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長(武田)清子先生を偲ぶ会

恩師の長清子先生が、4月10日に100歳で亡くなられ、9月8日にICU食堂で「偲ぶ会」があった。思想史研究会がしばらく休会している間のことだったから、いまひとつ実感がもてずにいたのだが、この会に参加して、しみじみ「ああ、亡くなられたんだなあ」という感懐にとらわれた。

とりわけ12年間にわたって長先生の助手をつとめあげ、思想史研究会でもオピニオンリーダー的な存在の小沢浩さん(4期生、元富山大学長)のスピーチは、長先生の厳しく、温かくかつリベラルな人柄を活写すると同時に、先生の戦中戦後から現在に至る学問研究の歩みを歴史的に位置づけようとする試みで、なんとも見事なものだった。

偲ぶ会は、桑ケ谷森男さん(1期生、元ICU高校長)たち、最初期の卒業生が運営の中心を担ったもので、200人を超す参会者があった。
80代になった先輩たちのすこぶる元気な様子にふれていると、これもまたいかにもICUらしい雰囲気だなあ、と感じたことだった。同じテーブルにいた梅津順一さん(14期生、前青山学院院長)や保立道久さん(15期生、東京大学名誉教授)が若い層に見えてくるから不思議である。

長先生は、18期生の私がかれこれ45年師事した先生である。

(下の写真。学部の卒業式で)

とりわけ最晩年の10年ほど、思想史研究会で指導を受けた経験がいよいよ貴重なものに感じられる。90代にしてなお学問研究の炎を燃やし続ける方のそばにいられたからだ。

小沢さんのスピーチにもあったが、せめても長先生に満足してもらえるような仕事を一つは残さないとなあ、と考えたことだった。

大塚先生の記念シンポ

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先週、青山学院大学で「大塚久雄 没後20年記念シンポジウム―資本主義と共同体」があった。80人を超す参加者で大盛況、久しぶりにICUの大塚ゼミの面々とも顔をあわせた。シニアはもちろん、若い研究者の姿もかなりみられる。

没後20年たってこうした大規模なシンポジウムが開かれること自体そんなにあることではない。

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経済史研究の分野から報告者が3人、コメンテーターが2人登壇したから、論点が「コモンウィール」「アソシエーション」「欧州の経済統合」「ネーション」「宗教的コミュニティ」とすこぶる多岐にわたり、発表もそれぞれ力のこもったもので面白かった。

主催者側の配慮だろう。東大、慶応、立教、早稲田でそれぞれ大塚史学にふれた人たちが登壇者になっている。大塚さんからみると孫弟子の世代の研究者も多いことから、研究の広がりが実感できて、それも面白かった。

懇親会の司会を仰せつかったのだが、その場でも大いに刺激を受けた。スピーチのなかに大塚さんの学問の総合性と課題意識のアクチュアリティにもっと注目すべきだという提起があって、確かにこれからは、大塚さんの学問研究の含意を、経済史研究の枠を超えて検討していくことも必要ではないか、と感じたことだった。

与瀬町―大塚久雄先生の疎開先

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大塚久雄先生の疎開地・与瀬を訪ねた。中央線相模湖駅からほど近い場所である。かつて神奈川県津久井郡与瀬町だったが、いまは相模原市に編入され、相模原市緑区与瀬になっている。

案内人は大塚先生の長女・高柳佐和子さん。柔和な笑顔が、大塚さんの風貌を髣髴させる。「もうすぐ80歳になるんですよ」とご自分でおっしゃるが、実に活気のあるシャキシャキした語り口の方である。

今回の与瀬行きは、梅津順一さん(青山学院院長)の発案で、大塚門下の長老・関口尚志先生(東京大学名誉教授)夫妻をはじめ、ゆかりのメンバーが13人参加した。

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相模湖駅から南に少し行くと街道筋にでる。そこで信号を渡り、右方向に線路と並行して5、6分歩くと、ほどなく右前方に旧本陣跡の緑があらわれる。大塚さんの住まいのあった場所は、その旧本陣のやや手前、道路を隔てた反対側である。

街道のこのあたりは、北側に低い屏風のような山が広がり、南側は相模湖(元の相模川)にむかって緩やかに傾斜している。1944年3月から46年にかけて、大塚さん一家は、この場所で2年ほど暮らした。

かつては街道に面した100坪ほどの区画だったそうだが、今は二つに分割されている。街道側に今風の家が建っていて、残りの半分は空き地である。70年前は自動車などほとんど通らないのどかな通りで、路上が佐和子さんたちの遊び場だった。

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松葉づえの大塚さんが、ここから超満員の列車で本郷まで通勤するのは相当難儀だったろう。大塚さんを、家族で窓から押し込むこともしたという。あまりの混雑で列車に乗り損ね、やむなく欠勤した日、帰りに乗るいつもの列車が米軍の機銃掃射にあい、死傷者をだした。

よく知られていることだが、 同じ時期に、大塚さん、飯塚浩二さん、川島武宜さんという戦後社会科学をリードすることになる3人の学者が与瀬町に疎開している。地元で、それぞれ上の先生、中の先生、下の先生と呼ばれていた。実際に歩いてみると、徒歩10分圏のごくごく狭い地域である。

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意外だったのは、戦時中、3人そろっての交流がなかったことである。考えてみれば当然かもしれない。常会での大塚さんの発言を逐一警察に報告するように、と地元の人たちに指示が出ていたころのこと、いわば監視下での生活だったのである。

戦後になって3家族の集いが活発化する。医学部の瀬川功博士をふくめた疎開仲間4家族で、相模湖畔にバーベキューにきたという話も聞いた。

大塚さん一家がここで暮らしたのは、佐和子さんが小学生だったころだ。にもかかわらず、語られるエピソードがどれも生き生きしている。帰京後も小学校時代の同級生と交流を続けてきたというから、おそらく疎開生活のころの時間が、佐和子さんのなかでそのまま現在につながっているからに違いない、とそう思った。

大塚久雄先生と静謐な空間(4)

大塚先生のどの講義も刺激的だが、うけた影響の大きさからいえば「文化変動論としてカリスマ論」(1981年秋学期)がまっさきにうかぶ。1977年の論考「力と権威」(『生活の貧しさと心の貧しさ』所収)を発展させた大学院の講義である。

無茶を承知で要約すると、以下のようになる。もっともすぐれた文化変動論がM.ヴェーバーのカリスマ論である。土地封建制、身分制家産国家などにみられるヨーロッパの「伝統的支配」が、法秩序にもとづく近代の「合法的支配」へと変化してゆくときに、「カリスマ的支配」がこれらとからまりあいながら構造変動をおこしていく。ただし、三つの純粋な類型のあいだの関係は流動的で、いつでも純粋な類型が組み合わせられたものとして現れる。

大塚先生と -OBの集まり「フライデーの会」で

ヴェーバーのいうカリスマは、神が与えた非日常的な資質、力(恩寵の賜物)のことだが、その妥当性を決定するものは、被支配者による自由な承認である。軍事ではナポレオン、ジンギス汗、源義経などが、芸術ではゲーテなどのカリスマ保持者(トレーガ-)があげられる。とりわけ宗教的カリスマが重要で、前説にとらわれない行動により、人々のもつ「正統性の意識」を変革する預言者が、社会関係をその内側から変えていくのがみられる。

カリスマが日常化するとき、もともともっていた革命的な性格を失い、しばしば保守的性格をもつ反対物に転化する。真正・純粋カリスマから日常カリスマへの変化ということだが、社会学的にはこの日常化されたカリスマが重要である。

大塚さんはここで、ヨーロッパのみならず日本の支配構造の特質をも論じている。血縁カリスマの根強い影響がそれである。天武天皇以降、後継天皇を決定する制度がないために、激しい殺戮が続き、ついには天武系が根絶やしになったこと、その後、寝業師としての藤原氏の支配が日本の政治の性格をきめたこと、その影響が昭和になるまで続いたこと、を指摘する。引例は、神話のヤマトタケルの兄殺しから現代の家元制度にまで及んだ。さらには、明治以降の家産官僚とカリスマ教育とのつながりを、湯島の昌平黌から帝国大学設立の流れで説明している。

わたしの知るかぎり、講義のなかで、大塚さんがこれほど日本の歴史にふみこんで言及したことはない。自在な語り口、内容の振幅の大きさをふくめて、大塚さんの講義の一つの頂点ではないかとさえ感じる。

この講義から受けた直接の影響が二つある。一つは、“文化変動の最初の一撃を与えるもの”としての真正カリスマ・トレーガーの概念にふれたことだ。これに触発されて、のちにルソーの立法者論「政治制度の創出と人間性の変革」を書いた。

もう一つは、ヴェーバーの類型論、とりわけ三つの純粋な類型の間にうまれるダイナミズムというアイディアにふれたことだ。1990年に提起することになる獲得型授業、知識注入型授業という理念型の種子となるものが、わたしの内部にまかれたのである。これについては、のちに言及する。

亡くなった小室直樹さん(評論家、東京工業大学世界文明センター特任教授)もこの講義をきいている。「ソビエト帝国の崩壊」「アメリカの逆襲」をだして間もないころだ。最前列に陣取り、ノートをとりながらテープレコーダーも操作するから、テープ交換のたびに、小室さんが気忙しくビニール包装をやぶる「バリバリッ」という音が静かな教室にひびいた。

あのテープはどうなったのだろう。機会があれば、もういちど聴いてみたいのだが。

大塚久雄先生と静謐な空間(3)

大塚久雄先生の講義は、助手をつとめる梅津順一さんのディスカッション・クラスとセットになっている。しばらくして梅津さんから、聴講ついでに大塚さんのお世話をしてくれないか、と頼まれた。お世話とはいっても、講義で喉をうるおす水の準備と帰りのタクシーを手配するくらいのことだ。

ICUのケヤキ並木-バス停に通じる

講義のあとはいつも、研究室のソファでおしゃべりする。教育研究棟一階東側にある研究室は、床までとどくガラス窓である。そこから柔らかい日差しを通して、キャンパスのケヤキ並木がみえる。常連は、魚住昌良教授(ドイツ都市史)、葛西実教授(インド思想史)そして私である。

すんだばかりの講義のことからはじまって、学問研究の国際動向に話題がおよぶこともあれば、生い立ちや闘病体験など、ごく個人的なことがらのこともある。後者は、石崎津義男さんの『大塚久雄 人と学問』(みすず書房 2006年)で紹介されている数々のエピソードと重なる。

大塚さんは、34歳のときのバスの事故がもとで、一年半におよぶ治療の後1943年に左脚上腿部から切断という不運に見舞われる。戦後の1947年―49年にも、結核で3回におよぶ左肺の大手術をうけている。「近代欧州経済史序説 上巻」「宗教改革と近代社会」「近代化の人間的基礎」などの著作はこうした苦難のなかで出版されたものだ。

荒神橋から鴨川下流方向をのぞむ

幼いころから病弱だったわけではない。「子どものころは、悪かったんですよ」とご本人がよくいうくらい元気者だった。先年、楠井敏朗さんの『大塚久雄論』(日本経済評論社 2008年)におしえられ、京都御所の西にあった大塚家のあたりを起点にして、通学路を歩いてみた。地図でみると、同志社幼稚園から京都府立師範付属小「第二教室」は御所の北方向、旧制京都1中から旧制3高は御所の東方向にあたる。

旧武徳館(重文)は平安神宮の西側にある

とくに中学からの7年間は、それなりの距離を歩いている。新町通りの自宅から蛤御門をはいり、御所を横切って清和院御門からでる。そこから荒神橋をわたって東大路通りにいたるコース。柔道の稽古に通った武徳館も同じくらいの距離である。この世代の人の多くがそうであるように、若き日の大塚さんもまた「歩く人」だといってよい。病気とたたかった大塚さんが89歳の長寿をまっとうできたのは、こうした頑健さあってのことだろう。

内田義彦さんが、大塚さんには極端な体系志向の一方で極端な細部への凝集があり、その両者が微妙にバランスしている、という意味のことをいっている。(大塚久雄『生活の貧しさと心の貧しさ』みすず書房 1978年 324頁)。こうした個性的な仕事を支えているのは、合理的な生活態度がうんだ独自の研究スタイルである。

断片的なおしゃべりのなかに多くのヒントがあった。「これは」という本にぶつかると、繰り返しくりかえし暗記するほど読むということもそうだし、談たまたま執筆の仕方におよんだとき、推敲の大切さについて「わたしは書き上げた原稿をいったん引き出しにいれておくことにしています」と語ったこともそうである。

これは『生活の貧しさと心の貧しさ』(246頁)でも言及されていることだが、ベッドのなかで目が醒めかけて、うつらうつらしながら完全に醒めきらないでいる、その境目あたりに、日常の醒めた生活では思いもつかないような研究上のアイディアが浮かんでくることがある、などともきいた。

わたしにとっては、研究室での1時間余りのおしゃべりが特別に贅沢な時間で、ここでえられたものの大きさは、はかりしれない。

大塚久雄先生と静謐な空間 (2)

教室のある本館1階の廊下

1980年にICU高校に移ってから、私が真っ先にしたのは、大塚久雄先生(西洋経済史)の講義にでることだ。もちろん経済史の学び直しという意味もあるが、自分が教える立場になったこともあり、授業者としての大塚さんにふれたいと思ったのだ。そういう目でみると、講義の受けとめ方も以前とちがってくる。ちなみに、長幸男氏は「大塚先生の講義は知的興奮であると共に高座の名人の講釈のように楽しくさえあった」と追悼文で書いている。(「朝日新聞」1996年7月11日付)

教室は本館一階にある。廊下の腰壁に花崗岩を貼ったこの建物は、もともと中島飛行機の中央研究所だったそうで、幻の特攻機といわれた剣がここで開発されている。そのうす暗い廊下を、羽織袴の大塚さんが助手の梅津順一さん(青山学院大学教授)と歩いてくる。

教室―備品はかわっても雰囲気は残っている

教室に入ると、両手の松葉杖を大きな教卓の傍らにおき、木製の固い椅子に腰をおろす。そして持参した1冊の本を右手奥におしやるようにおく。講義ノートをもたず、持参の本をひらくこともないから、それがどこか儀式のような趣になる。教室をひとあたり見わたしたあと、学生の顔をみながら、いつものゆったりしたリズムで話しはじめる。

大塚さんの講義は、話したことがそのまま文章になるくらい周到に構成された語りの世界である。だから1時間の講義がおわると、あたかも歴史の時間と空間を旅してきたかのような、心地よい疲れが残る。1979年に出版された『歴史と現代』(朝日選書143)の第1部が、当時の語り口の妙をよく伝えている。スペイン、オランダ、イギリスの歴史的盛衰を相互に影響しあう大きなうねりとして描いたものである。

教育研究棟の1階に研究室がある

こうした講義にはなみなみならぬ準備が必要だから、それが70代になった大塚さんの体力をひどく消耗させる。あくる日は終日ベッドに横たわっているのだという。研究室でのおしゃべりで、その様子が少しずつわかってきた。2日目から、次のプロットを考えるが、その作業はすでに早朝のうつらうつらした状態からはじまっている。一見して平明にさえみえる大塚さんの講義は、それだけの準備と熟成のすえに生まれるものだった。

大塚さんの講義からうけたインパクトについて、2001年につぎのように書いたことがある。

「5年間におよぶ聴講体験を通じて、優れた講義というものが、聞き手の内部で眠っている知識を刺激し、知識と知識の間につながりを与え、構造化し、豊かなイメージを伴って内的世界を押し広げる力をもっていることを実感した。

わけても印象的だったのは、聞き手のイメージを喚起する引例や挿話の力である。巧みな引例や挿話は、たんなる例示を超えた意味をもっている。事実の群れの中から注意深く選ばれ、固有の文脈の中に適切に配置された事例というものは、イメージの飛躍を助けるスプリング・ボードの役割を果たすものである。それはあたかも、現象世界を分析するためのキー・コンセプト(鍵概念)が頭の中に徐々に結晶化していく過程で、その触媒の働きをするかのごとくである」。(「教育における演劇的知」224-225頁)

講義の後、いつも数人が大塚さんとのおしゃべりに同席する。だから私には、大塚さんの講義と研究室での座談がセットになった一日である。こうした刺激をうけながら、獲得型授業論の成立にむけた準備が、私のなかでごくゆっくり整っていくことになる。

渡辺保男先生と古畑和孝先生

ドクター・コースに進むとき、ICUに3回目の入学金を払った。後日、渡辺保男教授(政治学・行政学)に「博士前期課程から後期課程にいくのに、入学金をはらう必要があるんですかねえ」と苦情をいった。ICUは「アドバイザー=アドバイジー」制度をとっていて、渡辺さんは、私が学部に入ったときからのアドバイザーだ。

しばらくして「淳くん、入学金のことだけどさあ、あれは払わなくてもよくなったよ」と知らせてくれた。黒縁メガネに黒っぽい三つ揃いのダンディだが、ちょっとべらんめいなところがある。対応の早さに感心していると「でも、いったん納めたものは返せないそうだから、あきらめるしかないね」と続ける。こうして、GSPAに3回目の入学金を払った人という希少な存在になった。

1980年から、私の関心は急速に教育実践の研究に傾斜していく。ICU高校に移って「帰国生ショック」の洗礼を受けたのが引き金である。日本大学に移るまでに6つの大学で非常勤講師をしたが、ルーテル学院大学の「近代思想の源泉Ⅰ,Ⅱ」を例外として、すべて教育学関係の科目である。

大学で教えるきっかけを、1990年の春に渡辺さんがつくってくれた。学長室を訪ねたら「きみもそろそろ大学で教えた方がいいね」といった。そうはいっても、国際教育のポストなどほとんどない時代である。ただ、東京大学の古畑和孝教授(社会心理学)なら、私の問題関心を理解してくれるだろう、という

おそるおそる東京大学文学部の研究室をノックすると、古畑さんが椅子からすっくと立ちあがった。まっすぐ目をみて明瞭な発声で話す紳士である。初対面の私に、研究者としての自身の歩みを1時間かけて話してくれる。古畑さんは、法学部コースから一人はずれて新設の教育学部に進んだ人だ。文学部社会心理学専修課程の独立とともに招聘され、10年かけて文Ⅲの中の人気コースにまで育てている。その開拓的な歩みを語ることで、まだ先の見えていない私の研究を鼓舞してくれたのだ。

翌々年、古畑さんは東大を退官して帝京大学に移る。その前から沖永荘一総長になんどもじか談判して、非常勤講師着任の可能性をさぐり、とうとう2年越しで留学生別科にたどり着いた。総長じきじきの指名とあって、別科のスタッフは、一体なにごとが起こったのかといぶかったらしい。

留学生別科の4年間が、新しい異文化体験だった。中級「日本語読解」で、佐和隆光「豊かさのゆくえ―21世紀の日本」(岩波ジュニア新書)を読みディスカッションするなかで、アジアの留学生たちの生活と意見にじかに触れたのだ。それが『国際感覚ってなんだろう』(岩波ジュニア新書)に反映されている。

たった一人の後進にチャンスを与えるために、ここまで努力と知恵を傾注できるものなのか。この間の経緯を思いだすたびに、両先生のおたがいにたいする信頼の厚さを思い、また深い感謝の念を禁じ得ないのである。

辻清明先生と民主主義

大学に入学してはじめて買った本の一冊が、辻清明『政治を考える指標』(1960年 岩波新書)である。赤鉛筆で傍線を引きながら読んだその本の著者が、大学院の指導教授になった。

『新版:日本官僚制の研究』(1969年 東大出版会)で知られる辻清明先生は、1913(大正2)年生まれ。1974年に東京大学法学部を退官してICUに着任する。長身の先生が、薄い抱えカバンをわきにはさんで教室に現れる。中高の顔立ちに丸縁のメガネ、襟元のつまったグレーのスーツ、その風貌は私たちがおもいえがく学者の姿そのままである。机に広げたノートを見ながら淡々と講義がすすむ。

講義のあとおしゃべりの輪ができた。穏やかな語り口に独特の諧謔味があるのだが、その味わいは、辻さんの文章からも感じられる。たとえば「公職私有観」を、こんなふうに説明する。「山内一豊の妻が、公務で夫の用いる馬匹の費用を、みずからの持参金でまかなったという逸話は、行政官と行政手段の分離が存していなかった事実を語るものであろう。今日の役所において、いかにヘソクリの巧みな公務員の夫人といえども、官庁用の自動車を、夫の成功のために私費で調達することはおそらく不可能でもあるし、またそのように考えること自体がこっけいでもある」。(新書118-119頁)

この本で辻さんは、二大政党制ではなく多党制が、小選挙区制ではなく比例代表制が日本にとって望ましい、としている。国民の自発性を尊重せず、利益の多元性をおさえるために抽象的な国家観念を乱用し、野党の意義を認める統合の原理を理解しない。そうした保守政治にたいする批判は、民主党と自民党のいまをも予見するものである。

研究室のおしゃべりで、こんなことをいった。「民主主義といえば、制度や思想として語られることが多い。だが、もっと手続き(procedure)の重要さに目を向ける必要がある」。辻さんは、システムの運用を通じてこそ民主主義が具体的なかたちで定着していく、というのだ。この言葉が、大きなヒントになった。

私は政経・倫理の教師として民主主義の制度と思想を講じている。しかし、果たしてそれで十分なのか、どうやって民主主義を実体化できるのか、という問いが生まれたのだ。この問いが、帰国生の教育体験、M.ヴェーバーの理念型の概念とむすびつき、やがて獲得型授業論に結実することになる。

大学院生と高校教師、二束のわらじをはいて修士論文に取り組んだ。タイトルは「J.-J.ルソーにおける政治制度論の展開 ―『社会契約論』と『コルシカ憲法草案』を中心に-」。「草案」にかんする先行研究が少なくて難渋したが、「契約論」の原理を「草案」でどう適用したかという枠組みをたて、その特質を分析した。

1977年の夏に、コルシカ島を訪問したのが、風土のイメージ形成に役立った。ルソー本人が望んでかなわなかった旅である。トゥーロンから船でコルシカ島にわたり、アジャクシオからバスティアを鉄道で横断、イタリアのリヴォルノに上陸するコースにした。ナポレオンを輩出したことで知られる島だが、2両編成の小さな列車が、2千メートル級の山なみに分け入ると、たちまち荒涼とした風景になる。むき出しの岩山、緑のあいだに顔をのぞかせる赤い岩肌。沿線の小さな耕地にはトマトとトウモロコシ、駅という駅はほとんど無人である。メリメの「マテオ・ファルコーネ」の世界を髣髴させる。

思想史が専門ではないから、内容は私のやりたいことでよい、ということだった。そのかわり文章の論理性には厳格で、もっていった原稿にその場で朱を入れる。それは論文の完成度をあげるというレベルの指導だから、限りなく完成稿に近いものを持っていく必要がある。だから、辻先生の指導は、武田清子先生とは別の意味で厳しいものだ。

この年、GSPAの博士課程にすすんだ院生は、私をふくめて3人である。

大塚久雄先生と静謐な空間 (1)

1970年の春に、リベラル・アーツの教育を掲げるICUに入学した。指導教授の武田清子先生は、リベラル・アーツの特質を「自分自身から解き放たれて、他者・多文化と出会うこと」と定義している。

いまICUの学年定員は600名ほどだが、私の入学した18期でいうと、4月入学生は126名。新宿や渋谷の街中ですれちがうと、お互いに気づいてしまうような規模だった。

理学館(N棟)の外観は昔のまま

4月23日に入学オリエンテーションの一環で記念講演があった。演題は「科学における専門化と総合化」、講師は欧州経済史の大塚久雄先生である。キャンパスの北西にある理学館の階段教室に登場した大塚さんは、羽織袴の正装である。ICUという洋風の響きのある大学で和服姿というのも不思議だったが、そのうえ両手に松葉杖を握っている。

1968年に東大経済学部を退官した大塚さんは、翌年、集大成となる『大塚久雄著作集』(岩波書店 全10巻)を刊行、この春ICUに着任したばかりだった。武田清子先生による講師紹介のあと、なにもないテーブルにすわって、ひとあたり会場をみわたしてから、ゆったりしたリズムで話しはじめた。

N棟の入り口

穏やかで凛とした語り口にひきこまれ、会場は水をうったように静かなのだが、なにせ抽象度が高い。これから話すことは、諸君にはまだよく分からないかも知れないが、やがて分かるときがくるだろう、と前置きした通りの展開になった。

おおよそこんな話だ。ひと口に専門化といっても、専門化には理論的専門化と実践的専門化がある。これまで後者のほうが一段低くみられる傾向にあったが、次第に前面にでるようになった。いまではたんなる専門化をこえた総合化、また理論的知識の総合ということが避けがたい流れである。一方で、実り豊かな総合のためには、専門化もどんどん進める必要がある。

科学研究の背後には一定の思想が控えている。しかし、思想や宗教のかたちで現れる価値自体は科学の対象となりえない。だから“科学的”という語を聞いて文句なしに頭を下げるのではなく、科学の名で説かれる因果連関がどのくらい可能であるのか、それを支えている法則的知識そのものを用いて検証する価値批判の方法(M.ヴェーバー)を採用する必要がある。そうした科学の立場にたつ物の見方や考え方の基本を学ぶのに、大学は相対的に適した場所である。

階段教室の中段で聴いたこの講演が、私の体験した最初の学術講演である。のちに小さなパンフレットになって学生に配布されたから、何度か読み返してみた。いまは『社会科学と信仰と』(みすず書房、1994年刊)にも収録されている。興味深い事例がふんだんにでてくるのが大塚さんの講義の特徴だが、このときの講演は、18歳の若者相手にしては、エッセンスの方がやや前にでているようにみえる。当時は気づかなかったが、この講演はリベラル・アーツにむかう方法意識を鮮明にうちだしたものだと考えるようになった。

これが大塚先生との最初の出会いということになる。私はとてもうかつな人間で、生き方もふくめて、大塚さんの影響を強く感じるようになるのは、この日から10年以上たってからである。

佐竹寛先生とゼミナール

私を西洋政治思想史の研究に導いてくれたのは佐竹寛先生(モンテスキュー研究 中央大学名誉教授)である。先生が亡くなってから、早いもので1年がたとうとしている。先生がICUで土曜日の午前に開講しいていた「西洋政治思想史Ⅰ.Ⅱ.Ⅲ」(学部の専門科目)は、プラトン、マキャベリ、ホッブズ、ロック、ルソー、J.S.ミル、エンゲルスなどの古典を読むゼミナール形式の授業だ。

私は、ちょっと背伸びして2年生のとき受講をはじめた。1971年はまだ大学紛争の余燼がくすぶっていたころで、20人にみたない受講者のなかに留年組が幾人もいた。この授業では、報告者でなくてもブック・レポートをだすことになっている。仕事の遅い私は半徹夜でレポートを仕上げ、本館前の芝生を横切って、第1男子寮から森閑とした教室までの道を歩くのがつねだった。

新学期がはじまったばかりのころ、課題レポートを持たずに教室にきた上級生がいた。「先生はどうするのだろう。」と思っていると、ちょっと間をおいて、「あなたはこの教室にいる資格がないのででていってください。」と静かに、しかし断固とした調子で通告した。プリンストン大学に留学したとき、ゼミナールの教育効果に目を開かされたということだが、2度目の海外留学をへて、それは先生の確信になっていたようである。

こう書くと、いかめしい雰囲気の教師をイメージするかもしれない。たしかに、40代後半の先生は颯爽としていた。ただ、いかめしいというよりは、笑顔に愛嬌のある温厚な紳士という言い方のほうがあたっている。サイドベンツの上着、腰を軸にしてすっと立つ様子は、どこかオペラ歌手の立ち姿を思わせる。

佐竹先生は、陸軍幼年学校、陸軍士官学校をでた職業軍人として23歳のときに終戦を迎え、その年に父君を亡くしている。さまざまな肉体労働で一家の生活を支え、「本当のことを知りたい」と改めて中央大学にはいったときには28歳になっていた。

後年、中央大学の本務のほか、市川房枝さんの婦選会館の市民講座を39年間担当し、多くの市民運動家、地方議員を育てている。驚くべき持続力である。ICUの授業、中央大学のゼミ合宿、婦選会館の講座、どこでも聞き役に徹しているように見えたが、そうしたスタイルは、民主主義にたいする持続する志と表裏の関係だったのではないか、と思えてくる。

先生の来歴については、中村孝文さん(武蔵野大学教授)が編んだ「佐竹寛先生 年譜・主要著作目録」がたくさんのことを教えてくれる。というのも、先生自身が個人史について多くを語らず、随想の類も残さなかったからである。陰影にとんだ人生の歩みを語り伝えることの困難を前にして、生(なま)のかたちで体験談を語ることへのある種の断念があったのではないか、というのが私の想像である。

ただ、先生がいつになく雄弁に語ったことがある。1990年の秋、熊本から天草半島まで泊りがけでドライブしたときだ。佐竹先生、中村さん、私の気のおけない3人旅である。旅の途次、戦後に遭遇した価値観の転換、学問を志したいきさつ、留学中にご母堂を亡くして経験した精神的危機などについて、はじめてゆっくりと聞いた。旅のゴールは崎津天主堂で、海がすぐ近くまでせまる畳敷きの小さな教会である。その祭壇をみつめながら「私はカソリックの信仰をもっているのです。」とうちあけられたときは、きっとこの慎ましい空間が、先生の口を開かせたのだろうと感じた。

私は、佐竹先生から、古典を介して自分の人生と向き合う仕方を、また学生の発言をまってかれらの良さをひきだすゼミ運営のスタイルを学んだといえる。