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35周年記念選集

作文集 001

先日、第36回「海外子女文芸作品コンクール」(主催:海外子女教育振興財団)の最終審査を終えたばかりだが、例年の審査と並行して、35周年記念選集(仮)『作文集 海外で暮らして』の刊行準備もずっと続けてきた。

昨秋の最終審査会で出版の話がでて、年を越してから、企画が本格的にスタートした。とりあえず、これまで刊行された作品集『地球に学ぶ』を書斎に全部並べて、本のアイディアを練ることにした。作文集を編む仕事は、ICU高校生の体験を集めた本以来のこと、25年ぶりである。『世界の学校から』(亜紀書房)のときの経験が、選集のコンセプトづくりに大いに役に立った。

とはいえ、もともと選ぶという作業自体がシンドイうえに、もとになる作品の数がけた違いに多い。それやこれやでかなりの時間を要したが、100編近い収録作品をリストするところまでなんとか漕ぎつけることができた。

日本の国際化、グローバル化がとめどなく進行している。応募作品の傾向にもそれが反映していて、近年、ほとんど日本で暮らした経験がないという子どもの作品が目立つようになり、国際結婚家庭の子どもの作品も確実に多くなっている。読んでいると、未来の日本人像が先取りされている印象である。

海外で暮らすということは、文化的マイノリティーになる体験をすることと同義である。言葉のわからない土地にいけば、他人の親切がひときわ身に染みる。その分、感性も柔らかく、観察眼も鋭くなる。

これから海外に赴任する家族はもちろん、もっと幅広い層の人たちに、海外生の体験にふれて欲しいと思う。それぞれが味わい深い作品だというだけでなく、日本で暮らす外国人の目で日本をみたらいったいどう見えるのか、それを考える手がかりにもなるだろうし、何よりも、これらの作品が、”私たちの今”、”日本の今”を相対化して眺めるための鏡の役割をしてくれる、と思うからだ。

コンクールは、詩、短歌、俳句、作文の4つのジャンルで、それぞれの分野の専門家が審査する。亡くなった長田弘さんが、16年間(1997~2013)、詩の審査にたずさわり、簡潔で奥深い作品評を書き続けた。今回は作文の選集ということだが、長田弘編『ラクダのまつげはながいんだよ』(2013年 講談社)が詩のジャンルの選集である。この本も良い。

1980年に、コンクールの最初の作品集が刊行されている。ちょうど私がICU高校に就職し「帰国生ショック」に遭遇した年のことである。それもあって、大河のような作品群を通読するという作業が、否応もなく、自分の35年の歩みを振り返る機会となった。

KLで“にほんご人フォーラム”

日本人が寄贈した建物という

日本人が寄贈した建物という

今年の“にほんご人フォーラム(JSフォーラム)”は、マレーシアのクアラルンプールで開催された。ツインタワーに象徴されるクアラルンプールは、思っていたよりもずっと活気のある都市だった。

国際ユース・センターに、6ヶ国(タイ、マレーシア、インドネシア、ベトナム、フィリピンそして日本)の高校生・24名が集まった。まず、彼らが4つの混成チームに分かれ、お互いに知り合うことからはじめる。それから1週間かけてプロジェクト学習を展開し、最後にその成果をグループ・プレゼンテーションとして発表する。取り組むテーマが「思い込み」とあって、例年のテーマよりぐんと抽象度が高い。

ミニ・マレーシアにある伝統住宅の内部

ミニ・マレーシアにある伝統住宅の内部

さてどんな発表になるのかと心配半分で見守ったが、それぞれの国から持ち寄った衣食住や風俗にかかわる具体的な情報をつきあわせたり、プログラムの途中でやった施設「ダイアローグ・イン・ダーク」でのブラインド体験をふり返ったりして、思い込みがどんなふうに生まれるのか、彼らなりに解明しようとしている。

ミニ・マレーシアでは伝統舞踊も見学

ミニ・マレーシアでは伝統舞踊も見学

終わってみれば、クイズあり、スキットありの賑やかな発表で、4チーム(各10分)の発表が、どれも生き生きと躍動していた。クアラルンプール周辺の高校から招待された300名近い日本語履修生も大満足の報告会になった。

準備過程をみていると、いまどきの高校生たちは、スマートフォンでどんどん追加情報をえている。たくみにPPTもつくる。都会の学校から選ばれた生徒が多いせいもあるだろうが、いまは、国を問わず、若者を取り巻くメディア環境が早い勢いで変わっていることが実感される。

マラッカのオランダ広場

マラッカのオランダ広場

今年で4回目を迎えたフォーラムだが、初めての海外開催というだけでなく、今回はいろんな新機軸があった。その一つは、現地の先生たちがタッグを組み、国際交流基金の先生と一緒になって、混成チームの指導に当たったことだ。マレーシアの3人の先生たちは、プログラムの間中、ずっと日本語だけで生徒の指導を続けた。なんともみごとなものである。

左から、ウェイ、中野、アン、スガンの各先生

左から、ウェイ、中野、アン、スガンの各先生

それで私は、改めて1999年の夏に代々木のオリンピックセンターでやった「日韓米グローバルクラス」を思い出した。48名の生徒が、「大都市東京と自然」という大テーマのもとで、演劇的プレゼンテーションの創造に挑戦するプログラムだ。あのときも、韓国の権泰奎先生、権俊先生のお2人が、日本語だけ使って3ヶ国の生徒を指導してくれたものだった。

16年という歳月を隔ててはいるが、グローバルクラスと同じコンセプトをもつ活動が、こうしてクアラルンプールの地で実現する様子を目の当たりにすると、やはり感慨深いものがある。

 

抒情の原点―啄木と函館

函館公園 階段の上に噴水広場がある

函館公園 階段の上に噴水広場がある

フィールド・ワークの合間をぬって、石川啄木の居住地跡を訪ねた。啄木は、1907(明治40)年の5月5日から9月13日にかけて、132日間函館で暮らしている。故郷を離れてちりぢりになった家族がこの地で合流し、6畳二間の長屋でつかの間平穏な日々を過ごした。その場所が、函館山の東麓にある。「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」で知られるあの青柳町である。

居住地跡とはいっても、民家のまえに白い看板が立っているだけだ。ただ、そこから150mばかりゆるい坂をのぼった先の函館公園に、啄木の字を集字して刻んだ歌碑がある。清涼の気がみちる広い敷地に、噴水のある広場、児童遊園地、市立博物館などが点在するよく手入れされた公園である。その広場に面して、松とオンコの木陰に、はき清められた碑がひっそり立っていた。

碑面の文字

碑面の文字

この歌が収録された『一握の砂』は、わたしの抒情の原点である。いまも何かの拍子にひょいと浮かんでくる歌がいくつもある。東北自動車道を秋田に向かって走るたび「やはらかに柳あおめる 北上の岸辺目にみゆ 泣けとごとくに」がでてくるし、盛岡の駅頭にたつと、なぜだか「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」が浮かんでくる。それは心の習慣のようなものである。

この習慣は、中学生のころにはじまった。文学への憧れ、強い自負心、友情、恋、涙、漂泊、望郷の想い、貧苦、病、夭折など、1960年代初頭の中学生の琴線にふれる要素が、啄木の世界にあふれていた。

『一握の砂』の冒頭にある「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」は函館の大森浜を詠んだものと習ったし、その当時の愛唱歌が小林旭の「北帰行」だったから、両方があいまって北への思いが強くなった。当然のこと、漂泊の地は「北」でなければならない。

近くに亀井勝一郎の文学碑もある

近くに亀井勝一郎の文学碑もある

もう一つの愛唱歌・石原裕次郎の「錆びたナイフ」がその気分を助長した。「砂山の砂を指で掘ってたら、真っ赤に錆びたジャックナイフがでてきたよ」の砂山、これはもうどうしても北の海岸でなければならない、と思った。

のちに、啄木の「いたく錆びしピストル出でぬ 砂山の 砂を指もて掘りてありしに」にインスピレーションを受けて作られた歌詞だと知るに及んで、私の思い込みもそう的外れではなかった、と感じたことである。そんなこんなで、いよいよ「北=函館」のイメージが私のなかで強固なものになった。

1907年の大火で、勤め先も書き溜めた原稿も失った啄木は、函館を去り、札幌に向かうことになる。函館市立博物館に1936(昭和9)年の大火にまつわる展示コーナーがある。それによると、明治からこの昭和9年の大火まで、千戸以上焼失した火事が10回あり、百戸以上焼失した火事にまでひろげると都合26回おきている。強い海風が火勢をます地形であることと、市街地に粗末な建物が密集していたことが事態を悪化させたのだという。

大森浜 右手が立待岬方向

大森浜 右手が立待岬方向

函館市立文学館にいってみたら、2階のフロア全部が石川啄木のコーナーになっていて、自筆の原稿やら手紙やらがたくさんでている。なかでも1908(明治41)5月7日付の森林太郎宛書簡がひときわ目をひいた。道内を転々とした啄木が、この年の4月5日に最後の地である釧路の新聞社を辞し、家族を北海道に残したまま、ひとり船上の客となった。東京で創作活動をすることへの憧れに抗しがたかったのである。この手紙は、上京した啄木が、金田一京助の友情にすがって、本郷菊坂の赤心館に下宿していたころのものである。

強いプライドと不安、それらを二つながらに抱えて東京にやってきた啄木、その心の揺れが、巻紙に綴られている。船は横浜港についたのだが、そのまま東京にいく勇気がでない。気圧された気分のまま横浜で一泊し、それでなくとも貧しい路銀をさらに減らした、と述懐している。作家・森鴎外を意識したせいだろうか、友人たちに宛てた闊達な手紙とは明らかに違う文体である。

このころの啄木は、不遇のうちにあって困窮がいやます時期である。見学者のだれもいない夕暮れの展示室。啄木の丁寧な文字を読み進めるうち、わたしは心底切なくなった。

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翌日、本郷新のつくった「石川啄木像」(1958)をみに大森浜の海岸に向かった。タクシー・ドライバーは、初老の人である。新聞や週刊誌はあるが、文庫本を手に客待ちしているドライバーというものにはじめて会った。

函館駅前から市街地をぬけ、大森神社をすぎて、海岸沿いをはしる漁火通りにさしかかったとき、くだんのドライバーに「どうしてこんなに啄木が大事にされているんでしょう」と聞いてみた。滞在日数わずか132日の作家をこれほど厚遇する、函館市のもてなしは、いささか度が過ぎていやしないか、と思ったからだ。

「たしかに、さあ明日からがんばろう、となる歌ではないですね」といってから、ちょっと間があって、「でも、函館の人のなかに、そういう歌に共鳴する気風があるんでしょうかね」という答えが返ってきた。

それでわたしはすっかり嬉しくもなり、また満足もしたのだった。

にほんご人フォーラム2014

去年と今年の講師陣-坪山、ゲスリング、根津、有馬(左から)の各先生

去年と今年の講師陣-坪山、ゲスリング、根津、有馬(左から)の各先生

昨日、国際交流基金日本語国際センターで、アジア6カ国(インドネシア、タイ、フィリピン、マレーシア、ベトナム、日本)の高校生たちが“便利なものの新しいアイデア”を発表する会があった。24名(各国4名)の若者が混成チームをつくり、4日間の準備期間をへて、日本語でプレゼンする。プロジェクト学習の締めくくりのプログラムである。この4日間、生徒のプロジェクト学習の進行具合を観察・分析するという臨床的な方法で、教師チームの研修も並行して行われている。

「便利さを考える」というコンセプトは、去年と同じだが、今年は粘土、ポスター、パワーポイント、演劇的手法などを使って、独自のアイデアを提案するかたちだ。

4チームから、温冷両方の飲み物・食べ物を同時に保温できる「〇〇すいとう」、病人がベッドで寝たままi-フォンを使える「スーパー・ピロー」、混雑に負けない2階建て多機能バス「ピカチュウ・バス」、旅先で便利な「ミニ・アイロン」などのアイデアが、彼らが何を手がかりにそれを発想するにいたったのか、という経緯と一緒に発表された。

初日は、聞き取れないほどの小声でやっと会話を交わしているといった状態で周囲をはらはらさせたが、心配無用、混成チームのメンバーたちは日を追って活発さを発揮し、本番では大盛り上がりの発表をみせてくれた。

ITの活用が発表の条件になっているので、彼らがパワーポイントを使うのは当然として、効果的に動画を組み込む発表も目立った。選ばれた高校生たちということもあるが、彼らをみているかぎり、6カ国の生徒のメディア環境に大きな落差は感じられない。世界の情報化のスピードがそれほど速いということだろう。

「にほんご人フォーラム」は、10年計画で、アジアに「にほんご人」のネットワークをつくろうという気宇壮大なプロジェクトである。私はプロジェクトの評価を担当している。今回で第1フェーズの3年を終え、来年は海外での開催になる。最初はマレーシアだという。

これからどんな新しい展開がみられるのか、ワクワクものである。

正岡子規の研究授業

ぼっちゃんバッグはときどき旅先にもっていく

ぼっちゃんバッグ ときどき旅先にもっていく

埼玉県小川町の小学校で、教育実習生・尾崎佳奈さんの授業を参観した。6年生の国語で、正岡子規の句「柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺」を鑑賞する。

俳句の授業に行き合わせるのは珍しい。昔、ニューヨーク郊外の補習授業校で、芭蕉の句「古池や 蛙飛び込む 水の音」の授業に参加したことがある。この句に漂う湿潤な空気感、それと広い芝生に囲まれたアメリカの校舎のカラッと乾いた空気感がなんともミスマッチで面白かった。

ここ小川町は和紙の里で知られる。学年1クラスの小さな学校は、周囲を小高い山にかこまれて静かだ。ときは秋。子規の句の鑑賞にはうってつけの環境である。

子規の病が小康を得て奈良に旅した折に、お礼の心をこめて漱石につくった句だという。尾崎さんの授業は、熟した柿の実と夕方の空がともにオレンジ色で、その色彩が呼応しているという解釈だった。なるほど。ただ私は、この夏、東大寺の大鐘・奈良太郎を見てきたばかりだったから、子規がきいたであろう鐘の余韻の方に心が動いた。

大人になってから句作というものをほとんどしたことがないのだが、二つだけ例外がある。その一つが四国松山に旅したときの句で、鐘の音をテーマにして詠んだ。松山の町のあちこちに俳句ポストがあるので、それに刺激されて作ったのである。2006年の2月だったかと思う。

「石手寺や 鐘のひとつき 梅かほる」。雨上がりの道を石手寺まで行き、境内で鐘をついたところ、そのうなりが朝方の清澄な空気をふるわせ、梅の香がにおいたったという素朴な句である。

俳句ポストは2カ月ごとに開函されるらしい。忘れたころに、地元新聞の記事と入選通知が送られてきた。「「泉」主宰 上原白水 選」とある。2006年の2~3月分の投句が3月31日に開函されている。なんと第217回の開函である。作品数は1331句。このうち特選3句と入選20句が新聞に掲載されているのだが、私の句も入選20句の先頭にあった。

7月になって、こんどは過去1年間の入選作が載った『松山市観光俳句ポスト入選句集 第37巻』(松山市産業経済部観光産業振興課)が届いた。それによると俳句ポストに投函された平成17年度までの作品累計は34万1207句、投句者数は20万1464人にのぼる。記念品として、坊ちゃん列車がデザインされた手提げ袋まで同封されているではないか。

土地の文化というのか、子規の力というべきか。根岸の子規庵訪問などいくらか助走があったにしても、松山にいって詩心を刺激されたことが、思いがけない展開をもたらした。わずか17文字のなかに、色、音、香り、気分、動作、そして人生や歴史までも凝縮してしまう俳句というものの凄さを、今回の授業参観で改めて感じたことだった。

にほんごじんフォーラム2013

タイ、ベトナムの先生たちと

タイ、ベトナムの先生たちと

9月17日に、アジア6カ国の高校生が、“便利さ”をテーマに日本語で研究発表する催しがあった。会場は、北浦和の国際交流基金日本語国際センター。「にほんごじんフォーラム2013」(国際交流基金・かめのり財団主催 9月10―18日)の一環である。

参加したのは、日本の高校生4名とインドネシア、フィリピン、ベトナム、タイ、マレーシアの日本語学習者たち20名。4つの混合チーム(各6名)が、「からだが不自由な人にやさしい町」「交通に便利なもの」などそれぞれトピックを選んで発表した。スライドで便利グッズをみせたり、スキットで場面を演じたりと、観客を楽しませる工夫がされている。

「日韓米グローバルクラス」(国際文化交流推進協会主催 1999年 オリンピック・センター)で、3ヶ国の高校生に“大都市東京と自然”というテーマの演劇的プレゼンテーションをしてもらったことがある。多文化・多言語のプロジェクト学習である。プロジェクト学習という構造は同じだが、今回は日本語でプレゼンテーションするところが特徴だ。

そもそも「にほんごじんフォーラム」には、10年かけてアジアに日本語を話す若者のネットワークをつくろう、それをプロジェクト学習での共通体験を通して実現しよう、という壮大なプランがある。そのためには、若者の交流の場をつくるだけでは十分でない。プロジェクト学習を指導する先生たちの養成が大事になる。

そこで昨年のフォーラムでは、まずアジアの先生たちが“お弁当”をテーマにプロジェクト学習を経験した。今年は、生徒の学習活動と先生たちの研修を入れ子にしている。日本語センター側が指導するプロジェクト学習をアジアの先生たちに観察してもらい、それを手がかりにして、各国別の教育プログラムを提案してもらうのだ。

今年のフォーラムは、日本側にとっても大きなチャレンジである。もっぱら教師研修を担ってきたスタッフが多国籍の高校生を指導するだけでも大変なのに、プロジェクト学習の指導ができる教師も育てる、という2重の課題を背負ったからだ。

「にほんごじんフォーラム」は、参加者みんなが手探りであるところが面白い。未知の領域にふみだすこういう実験的取組みはワクワクものだ。アジア5カ国でこれからどんな日本語教育の実践がうみだされるのだろうか。

企画がはじまったときから外部評価委員としてウォッチしているが、これまでもっぱらプロジェクトをうごかす側で仕事をしてきたものだから、ついつい実践者や生徒に寄り添いたくなってしまう。距離の取り方を模索しながら、この新しいチャレンジをしばらく見守りたいと思っている。

3.11と短歌の力

獲得研レクチャー・シリーズ第5回のスピーカーは、辻本勇夫氏(文化交流工房代表 前国際交流基金NY事務所長)だった。4月20日の講演「Voices from Japan 日本の声を世界に届ける」にふれてから、ずっと表現の回路ということについて考えている。

辻本さんは、朝日歌壇でとりあげられた被災地の短歌を、新古今和歌集を専門にするアメリカ人研究者と協力して翻訳し、ニューヨーク、カンザス、サンフランシスコ、東京で展覧会をひらいてきた。きっかけの一首は、美原凍子さん(福島県)の、次の作品だったという。

生きてゆかねばならぬから 原発の 爆発の日も 米を研ぎおり

歌こそ「日本人の胸のうち」をつたえるものだという着眼は、長く文化交流にかかわってきた辻本さんの卓見である。私たちはいま100首を超える短歌を日英両語でよむことができる。

辻本さんはこの講演で、人はなぜ苦難のときに詩をつくるのかと問いかけ、詩が飾りものなどではなく人生にとって本当に必要なものだからではないか、という。

ふるさとは 無音無人の町になり 地の果てのごとく 遠くなりたり

「ただいま」と 主なき家に 声かける 懐かしき匂いに 声あげて泣く

これらの歌を書いた、半杭蛍子さん(福島県)は、ASIJの高校生たちに「震災からもう2年目の冬をむかえるんですけど、寂しさが薄れるのかなと思ったら、まだ薄れないのね。かえって悲しみが深くなって。そんなどうしようもない気持ちを短歌に表すことによって、自分がすごく救われるの」と応えている。(東京展パンフレット 33頁)

号泣して 元の形に もどるなら 眼つぶれる までを泣きます

この歌を書いた、加藤信子さん(岩手県)も、こう応えている。「避難所では全員が同じ状況でしょう? 皆が家を流されたっていう思いをしている。私だけ流されたなら、おいおいと泣くけれど、みんな同じだから、日本人は感情を表せない。・・・ああ紙と鉛筆が欲しい、食べるものより、私は紙と鉛筆がほしいと思ったのね。1週間目ぐらいに紙と鉛筆が手に入りました」。

加藤さんは続けて「私が一番望んでいるのは、やっぱり終のすみか。終のすみかに落ち着きたいの。「ここでもう安らかに死んでもいい」っていうような場所がほしい。そこで死にたい」という。(同 27頁)

辻本さんは、こうした一連の震災詩の成立は、短歌という形式(箱)があってのことではないか、という。文化的伝統のなかで育まれてきた、五・七・五・七・七の形式が、感情の表出を可能にしている。抽象化した表現を得意とする俳句に震災詩が少なく、「短くて長い」短歌に作品が多いのはそうした特徴によるからだ、とも分析している。

十月経て いまだ不明の 夫を死と 認めて従妹 ふるさとを去る

この歌を詠んだ三船武子さん(岩手県)は、こう応えている。「短歌はずっと作っていたのですけど、こんなショックなことがあると言葉も何も浮かびません。そうしているうちに私の短歌の大先輩が「何でもいいから言葉を書きなさい」といいました。そうすると不思議でね、五音か七音をつなぎあわせると短歌になるわけです。DNAでしょうね、日本人の。書くということ、手で書くということは心を働かせるっていう作用があるということを実感しましたね」。(同 39頁)

辻本夫人の京子さん(獲得研事務局)が、3.11の悲惨を伝える震災展としてではなく、歌人と読み手が心を通わせる場としてこの展覧会を構想したのだ、と語っている。31文字の向こうから、抜き差しならない状況におかれた、一人一人の人生が見えてくる。

その言葉の通り、この日わたしたちは、歌を読んでは泣き、感想を語っては泣き、歌人たちと辻本さんの交流の様子をきいては泣いた。

文化交流工房:HP http://www.voices-from-japan.org/ja/index.html

総評を書く

作文集 005

『地球に学ぶ』(海外子女教育振興財団発行)が届いた。「海外子女文芸作品コンクール」の優秀作を収載した本である。33回目のことしは、海外在住の小中学生から、詩、短歌、俳句、作文あわせて3万7千点をこす応募があり、そこから選ばれた195点が収録されている。

10年以上、作文審査にくわわっているが、本がとどくと、まず真っ先に部門ごとの選評をよむ。見開き2ページの短い文章に、作品評だけでなく、ものの見方や創作上の工夫など、選者独自のアドヴァイスが提示されているので見逃せない。

長田弘さん(詩人)はこう書いている。「「ふるまい」という日本語があります。いまはご馳走するという意味で使われがちな言葉ですが、もともとは、人の「おこない」や物の「しわざ」をいう、古くからとても重要なことばです。・・・人のもつ、あるいは物事のもつ大事な意味は、その「ふるまい」のなかに表れます。詩というのは、実は、そうした「ふるまい」を読み取って記される言葉のことです」。

これに続けて、パン屋の店員さんや現地の友だちが、あいさつをかわすときに、同じ声の高さ、同じ速さ、同じリズムで応答してくれることに注目して、ボンの人はとても音楽的だと書いた小学校4年生の作品など、5作品を紹介する。そのうえで「みんなの詩に生き生きと書きとめられている、それぞれの国での毎日の出来事のなかの、さまざまな「ふるまい」の表情。世界は、こうした日々の「ふるまい」でできています」という。

佐々木幸綱さん(歌人)は、ことしベルリン日本語補習校やジュネーブ日本語補習校などで授業したことをあげてから、「私の長男は、むかし、アムステルダム日本人学校で一年間お世話になりました。ですから、日本人学校について多少知っていましたが、日本語補習校のじっさいについては、今回はじめて知りました。片道一時間以上もかけて通ってくる生徒さんとも話しました。先生方、生徒たちの苦労はこれまで想像していた以上の、たいへんなもののようでした」と体験を披瀝する。

そして、「毎回書いていることですが、その国の名所や名物を題材にした、型どおりの作があいかわらず多いようでした。題材の選び方を工夫してもらいたいと思います」と独自の題材をみつける重要性を指摘している。

鷹羽狩行さん(俳人)は「俳句は、季語をとおして世界をとらえる詩です。通学の途中の風景や、その日に食べたもの、身につけているものなど、毎日の暮らしの中から素材を探してみましょう。季節に敏感になると、生活がいきいきと感じられます」と述べる。

そして、擬声語・擬態語のきまりきった表現をさけることや、もう一歩の作品をどう改訂するのかその添削の仕方をしめしたあと、「一度できた作品をさらに吟味し、表現を工夫することを推敲といいます。俳句としての完成度を高めるために、推敲は欠かせません。内容あっての表現ですが、内容にふさわしい表現を得たとき、ようやく作品が完成するのです」と書いている。

この本のおもな読者は、投稿してくれた小中学生、父母、学校の指導者のひとたちである。こうした幅広い年齢層の読者に届くことばで選評を書くのはむずかしい。だからいつだって悩むのだが、3人の方々の文章にふれるたび、それも私の文章修業のひとつだと思い直すことにしている。

太郎次郎社の浅川満さん

1988年の秋ごろ、遠山塾で講座をひらきませんか、という電話をもらった。『ひと』の編集代表だった遠山啓にちなむ公開講座をするのだという。それが名物編集者・浅川満さん(太郎次郎社社長)だった。小柄で丸顔、すこしくぐもった野太い声ではなす50代半ばの浅川さんは、いかにもエネルギッシュである。

帰国生の海外授業体験をリレートークで話してもらい、それをもとに本をつくるという企画がとんとん拍子ですすみ、あくる89年の1月から、9人の帰国生たちに、アメリカ、イギリス、西ドイツなど、7カ国の体験を語ってもらった。塾の担当は西野博之さん(現在:たまり場・主宰)だが、浅川さんもかかさず出席し熱心に発言する。

当時の太郎次郎社の場所は、本郷郵便局ともりかわ食堂のあいだの道をつきあたり、右に曲がってすぐのところである。瀟洒なビルの3階にある会場にむかっていると、スタッフを叱責する浅川さんの大音声が事務所の奥から階段室まで響いてくることがあった。

本づくりと並行して『ひと』にも何本か原稿をかいた。そんなこんなで、本郷通りの「呑喜」でおでんをご馳走になった。みちすがら、編集委員宅に乗り込んでとっくみあいの喧嘩をしたエピソードがでたかと思うと、つぎの話題では「ピヨコちゃんが」といったかわいらしい表現が自然に口をついてでてきたりするから、なんともいえない愛嬌がある。

氏岡真弓さんが、朝日新聞の「惜別」で「黒子の美学を裏打ちしたのは、納得しない原稿は決して載せない姿勢だ」(2008年9月19日付)と書いている。森毅の文章をボツにした話をわたしも聞いたが、あとで考えると、これは布石だったようだ。わたしのも1本ボツになった。原稿を届けたのにウンもスンもない。頼んでおいてそれはないだろうと思ったが、今となっては何をかいたかさえ覚えていないあり様だから、きっと大したことのない内容だったのだろう。

タイトルは浅川さんの発案

こうしてできた『海外帰国生-日本の教育への提案』(1990年)はわたしにとって2冊目の本である。造本は浅川さんの自信作。装丁が、杉浦康平事務所にいた谷川彰彦さん。オレンジ色で印刷された書名の周囲と編著者名が銀箔押しというモダンなもの。2色刷りでかくも変化にとむ色味がだせるのは、印刷技術の粋をこらしたからだという。この本で、獲得型授業論の骨格が固まった、という意味でも忘れがたい。

こんどは教育を論じる本を書いたらどうかといわれたが、当方にはその用意がなかった。論じることよりも授業実践をつくることの方に関心があったのだ。浅川さんとの出会いは、わたしにとって、新しい文章修業のはじまりをつげる合図でもあった。

 

井上ひさしの魅力

私はすこぶる文章が遅い。「てにをは」の使い方ひとつであれこれ迷うからだ。当然のこと、長い文章が苦手になる。このことは、井上ひさしや井伏鱒二の文章を好むことにも一脈通じるように思う。

むかしICUのパーティーで坂野正高教授(中国政治外交史)から、若いころずいぶん俳句にうちこんだが、五・七・五で世界をみるようになると、長い文章が書けなくなると感じてやめた、と聞いたことがある。学者というのはかくもストイックな存在なのかと感心もし、共鳴もしたが、いかんせん、志向性は簡単にはかわらないようだ。

生前の井上さんと会ったことはない。「切符がとれなければ、芝居はDVDでも仕方ない」という横着なファンの私は、「井上ひさし全芝居」(新潮社 全7巻)とエッセー集「井上ひさしコレクション」(岩波書店 全3冊)の飛ばし読みを楽しむ。井上さんの文章が好きなのは、彼のなかの「論じる人」よりも「つくる人」の方が根底にあるからだ。

手業でものを生みだす経験談に惹かれて、これまでいろんな職人さんと出会ってきたが、滔滔と語る人にかぎって腕のほうがいまひとつというケースが多い。手わざと語りのバランスはほんとうにむずかしい。ところが、『井上ひさしと141人の仲間たちの作文教室』(新潮文庫)など読むと、目次を眺めているだけで、文章がうまくなるような錯覚におちいるから不思議だ。

書き下ろし作『キネマの天地』の演出助手をした栗山民也さんが、襖のすきまから執筆の様子を目撃する。井上さんの遅筆に困り果てて、カンズメになっている新橋の古い和風旅館をたずねたときだ。

「私の位置からちょうど執筆中の作者の横顔がみえたのです。学生が使うような木製の机を部屋に運び入れ、裸電球にアルマイトの笠の卓上ランプを灯し、原稿用紙を高く積み上げその原稿用紙に15センチぐらいのところまで顔を近づけて、一字一字書いている。私は何も言えずただその光景に見入っていました。・・・必死に机に向かいながら、一つひとつの言葉がそのとき生まれ出る、まさに血の滲むようなその瞬間に出会い、私は涙がこぼれそうになりました。」(栗山民也『演出家の仕事』岩波新書 46-47頁)

古い和風旅館とアルマイトの笠ときては、いささか道具立てが揃いすぎている気もするが、鬼気迫る光景はうかんでくる。井伏鱒二が、「釣り人は自然にとけこむ姿が大事だ」といったらしい。その伝で言うと、作家・井上ひさしの内面をその風貌がうつしだしていた、ということだろう。

四面に山水楼閣人物図が彫ってある

1990年に北京で、何を思ったか「遅筆堂印」という石のハンコをつくってもらった。もちろん、使ったことはない。妻は「いくら形から入るあなただからといって、なにも遅筆をまねることはないでしょ」という。