読谷ツアー

読谷村を最初に訪ねたのは1985年の盛夏、ちょうど30年前である。それから何度も読谷にいってはいるが、この時期の訪問ということになると、あまり記憶がない。ひょっとして85年以来なのかもしれない。

あかり座沖縄公演 039

あかり座沖縄公演 042

今回も、はじめての時と同じ夏空が広がっていたが、30年の間に、村の様子はずいぶん変わった。やちむんの里には窯場がふえ、道路もきれいに舗装された。(上の写真:やちむんの里、共同窯は屋根の嵩上げ工事中だった。)

読谷で殊に好きなのは、座喜味城跡からの広大な眺望である。ただ、これもずいぶん変化があった。海を背にそびえていた“象のオリ”の姿が消え、読谷飛行場の跡には立派な村役場も建っている。(下の写真2枚:座喜味城跡で。)

あかり座沖縄公演 043

 

あかり座沖縄公演 044

(下の写真:残波岬から西側の海をみる。)

あかり座沖縄公演 049

いま読谷の人口は3万8千人、日本最大の村だという。(下の写真:残波岬の灯台。空気が澄んでいて、灯台の線がクッキリみえる。)

あかり座沖縄公演 050

今回の見学は、宮崎充治先生(桐朋小学校)のアレンジである。大型の個人タクシー1台だから、好きな場所で思うさま時間を使い、ゆったり見学できるのが良い。お蔭でチビチリガマだけでなく、シムクガマも訪ねることができた。波平の住民千人が避難した洞窟で、奥行きが2570m、死者がでなかったガマとして知られている。(下の写真:シムクガマから外を見る。ガマはとてもきれに保たれている。)

あかり座沖縄公演 052

あかり座沖縄公演を成功裡に終えた安堵感もあっただろうか。大いに会話の弾む見学会だったが、例会とは一味違う話題で盛り上がるところが面白かった。

あかり座沖縄公演

20150820all1

今回のあかり座公演は、3者―獲得研、沖縄歴史教育研究会、不屈館―の共催である。テーマは「教育プレゼンテーションで学ぶ沖縄現代史」。会場を提供していただいた「不屈館 瀬長亀次郎と民衆資料」は、民設民営の組織だ。(写真:久しぶりに座旗も登場)

あかり座沖縄公演 012

第1次公演(2005年)から数えて10年目。会員の(自己)研修という性格は変わっていないが、今回の第2次沖縄公演には、新しい要素がいくつもあった。最大の変化は、公演の性格そのものにある。前回の公演は、「中高生のためのアメリカ理解入門」(明石書店)を使った公開授業を嘉手納高校と沖縄大学で行うもので、どちらかと言えば、開発したコンテンツの普及に比重があったといえる。(写真はガイダンス風景)

あかり座沖縄公演 015

それに対して今回の公演は、不屈館の資料を素材として「ニュース・ショー」形式のグループ・プレゼンテーションを創るもので、沖縄の先生たちに平和学習の新しい方法を提案することに目的がある。「第五福竜丸記念館」、「東京大空襲・戦災資料センター」の資料で試行した“教師たちのプレゼンフェスタ”のノウハウを、沖縄でも活かしてもらおうというのだ。(写真は、内村館長に取材中)

近くの若狭公民館でプレゼンの作成を進める

近くの若狭公民館でプレゼンの作成を進める

ただ、こと沖縄現代史の理解ということになると、当然のこと現地の先生たちに依存する度合いが高くなる。室中直美さん(国際文化フォーラム)のように、50回も沖縄に通っている猛者もいるにはいるが、獲得研のメンバーが沖縄史の専門家という訳ではないからだ。

若狭公民館からみる夏空

若狭公民館からみる夏空

今回は、そのあたりのコラボレーションが絶妙だった。ことに大城航先生(泊高校)の基調提案「沖縄における現代史学習の課題」で、沖縄の基地化が沖縄戦の前からの周到な計画によるものだったこと、住民を収容所に入れている間に米軍による土地収用が行われたこと、従って沖縄戦こそが沖縄現代史の起点となっている、という認識が示されたことが大きい。これまでのような「沖縄戦の終結で終わる平和学習」を変えていく必要があるというのだ。

8月20日は、3つのチームに分かれてプレゼン作成に挑戦した。午前9時半に受付開始、11時過ぎにメンバーが発表されて、3時には発表本番となる。何しろはじめて出会う者同士である。4時間の間に、自己紹介から、リサーチワーク、テーマの絞り込み、シーンづくり、リハーサルまでいく。昼食時間の確保も必要だから、時間のマネージメントということが大きなカギになる。

「基地全面返還10年」「理不尽からの距離」「民衆と瀬長亀次郎」と題された3本の発表は、どれもよく練られた内容で、その分、振り返りのセッションも活発なものだった。すでにMLで公演の感想が飛び交い始めたが、成果と課題は、9月の例会で整理されることになっている。

ともあれ、大きな手応えを得た沖縄公演だったことは確かである。

浦添美術館の特別展

沖縄 2015.2 012

浦添美術館の「琉球・幕末・明治維新 沖縄特別展」(2月27日―3月29日 主催:琉球新報社、(協)沖縄産業計画)にいったら、会場でめずらしい出会いがあった。思想史研究会の仲間の柳下宙子さん(外務省・外交史料館)にバッタリ遭遇したのだ。柳下さんは、長く弓道をやっていて、凛とした姿勢のひとである。

思想史研は武田清子先生の門下生でつくる10人ほどの小さな研究会だが、柳下さんとは、例会以外の場所でついぞあったことがないから、まさかこんな場所であうことになるなど想像もしていなかった。

特別展とはいっても、それほど大規模なものではない。吉田松陰、西郷隆盛、勝海舟、坂本竜馬、近藤勇といった幕末・維新に活躍した人たちの、手紙、衣装などの実物が、頃合いの広さの3室に展示されている。なかでも特に目立つのは、京都・霊山歴史館の所蔵品である。

そして今回の展覧会の目玉となるのが、外交史料館所蔵の琉米・琉仏・琉蘭の3条約の原本である。それで柳下さんがオープニングに立ち会ったものらしい。「琉球新報側の熱意が大変なものでしたよ」と聞いた。あの有名な肖像画も含めて、外交の相手であるペリー提督の関係資料もたくさんでている。

この時期、江戸幕府は幕府で、しぶしぶ日米和親条約(1854年1月)を結ばされているが、琉球王府もまた欧米列強とじかに交渉せざるをえない状況になっていた。幕府が列強の火の手をのがれるため、琉球を「異国」として切り離す策をとったからである。

新城俊昭氏の『教養講座 琉球・沖縄史』(東洋企画)はその間の事情を、以下のように書いている。「1853年4月、ペリーは日本との交渉の前に、琉球に来航した。アメリカは、琉球が日本の支配下にあることを十分に察知していて、日本との交渉が失敗したばあいは琉球を占領する計画であった。そのことによって、窮乏した琉球の農民を薩摩の支配下から解放し、アメリカの経済力で生活を向上させることができるとさえ考えていた」。日本の開国に成功したペリーは、1854年6月、琉球とも、米人の厚遇、必要物資や薪水の供給、などを規定した琉米条約を結び、これにオランダ、フランスが続いた。

企画した新聞社の側に、辺野古の新基地建設問題が緊迫するなかで、外交や政治の自主決定権の問題を琉球時代にまでさかのぼって掘り起こそうとする意図がみうけられる。2月28日付の琉球新報が「独立の気概感じる 琉球3条約特別展の来場者」という見出しで、ペリーが海兵隊を率いて琉球国に条約締結を迫ってきたことと、いまある日米地位協定の不平等さが構造的に似ているのではないかという、名護市からきた市民(62歳・男性)の声を紹介している。

この特別展のことは、新城さんと那覇であったときに聞いた。それが無ければきっと参観の機会を逃したことだろうし、オープニング当日の訪問でなければ、柳下さんと会うこともなかったことになる。大した偶然である。ちょっと不思議なのは、カタログはおろか展示品目録も用意されていないことで、立派な看板が目をひくのと対照的である。ひょっとしたら開会に間に合わなかったのだろうか。

柳下さんと分かれて那覇のモノレールのシートに座っていたら、こんどは「渡部先生!」と呼びかける声がする。その声で顔をあげると、教育学科の4年生がすぐ近くに立っていた。卒業旅行にきたそうで、これからレンタカーを借りて友人たちと島内を回るところだという。

いやはや、偶然というのも、続けばつづくものである。

辺戸岬に立つ

沖縄 043

今年の1月、沖縄県庁から辺戸岬までドライブした。27度線について考えたいと思ったのだ。岬に人かげはまばらである。雨もよいで風が強く、岸壁にぶつかる荒波がときおり白い飛沫になって頭上にふってくる。

沖縄 028

与論島が思いのほか近くにみえる辺戸岬の突端に、よく手入れされた「祖国復帰闘争碑」(1976年)が海を背にして立っている。黒い石に刻まれた碑文「全国のそして全世界の友人へ贈る」は、高いトーンの文章ではじまっている。

「吹き渡る風の音に 耳を傾けよ 権力に抗し 復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ 打ち寄せる波濤の響きを聞け 戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ」。

“鉄の暴風”はやんだが、1952年4月28日のサンフランシスコ条約で、沖縄は米軍の支配下に組み込まれた。碑文は「米軍の支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した 祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声は空しく消えた われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬せられた」と続く。

「見よ 平和にたたずむ宜名真の里から 二七度線を絶つ小舟は船出し舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ 今踏まえている土こそ 辺戸区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ」。

27度線をはさんでおこなわれたその大焚火と海上大会の様子を、瀬長フミさんが記録している。少し長くなるが以下に引用してみよう。「一九六四年八月一四日、行進団百名余、国頭村辺戸の北国小学校に五時ごろ到着、小学校の教室を解放してもらって落ちついた。今夜の焚火大会や明日の海上大会への参加のため、各地からぞくぞく学校に集まり、四百名余になった。・・・暗くなった辺戸岬の広っぱは四百人余りの人びとが輪を作り歌をうたっていた。

中央に大きな丸太がうず高く積み上げられ、すぐ火がつけられるように準備されていた。海はまっくらで、海なりがきこえていた。八時、与論島にポッと灯が見えると、こちらもパッと燃え上がった。みんなワッーと歓声を上げ、両手をあげて本土の灯をみたり、こちらがわの灯をみたり、その喜びはなんとも表現しえない気持ちであった」。

その夜、参加者はほとんど寝ずに朝を迎える。「午前六時、国頭村宜名真から出発、他の隊列は奥という海岸からでて二十七度線へ向けてポンポンひびかせて走った。・・・だれかが『見えた、ほら本土の船だ』と叫んだ。ほんのり見える黒点を見失うまいとみんなじっとにらみつけていた。しだいに大きくなってくる赤旗で飾られた大きな船が二隻、旗の林立で満艦飾といった壮観さ。はっきり見え出すと、『おう、大きなすばらしい船だ!』とみんなもう胸がいっぱいで表現のしようもない。・・・『ご苦労さん、がんばりましょう』と声をかぎりに叫ぶだけで何もいえない。ただもう感激、お互いの連帯を一層強くしたことを力強く思った。“沖縄をかえせ”の歌が本土側の船から海上いっぱいに流れた。むしょうに涙が流れた。

本土のみなさんが百十日間という長い月日を沖縄返還要求国民大行進に取り組んでこられ、沖縄県民もまた、沖縄解放のためにたたかい、沖縄解放と日本の独立のためにみんな真夏の太陽に黒く焼けていた。五十日余を歩きつづけてきた労苦の後に味わう大きな喜びであった。・・・。

午前十時二十分、大会がすんで、両方の船が反対の方向へ、ひきちぎられるような思いで名残り惜しくも別れを告げ、また会える日を心に期して、しだいに離れていったとき、緊張はいっぺんにほぐれてみな疲れと船酔いで船底に倒れた」。(内村千尋編著『瀬長フミと亀次郎』あけぼの出版 2005年)

そして碑文は次のような痛切な文章で締めくくられる。「一九七二年五月一五日、沖縄の祖国復帰は実現した。しかし県民の平和への願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された しかる故に この碑は 喜びを表明するためにあるのでもなく ましてや勝利を記念するためにあるのでもない 闘いをふり返り 大衆が信じ合い 自らの力を確かめ合い決意を新たにし合うためにこそあり 人類の永遠に生存し 生くとし生けるものが 自然の摂理の下に 生きながらえ得るために警鐘をならさんとしてある」。

541文字、10段の碑文(復帰協3代会長 桃原用行)に、沖縄の人びとの矜持が凝集されている。そう感じるのは私だけだろうか。この日は、58号線沿いに西海岸を北上し、辺戸岬から東海岸経由で那覇に戻った。走行距離174キロ。国頭村では、ヘリパッド建設反対のテントがはられている。

沖縄を歩くようになって30年近くたつ。北国育ちの人間がもつ南方への無条件の憧れということがひとつある。それ以上に、沖縄の現実を凝視することで「戦後日本」を相対化する視座をもつ、ちょっと大げさにいえばそんな目的である。ただ、自分の視座を身体化するということは決して容易なことではない。

私のなかの北方性について新城俊昭さん(沖縄大学客員教授)に話したときに、新城さんがちょっと間をおいてこういった。「渡部さんの場合は、自分が日本人だということを疑う必要がないでしょ」。それからもういちど間をおいて「私たちはまず、沖縄は日本なのかというところからはじめなければならないんです」と続けた。

そもそも私は日本人なのかと問うところからはじまる、その言葉が、27度線を望む海上風景と重なって、あれからずっと心の中で響いている。

新城俊昭先生と琉球・沖縄史

機上から富士山がきれいに見えた

機上から富士山がきれいに見えた

沖縄で新城俊昭先生(沖縄大学客員教授)と会うときにかぎって、なぜか緊迫した社会情勢になっている。今回は、米軍基地の辺野古移転に反対する稲嶺進・名護市長が再選された直後である。

2年前は、ちょうど仲井真弘多知事が、首里城跡の地下にある陸軍の旧司令部壕の前におく説明板から慰安婦という文言を削除する、と決めて大問題になっていたときだった。翌日、文章を起草した検討委員会のメンバーとして記者会見する新城さんの様子を地元の新聞で読んだ。

新城俊昭さんは、私と同世代の実践的研究者である。仕事について知ったのは、10数年前、テレビのニュース番組だった。「琉球・沖縄史」のテキストを独力で執筆した高校教師がいるというナレーションとともに、長身痩躯の新城さんの授業風景が映しだされた。一人で通史を書くというのは、大変なことである。早速、本を読んで、2003年の全国私学・国際教育研修会で「沖縄を伝える―歴史教育と教材開発を通して」と題する講演をしてもらった。

それからというもの、あかり座公演を嘉手納高校で引き受けてもらったり、沖縄の教育界の現状を聞かせてもらったり、離島の見どころを教えてもらったりと、お世話になりっぱなしである。

名護から辺土岬へ 58号線沿いは海が荒れている

名護から辺土岬へ 58号線沿いは海が荒れている

新城さんの強みの一つは、那覇高校のような都市部の高校だけでなく、本島の山原、宮古・八重山諸島など各地の学校で勤務した経験をもつことだ。それぞれの地域の民俗にじかにふれ、また古文書などの一次資料に精力的にあたっているから、研究に奥行きが感じられる。

幼いころ、新城さんの父上が、米軍の車両に轢き殺された。その事実を受け入れることのできない5歳の新城さんの心のあり様が、「父の死とその後」という文章に描かれている。沖縄平和祈念資料館の「戦後の暮らし」のコーナーで、その静かな文章を読むことができる。この事件が、家族の生活をすっかり変えてしまった。

だから、新城さんの場合は、人生の意味を問うことと、教師であることと、研究者であることとがピタリと重なっている。10回もの改訂を重ねながら、ライフ・ワークである「琉球・沖縄史」の出版を続ける理由が、おそらくそれだろう。

今回は、晩発姓PTSDの話を聞いた。70代の退職教師の男性が、激しい右ひざの痛みに襲われた。病院でどんなに検査しても異状がみつからない。一人の医師がひょっとして、と思って尋ねたら、子どものころ、沖縄戦でいくつも死体を踏みつけながら逃げ延びた経験があるという。心の中に沈潜していった、すまない、すまないという思いが、60年以上の時間をへだて、身体の痛みとなって現れたのではないか、というのである。

新城さんは、沖縄の歴史教育のトップランナーである。管理職への誘いを断り、生涯一教師の道を貫いた新城さんが、定年と共に大学に移り、教師教育・現職研修の道に本格的に踏み出している。

これを機に、新城さんが代表をつとめる沖縄歴史教育研究会と獲得研でなにか新しいコラボレーションができるのではないか、そう考えるといよいよ楽しみである。

奄美大島の印象 (2)

内部が改装されてきれいになっている

内部は改装されてきれいになっている

奄美大島の印象を反芻しているうちに、書くタイミングを逸してしまい、そのまま年を越した。復帰60周年の特別企画展をやっている奄美博物館、笠利歴史民俗資料館、縄文の宇宿貝塚など訪ねたが、どこも閑散としている。他に客がいないのだ。その代わり、どこでも懇切な説明を聞くことができた。

西郷隆盛の流謫の家もそうである。島の北部に、龍郷湾が深く陸地に入り込んでいる地域があり、そこに2間続きの藁葺の家が残っている。汐留というどん詰まりの場所から、湾の出口に向かって北の方向に10分ばかり車を走らせると、龍郷集落についた。一本道の両側に長く家並みが続いている。だが、尋ねようにも人の姿がない。いったん集落をではずれて、真ん中辺まで引き返したら、ちょうど現当主の龍さんが、案内の幟を立てるところだった。

現当主の龍さん 屋敷を美しく掃き清めている

現当主の龍さん 屋敷を美しく掃き清めている

西郷隆盛は、流人として1859年から3年間、ここ龍郷の有力者である龍家の一角に住んだ。その間、愛加那(龍家次男の娘 本名:愛子 加那は女性の尊称)と結婚する。西郷33歳、愛子23歳、いわゆる島妻である。二人の間に、菊次郎、菊草(後の菊子)ができたが、明治になってから、どちらも西郷本家に引き取られている。菊次郎が8歳、菊子が14歳になったときである。後に、西郷菊次郎は第2代京都市長、菊草(後の菊子)は大山巌の弟・精之助の妻になった。

龍さんの説明によると、この家は、西郷が建てさせた薩摩風のもの、この新居に移転した次の日に召喚状を受け取ったので、ここで暮らしたのは2カ月足らずである。以来、1902年に亡くなるまで、愛加那がこの家で暮らすことになる。西郷から愛子にあてた一通の手紙も確認されていない、という。

龍さんのお祖父さん夫婦が、縁戚の愛子と養子縁組をしてこの家を継いだ。子どものころは、大島紬の全盛時代とあって「あっちこっちの家から機の音が響いて、賑やかさがありました」という。いまは5分の一にも足りないが、1972年には、28万反を超える生産があったらしい。

陽の傾くころ 奄美パークから立神方向

陽の傾くころ 奄美パークから立神方向

奄美は、15世紀からの「那覇世(ナハンユ)」、17世紀初頭からの「大和世(ヤマトユ)」、戦後の「アメリカ世」というように、絶えず外部の権力の支配を受けてきた。西郷がこの地にきたころは、黒糖地獄という言葉が象徴する通り、薩摩藩の苛斂誅求に苦しめられた時代である。この間の事情については、朝日新聞の神谷裕司氏が駐在員として取材した『奄美、もっと知りたい』(南方新社)の第2章「薩摩と琉球」が参考になる。ちょっと長くなるが、その内容を再構成してみよう。

1864年にゆるされて帰藩した西郷が、奄美の窮状を見かねて上申書をだし、代官らの人柄を調査してから派遣すること、島で必要なのは米であるから、米と砂糖の交換規定は厳守するよう、訴えた。島人を「毛頭人」「えびす共」と蔑視する西郷でさえ義憤を感じるほど、むごい政策がとられていたということである。

そもそもは、薩摩が1609年に琉球支配下の奄美に攻め込み、藩直轄の蔵入地にしたのがはじまりである。代官などの島役人を派遣し、地元の島役人を中間支配層として活用して、人民を統治する。公式には琉球王国のうちに置かれたままだから、幕府に内緒で収奪を強めたことになる。

夜の漁の準備 エビや魚をとる

夜の漁の準備 エビや魚をとる

1777年には、大島、喜界島、徳之島の三島を対象に、砂糖惣買入制をしく。奄美の農家から砂糖一斤を米三合の割合で交換し、大阪で4、5倍の値段で売った。経済的には奄美から莫大な利潤を得てそれを明治維新の原動力にしていったが、奄美が薩摩へ「同化」することは許さなかった。貨幣を禁止、往来も禁止、衣服など身なりは琉球風のものを強制し、姓を許された島の支配層も、幸、文、龍、里など一字姓に限定された。

年貢が払えず、借財が重なって富豪に身売りしたものも多く出た。これが「家人(ヤンチュ)」と呼ばれる、奄美独特の階層である。一種の債務奴隷と考えられている。幕末には、奄美の人口の約三分の一がヤンチュで占められる一方、三百人のヤンチュを抱える豪農も現れた。

そして神谷は、「明治になって鹿児島県が砂糖専売制度の実質的な継続を図った際には、西郷はこれに手を貸して、奄美の民衆を切り捨てたのである」と断罪している。

龍さんによると、菊次郎も西南の役にでて、右足を撃ち抜かれ、島に戻って1年余りを過ごしたという。都会で志を得なかったものが田舎に帰って再起を期すというのは、日本の近代によく見られるパターンである。ただ、本土と奄美の関係でいえば、都会・田舎、中央・地方の関係だけでなく、そこに本国・植民地関係をかぶせたようなものといえるだろう。

この家について説明を聞いていると、支配と差別の歴史がいくつもの層になって浮かび上がってくる。空地の目立つ集落をでて、町にもどる道すがら、言葉にならない複雑な感懐にとらわれた。その気分はまだ整理できないままである。

奄美大島の印象

米軍の空襲で市街の9割が焼失した

米軍の空襲で市街の9割が焼失した

奄美群島が日本に復帰してから、12月25日で60年になる。60年前、復帰を祝う市民が万歳をしたというおがみ山に登ってみた。名瀬市街のはずれにある小高い公園である。わずか90メートルの山だから、亜熱帯の植物を両脇に眺めながら、だれでも簡単にのぼることができる。名瀬港を一望するテラスまできて、山頂に「祝60」と読める大きなネオンサインが取り付けられているのを知った。

おがみ山の登り口 猫がついていくる

おがみ山の登り口 もれなく猫がついていくる

島内をレンタカーで100キロほど走ったが、思った以上に山がちである。立派なトンネルがいくつもあり、道路がすみずみまで整備されている。これが離島振興策の島、公共事業の島である証だろう。「徳田たけし」という顔写真入りの看板がこれでもかとばかり姿をあらわすせいで、いやでも奄美選挙ということばが浮かんでくる。

住用町のマングローブ林

住用町のマングローブ林

住用町など島の南部の山が赤く、龍郷町や笠利町など北へいくと青々した森が広がっている。このコントラストは、松くい虫による松枯れの影響である。被害が北に向かって広がっているように見えるのだが、ヘリコプターでの薬剤散布はせず、自然の淘汰に任せる方針らしい。

奄美空港のそばに鹿児島県の施設「奄美パーク」がある。ここの目玉は、田中一村記念美術館である。「奄美のゴーギャン」と形容される一村、そしてヤポネシア論を展開した島尾敏雄(作家 鹿児島県立図書館奄美分館館長)、広く知られる二人がどちらも島外出身者であるところが面白い。

高倉をデザインした美術館の外観

高倉をデザインした美術館の外観

美術館で一村の幼少期から晩年まで、未完の作品もふくめて80 点余りの作品を、ゆっくり時間をかけてみた。世俗的には連戦連敗ともいうべき彼の生涯だが、その一途な歩みが呼び起こす独特の感興がある。ことにわずか30点といわれる奄美時代の本画のうち、10点余りをみられるのは貴重だ。

今回は、地元の黒糖焼酎「里の曙」のラベルにも使われている「初夏の海に赤翡翠」、「不喰芋と蘇鉄」、「榕樹に虎みゝづく」などがでている。展覧会の解説で、一村が若いころから鳥のスケッチに熱心に励んだことを知った。

子どものころ、居間に奄美地方の民家の写真が貼ってあった。鬱蒼とした緑にかこまれた草ぶきの丸屋根が靄にけむっている。おそらく高倉だったのだろう。秋田のきっちり刈り込まれた萱葺屋根とは質感の違う、もっと柔らかい印象の屋根である。カレンダーだったのかポスターだったのか、いまとなっては判然としないが、ともかくもその一枚の写真がわたしに南の島への憧れを抱かせた。

樹木が屋根を覆ってきている

樹木が旧宅の屋根を覆いはじめている

だから、まだ見ぬ奄美のイメージとして浮かぶのは、美しい海ではない。まずなによりも湿潤な森であり、そこにただよう空気感だ。ただ、一村の絵をみると、森のまとわりつくような湿潤さは捨象されている。きわめて装飾性の高い画面を支配しているのは、むしろ透明な空気感である。

旧宅にあるハブよけの棒

旧宅におかれたハブよけの棒

翌日、山の麓に移築された一村の旧宅を訪ねた。小さく簡素なつくりの家である。最晩年、建物にサッシがはいり「これで雨の日にも絵が描ける」と意気込んだらしい。いまは壁板の破れから、内部のガランとした暗闇がこっちをのぞいている。

こんなにも湿気た建物で生まれた作品群が、透明な空気感をただよわせて美術館の展示室を飾っている。そのコントラストもまた不思議な印象として残った。

池間苗さんと与那国

(前回の続き。)池間苗さんがひとりでやっている「与那国民俗資料館」が祖納集落にある。資料館といっても、ごく普通の民家である。苗さんはことし90歳。私の指導教授の武田清子先生と同い年ということになる。

ティンタハナタから ナンタ浜はもっと広かったという

ティンタハナタから ナンタ浜はもっと広かったという

道路に面して、右手に真新しい郵便局、左手に廃墟然とした旧郵便局がある。その間に立つと敷地の奥まったところにコンクリートの二階家がみえる。大きめの玄関ホールが展示スペースになっていて、三面の棚、部屋の真ん中におかれたショーケースに、衣類、什器、農具、玩具などがつまっている。戦前・戦中・戦後の暮らしをささえてきた品物である。

前回の記事で『与那国の歴史』を参照した。この本は苗さんの実父である新里和盛氏が起稿し、夫の池間栄三氏がほぼ完成させ、夫の死後は苗さんが原稿を整理して刊行にこぎつけたものである。その間になんと32年の歳月がたっている。

資料館の入り口におかれた机が、苗さんの受付兼応接スペースである。ここでは展示品と苗さん自身の体験が不可分に結びついている。例えば植民地時代の台湾からもちかえったホーロー製の花柄の食器は、小学校5年生のときはじめてみた台湾のデパートのきらびやかなイメージとつながっている。

だから資料館に足をふみいれる訪問者は、必然的に彼女の人生にふれることになる。苗さんの父上は地元の郵便局長だった。彼女は10人きょうだいの一人で、沖縄本島の第1高等女学校をでてから電信を扱う通信士の仕事につく。戦後は医師だった池間氏の仕事を手伝っていたが、過労がもとで栄三氏が65歳で亡くなってしまう。この土地は実家のあったところで、いまは苗さんのご子息が郵便局長である。

飛び飛びに聞き取った情報を再構成したらこうなった。このなかに興味深い話がいくつもでてくる。女学校では差別を警戒して与那国出身者だと明かさなかったこと、米軍の上陸用舟艇がきたとき苗さんたち家族がティンタハナタの山に逃げ、父親の和盛氏が島を代表して通訳にたったこと、密貿易時代はこの屋敷の背後にあたるナンタ浜が物資の荷揚げ場所だったこと、『与那国の歴史』の著者である栄三氏が島のことばを一切話さないひとだったことなどだ。苗さんの話から浮かび上がってくるのは、戦前からつづく島のインテリ家庭の暮らしぶりである。

与那国の旅から戻って知ったのだが、司馬遼太郎『街道をゆく6 沖縄・先島への道』が、苗さんの55歳のころの風貌を活写している。司馬さんが来島した1974年ころ、苗さんは与那国空港で民芸品を扱う売店をやっていた。

タクシーがなくて困っている司馬さんたちに、たまたま苗さんが自分のライトバンに同乗するようにすすめ、宿まで送っていくことになる。そのくだりを引用してみよう。

「どうせ家に帰るついででございますから」と彼女はドアをあけ、助手席のもたれを前に倒し、動作の鈍い私と須田さんをねじこむようにして押し入れてくれた。彼女は戦前の成人者にしては背が高く、洋服のよく似合うひとだった。その背のわりには小さすぎる自動車だったが、ブレーキをたおすとすばやく始動し、勢いよく走りだした。諸事きびきびしていた。そのくせ、物腰も物の言い方もゆっくりしていて、いかにも昭和初年ころに良家で育ったひとの良さをすべて身につけているような感じだった。(改行省略)

こうして司馬さんの文章を書き写してみると、なるほどわたしがうけた印象とつながってくる。別れ際に90歳と知って驚いたが、話している間はもっとずっと若い年齢と思いこんでいた。それほどかくしゃくとしている。

経済交流・文化交流の中継点の役割を果たした与那国に、たくさんのひとが訪れそして去っていった。もともと住んでいたひとも多く島を離れた。苗さんはどれだけの人を見送ってきたのだろう。

「この島に生まれたことを恨みました」とこちらがドキリとする表現を使う。しかしすぐに、色々な経験ができたからいまは良かったと思っている、と続ける。どちらも本当の気持ちだろう。

沖縄本島まで509キロ、石垣島でさえ127キロのかなたである。だからこの島では、ひとを見送るということに格別の意味があったにちがいない。

東崎

東崎の灯台も断崖のうえにある

以前は、出航の前夜に、人々が旅立つ人を囲んでナンタ浜に集ったという。そして明日はさよならが言えないからという歌詞のついた送別の歌をうたいそして踊る。当日の朝は、みんなで船を見送る。健脚の若者たちは、その足で数キロ先の東崎まで駆けていき、岬にたって沖をいく船に大きく手をふった。

美しい旅立ちの光景である。静かな満月の浜辺で歌い踊る人々の姿、坂道を駆けのぼる若者たちの姿が、脳裏にシルエットとなってうかんできた。

閉館時間を気にするわたしを、苗さんが外まで送りにでてくれた。ゆっくり歩いて敷地をぬけ、郵便局をすぎ、つぎのT字路のうえで別れた。

いまきた道と直角にまじわる通りをどんどん歩き、ふとふりむくと、苗さんがまだT字路のうえにたたずんでいた。

与那国島―Dr.コトーとクブラバリ

入院室 窓の外は比川浜

Dr.コトーの入院室 窓の外は比川浜

たしか有吉佐和子の『日本の島々、昔と今。』だったと思うが、与那国島が台湾との密貿易で賑わったことが書かれていた。戦後のほんの一時期のことだ。台湾の漁民が煙草を買いにふらっと立ち寄ったという話もあったから、そんな近しい感覚が双方にあったのだろう。そのころは人口も1万人をこえていたらしい。ちなみに、いまの与那国町の人口は1557人(本年7月現在)である。

4年前の秋に現地にいくまで、与那国について私が知っていることはごくわずかだった。町役場と観光協会がつくった「Dr.コトー診療所ロケ地マップ」に集落が3つ紹介されている。役場のあるいちばん大きい集落が祖納、漁協と海底遺跡見学のグラスボート乗り場があるのが久部良、そしてDr.コトー診療所のセットがあるのが比川である。

与那国島は小さな島だがじつに変化に富んだ海岸線をもっている。番組のタイトルバックで、中島みゆきが歌う「銀の龍の背に乗って」が流れ、白衣のコトー先生が自転車を走らせる。やがて自転車は緑の牧場を通る一本道へ、その足元には断崖と岸を洗う白い波が広がっている。走っている方向からみて、コトー先生は比川から久部良に向かっていることになる。ここで使われた道路が南牧場線で、その海岸線こそ与那国島の典型的風景である。

私はまず久部良の集落のはずれにあるクブラバリにいこうと思った。妊婦をとばせて人減らしをしたといわれる場所、人頭税の過酷さを象徴する遺跡だ。

南牧場線は太平洋側だが、クブラバリは目の前に東シナ海が広がる断崖の上にある。より正確にはクブラフルシという巨大な岩石の上にできた自然の裂け目がクブラバリである。幅約3メートル、深さ約7メートルの断層になっている。このあたりから日本最西端の夕日が眺められる。

クブラフルシの上までいくと、むこうで2頭のヨナグニ馬が草を食んでいるのがみえた。その先に、廃工場の土台と思しきコンクリートの残骸が広がっている。クブラバリを探したが、あたりにもやもやと植物が茂っているばかりで、尋ねようにも人の気配がない。すぐそばまでこないと分からないような場所である。このあたりはよほど風が強いとみえて、くぼみの底から棕櫚のような樹木が何本も枝をのばしているものの、地表近くまできて成長をとめている。

立神岩は比川集落のさらに東側の海岸にある

立神岩は比川集落のさらに東側にある

池間栄三『与那国の歴史』(1974年)によると、琉球王府が先島に人頭税を割り当てたのが1637年のことである。島津藩が琉球国からの搾取を強めたのが引きがねになった。王府による米納の割り当てがどんなに厳しいものだったのか、それは風害、潮害あるいは不利不便で耕作放棄されてしまった、無数の廃田跡があることからわかる。このため他殺・自殺・脱島逃亡などで人口が年々へっていき、1651年には与那国の納税者が124人になったという。

薩摩からはじまった苛斂誅求の手が西へ西へとのびていくうちに、どんどん抑圧が強まっていき、ついには最西端の地でどんな悲劇を生むことになったのか、クブラバリの遺跡がそれを物語っている。人頭税はなんと1903年(明治36年)まで続いた。

むこうにいた馬のうちの一頭が、私の方にむかってゆっくり歩いてきた。人恋しいのか、しきりに顔をよせてきてなかなか立ち去ろうとしない。クブラバリを離れて駐車場へ向かう間もなおしばらく後をついてきた。

クブラバリには久部良中学校の横を通っていく。広々した校庭で若い男の先生が芝刈り機を動かしていた。近々、運動会があるらしい。立ち話で「ここの先生たちの半分は、沖縄本島から来ているひとです」ときいた。みな3年ほどで帰るらしい。そう教えてくれた彼もそろそろ石垣に戻る時期なのだという。

10月末の与那国島に観光客の姿はまばらである。閑散とした島を立派な自動車道路が貫いている。日本のどこの地方にもみられる公共事業依存の経済体質がすけてみえる。この夏、与那国町を二分する町長選挙が話題になったが、自立に向けて過疎の島の未来をどう描くのか、その延長上の問題だと聞く。

東京に戻ってから、写真のなかにほとんど人影がないことに気づいた。(次回は、祖納集落のことを書いてみる。)