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保立道久氏、齋藤純一氏の講演

いま継続中のプロジェクト「グローバル時代の市民性を問う」(日本国際理解教育学会研究・実践委員会の課題研究)の特徴は、外部の専門家とのコラボレーションを軸に、領域横断的な研究を企図していることだ。

本年度は、歴史学と政治学の専門家を報告者とする2回の公開研究会を開催した。「公共性・市民性と『人種問題』―トマス・ペインとヴェブレンにもふれて」(報告者:保立道久氏 東京大学名誉教授 歴史学)と「多元性のもとでの公共性と市民」(報告者:齋藤純一氏 早稲田大学教授 政治学)である。

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保立道久氏には、ヨーロッパの王権神授説の登場からアメリカ資本主義の成立につながる流れを素材として、差別を肯定する「人種主義イデオロギー」の系譜の特質を分析していただいた。

例えば、WASP(White・Anglo-Saxon・Protestant)イデオロギーに関連して保立氏は、イギリス国王を批判するトマス・ペインが、一方で、イギリス国王の野蛮さは「インディアンにも勝る」、また「インディアン、黒人をけしかけて我々を滅ぼそうとしている」と主張し、ペインが先住民やアフロ・アメリカンへの支配を当然視している点を問題にしている。

さらに、アメリカ連邦憲法の、選挙権をもつ「自由人」(1条2節3)の規定が、ネーティヴ・アメリカンやアフロ・アメリカンを「自由人」ではない存在として明瞭に排除しているという点を指摘し、実質上この憲法が「白人」憲法になっているという。

一方、ソースティン・ヴェブレンに関連して保立氏は、『有閑階級の理論』でヴェブレンが、「長頭ブロンド」(いわゆる北方人種ゲルマンなど)タイプのヨーロッパの男は西洋文化の他の民族要素に比較して、略奪文化に先祖返り(退行)する才能をもっており、アメリカ植民地における彼らの行動はその大規模な事例だと主張していることを紹介している。

保立氏は、このヴェブレンの議論が、該博な人類学的知識にもとづくいわば「人種」論的な経済学というべきものであるとし、さらにWASPを中心としたアメリカの支配層がもっていた「人種意識」が、アメリカ植民野時代から19世紀末期の資本主義の確立の時代まで連続していたこと指摘して、彼の業績がアメリカ資本主義の人種主義的性格を端的に明示したことにあった、と分析している。

そして保立氏は、社会を支える基本となる「労働」に焦点を当てて、次のような指摘をしている。人間が「類的存在」であるという公理を社会に貫くことが公共性であるとすれば、その基礎は労働の尊厳にある。労働の2つの側面であるwork(アソシエーションを通じて社会の分業に関わる)とlabor(コミュニティを通じて身体・家族と環境に関わる)を、環境と歴史の中に感じることができる社会が「公共」の原点となるべきである。

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齋藤純一氏には、公共性、市民、多元性というテーマをめぐり、各々の用語の厳密な定義をもとに、多様なアプローチの仕方があることを示していただいた。

まず、現代における「公共的なるものの範囲」だが、それはきわめて広いものである。空間的にみると、例えばWTOなどグローバルな制度の共有にみられる通り、国境線で閉じたものではない。また時間的にみると、ステイクホルダーとしての将来世代の存在がクローズアップされている通り、現在に閉じたものでもない。

では「公共的価値」とは何か。それは人々が市民として受容しうる価値のことである。多数者の利益とも人々の利益の共通部分とも違うこの公共的価値は時に、私的利益に反するものでもある。

しかし、多元性のもとで公共圏の分極化がすすむ現在の条件下にあって、何が公共的価値であるかについての合意は予め存在していない。この状況下で人々が共有できるのは、「意思形成―決定」の公正な手続きのみである。

そこで熟議を進める「市民の政治的役割」が重要になってくるのだが、その役割は、①間接的な共同立法者として政策課題を提起するauthorship(法・政策の作者)、②問題と思われる法・政策に対して異議を申し立てるeditorship(法・政策の編集者)からなり、この2つの役割は相補的な関係をなしている。

さすがにそれぞれの分野を代表する学者の報告とあって、ここで要約したのは、論点のほんの一部にすぎない。当然のこと、2回とも時間を超過して活発な質疑が行われた。

お二人に提起していただいた視点を、これまでの学会の蓄積とどう接合できるのか、まさに模索が開始されたところである。

箱根美術館の庭

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美術の会の遠足以来、30年ぶりに強羅の箱根美術館を訪問した。六古窯のコレクションで知られる美術館だが、今回の目的は庭園である。

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箱根美術館の庭は、広い敷地のすみずみまで神経が行き届いている。60年もの間、毎日手入れを続けているということだが、時間と労力をかけたらここまで洗練させることができる、というお手本のようなものだ。

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大涌谷の噴煙を見上げる借景、立体感に富む大小の石組み、200本のモミジが林立する苔庭、どれをとってもみごとなものである。

近年公開されるようになったコーナー(石楽園)で、二つ発見があった。

一つは、樹種を絞って庭に統一感をだす技法だ。石楽園の植栽をみると、「馬酔木」と「ヒノキ」がたくさん使われている。松などとは違って、馬酔木やヒノキは、通常庭の主役になる木ではない。あえてそれを多用した斬新なコンセプトの庭になっている。

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あまつさえ、岩にじかに根をおろし、あたかも岩の上に立ち上がったかのような風情の馬酔木があちこちにあり、それが滝組の水流とあいまって、散策する者が深山に迷い込んだかのような印象を与えている。

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もう一つは、ヒノキの若木の使い方である。まず敷地の外周にヒノキの垣根が使われていることに親近感をおぼえたが、それにとどまらず、茶室の通路、庭の真ん中を下る園路、巨岩の足元など、いたるところにヒノキの若木が配されている。

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スーッと伸びたヒノキの枝が、庭に若々しい表情を与えている。なるほどこういう使い方もあるのかと、長年ヒノキ科に属するヒバの高木と格闘してきた私にとっては、まさに目から鱗のデザイン・センスだった。

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晴れた一日とはいっても、さすがに箱根の高地、冬空をみながら散策しているうちに体が芯から冷えてきた。ただ、空気の清涼感に格別の味わいがあって、ああ冬の庭園も悪くないなあ、と思ったことだった。

雪の朝

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4年ぶりの大雪で、わが家のあたりも30センチほど積もった。

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夕方の雪かきの効果が朝には完全に消えていたから、相当な降雪量である。

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一転して今朝は好天。手の届くほど間近にある枝にきて、メジロが熱心にサザンカの蜜をすっている。

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ふだんメジロのほうからこんなに近づいてくることはない。用心深いメジロのこうした姿を楽しめるのが、雪かきの余得ということになる。

1年生のゼミ

DSC00001このブログに、1年生のクラスが登場するのは、おそらく初めてだろう。

ここにアップした写真は、新年最初の授業で、1万2千字の課題論文を提出した直後のものだ。冬休みを挟んで頑張っただけあり、さすがにみんな晴れ晴れした表情をしている。(指文字のWは、渡部ゼミということらしい)

今年のゼミは、前期のティーチング・アシスタントだった近藤敦くん(M1)が、後期もボランティアでクラスに参加してくれた。学生たちに「後期もクラスに来てね」と声をかけられて、意気に感じてしまったのだ。

このエピソードが象徴しているように、今年は例年にもまして和やかな雰囲気のゼミになった。この写真を撮ってくれたのも近藤くんである。