この年になるまで、手術入院というものをしたことがなかった。「なかった」と過去形で書いたのは、今回はじめて手術を体験したからである。胸部大動脈瘤のステントグラフト手術だ。鼠蹊部の動脈を切開し、そこからメッシュ状のステントグラフトを挿入し、胸部動脈の内側に3×2㎝のマージンを取って装着する。ステントグラフト全体の長さはおそらく8㎝くらいだろうか。そんな手術である。
はじまりは8月3日(水)のMRI検査で「左鎖骨下動脈分岐部より3㎝ほど抹消で、右腹側に径2㎝ほどの広基性嚢状瘤」がみつかったこと。心臓を出て上に向かった動脈が、脳などに分岐し、今度はお腹の方に向かって下降するあたりを「弓部」というらしいが、瘤ができたのはちょうどこのあたりだ。動脈瘤の好発部位だという。自覚症状など一切ないからこの判定はまさに青天の霹靂だった。
判定結果をもって8月6日(金)に、血管外科のH先生のところにいった。「獲得研夏のセミナー」の前日のことである。早速3D画像を見せてくれたが、素人目にもはっきりそれと分かる瘤が映っている。H先生の所見は、瘤自体はまだ大きくないが、だからといってこれから小さくなるものでもない。処置は早いに越したことはない。悪化するのを座して待つよりも手術をというもの。
とはいっても、夏のセミナーに続けて上海研修旅行(8/11-13)、欧州出張(8/17-9/12)とイベントが目白押しである。さて、どうしたものか。ところが先生少しも慌てず「じゃあ、9月14日が手術日になっているので、9月13日入院、14日手術ということでどうでしょう」という。
続けて「なあに、手術はほんの1~2時間ですみますから、簡単ですよ」と力強くいった。旅行中に配慮すべきことはなんですか、という当方の質問にも「手術のことは考えないことです。余計な心配がかえって血圧をあげることにつながりますから」と実に明快である。
ということで、パリから帰って自宅に1泊、翌朝はやくに家をでてそのまま入院ということになった。病院についてみると、麻酔科の先生やらICU担当の看護師さんやらが次々に現れて、それぞれの立場から手術の様子を詳細に説明してくれる。それにリスクのある手術であることを本人及び家族が承諾しますという「承諾書」へのサイン依頼がもれなくついてくる。あれあれ?という感じ。想像していたよりもずっとシリアスである。
しかも間の悪いことに、朝から緊急の大手術があったそうで、肝心の執刀医の先生がなかなか現れない。手術室から直行したと思われるN先生の説明を聞き終わるころにはもう夜の9時半を回っていた。朝10時の入院からはじまって、断続的に12時間近く気分の重い助走時間が続いたことになる。
翌朝一番の手術である。全身麻酔だから、手術室に入ったあとのことはほとんど覚えていない。ICUで目覚めたら、もう体から何本も管がでていた。手術自体は本当に1時間余りで済んだという。ただ、妻がN先生から「思ったより脂肪の層が厚かった」と言われたらしい。ヨーロッパで相当歩いたつもりだが、それと同じくらい脂肪分をとっていたということだろう。面目ない。
幸い術後の経過は良好である。体から1本ずつ針が抜けていき、切開した部分の傷の痛みもやわらぎ、歩行の困難もなくなった。巡回の先生たちも、「これだけ順調だとかえって退屈でしょう」と気づかってくれる。
これは私の印象だが、外科の先生は判断も早く、身体の動きも俊敏である。手術の前夜、首の動脈に点滴用の針を刺した。場所が場所だけに、何本も痛み止めを打ちながら処置するのだが、その動きが実に手早い。担当したHD先生が「すぐ済みます。はい、もう8割がた終わりました」と途中で声をかけてくれるが、実はそう聞いてからの時間の方がうんと長い。
実際のところ、さんざん痛い思いをしている患者に「はい、これでやっと3分の1です」といったら、それこそ患者は戦意喪失することだろう。H先生の「なあに1~2時間ですみますから、簡単ですよ」という言葉と呼応して、なるほどこれが外科の先生の基本戦略なのかと納得したことだった。