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高田屋嘉兵衛の故郷

北前船探訪、今回のテーマは高田屋嘉兵衛(1769~1827)である。司馬遼太郎が、高田屋嘉兵衛は、江戸時代を通じて「2番目が思いつかないくらいにえらい人」だと語っている。それもあって、北前船の歴史を象徴する人物と考えられている。

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今回は、あいにく雨が降ったりやんだりを繰り返す不安定な天気だったが、神戸三ノ宮でレンタカーを借り、嘉兵衛の生地である淡路島の五色町(都志)を目指すことにした。

雨にけぶる明石大橋を渡りきり、淡路島に入ってほどなく、北淡インターチェンジで高速道路を降りる。あとは右手に穏やかな瀬戸内海を眺めながら、海岸沿いの一本道を走る。

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雨が強くなったり弱くなったりしている間に、小さな港をいくつか越え、やがて目的地のウェルネスパーク五色についた。時間にして1時間余り、意想外の近さである。

北前船といえば、これまでこじんまりした資料館ばかり見てきたが、高田屋顕彰館のあるウェルネスパークは、公共の宿、オートキャンプ場、テニスコート、洋ランセンターなどがある体験型総合公園ということで、けた違いに明るく開けたロケーションである。

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資料館の展示も、高田屋の事跡に焦点化している点に特色がある。いま学芸員をしている斉藤智之さんは、もともと関西の大学でフランス語を学び、洋書の輸入販売の会社で仕事をしていた人である。阪神大震災をきっかけに地元にもどってきたのだという。そのせいだろう。文献学の知見を活かして、資料に忠実で客観的な展示にしようとしている姿勢がよく感じられる構成になっている。

その点でいえば、嘉兵衛の、ゴロヴニン事件をめぐるいわゆる民間外交官としての側面、リタイア後の地元での社会事業家としての側面、そして現在まで続くロシアと五色町との交流の詳細が分かったのはとりわけ収穫だった。

(下の写真、神戸海洋博物館のカフェテリアからみるメリケンパーク。)

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(海洋博の北前船関係の展示の中心もやはり高田屋嘉兵衛である。)

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高田屋嘉兵衛と弟・金兵衛の遺体が安置されたという墓所、引退した嘉兵衛の屋敷があった場所などを見て回っているうちに、あっという間に晩秋の日が傾いてきた。それで次の予定を断念し、雨脚の強くなった暗い道を、五色町から津名一宮インター経由で神戸に戻ることにした。

この日の走行距離は144㎞だった。

神戸での再会

眼下に神戸港を見下ろす神戸大学附属中等教育学校には、学会の研究会や教員研修会で何度かお邪魔している。

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今回は、研究会が終わった午後5時に、旧知の斎藤容子さん(ICU高校8期生 旧姓:福田さん)が迎えにきてくれた。容子さんのお嬢さん二人がこの学校の在校生で、しかもちょうどこの日に、長女・寛子さんの大学推薦が決まったというから、これは奇縁というほかない。(左が斎藤さん、中央が吉村さん)

斎藤さんは、私の人生の転機になった『海外帰国生―日本の教育への提案』(太郎次郎社 1990)に、ブローニュ市郊外での教育体験を「フランス語の教育が学校教育の基礎」というタイトルで寄稿してくれた人である。

学校から歩いて急坂をくだり、御影駅からほど近いモダンなお宅で昔話に花を咲かせているところに、関西学院大学での授業を終えた吉村祥子さん(ICU高校7期生)が合流、さらに話題が沸騰した。吉村さんが高校時代にプレゼントしてくれた小石原焼の湯飲みは、いまもわが家の食卓で活躍している。

(下の写真は、学校から斎藤邸に向かう途中の夜景)

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なかでも印象的だったのは、容子さんが、一緒にいった奈良・京都の旅をじつに詳細に記憶してくれていたことだ。ICU高校を卒業する容子さんと冨田麻理さん(西南学院大学)の二人を、私たち夫婦で、ガイドして回った旅のことである。

もう30年も前のことだから、それだけでも驚きなのに、いまは容子さん自身が、フランス人家族旅行者のために、奈良・京都の観光ガイドをしているという。あのときの旅が、こうした形でつながっている、そのことにも感銘を受けた。

近くのレストランで美味しい夕食を頂戴して戻ると、ご亭主の斎藤正寿さん(兵庫大学)も帰宅しておられて、さらに話題が、教育やら建築やらに展開していくからとどまることを知らない。ご夫婦の温かいもてなしのなせる業だろう。気がつけば時刻も12時になっている。

容子さんに会ってから、かれこれ7時間もおしゃべりを続けたことになる。慌ててつぎの再会を約し、吉村さんは西宮方面、私は三ノ宮方面への阪急電車に乗ったのだった。