月別アーカイブ: 11月 2015

『教育プレゼンテーション』の刊行なる

15回プレゼンフェスタ 001このところの忙しさで、記事のアップが間遠になってしまった。学術関係のイベントが多く書きたいことはあるのだが、いかんせん文章にする時間がない。獲得研の初海さんには「元気だねえ」と言われるが、ただスケジュールに追われているだけである。

それはともかくとして、やっと獲得研シリーズの第3巻『教育プレゼンテーション―目的・技法・実践』ができた。質量ともにズッシリした印象の本で、手に取った人の評判もなかなかのようだ。カバーデザインもとても気に入っている。

「あとがき」には、以下のような文章を書いた。

本書の刊行に、4年の歳月を要した。では、どのようにしてできあがったのか。獲得型教育研究会(略称:獲得研)の研究スタイルの説明も兼ねて、ここでは本書の成り立ちについて簡単に紹介させていただこう。

第1部でもふれたが、獲得研は、「アクティビティの体系化」と「教師研修プログラムの開発」という2つの大きな目的をもっている。その達成のために、ワークショップでアクティビティの汎用性を検討したり、実際の授業にアクティビティを導入してその結果を検証したりする、という作業をたゆまず続けてきた。

本書の刊行準備は、2011年の夏にはじまった。獲得研シリーズの第2巻『学びへのウォーミングアップ』の刊行と相前後して、先行研究の調査をスタートさせたのである。

最初の山場が、2012年の新春合宿のときにやってきた。出版のコンセプトを、みんなで議論したときのことだ。とりわけ焦点になったのが、数あるアクティビティの中のどれを本書に収録し、それらをどんなカテゴリーで分類するのか、という点である。

あれやこれや色々な案がでて、紆余曲折があったが、最終的には「表現活動の三つのモード」(ことば、もの、身体)に対応するカテゴリーで章立てする、という案に落ち着いた。このカテゴリーこそ、獲得研の共同研究のオリジナリティを示すものだからである。

ここでの話し合いを契機として、つぎのステージに入った。①収録するアクティビティの絞り込み→②編集委員による「解説編」のラフ原稿作成→③「実践編」の執筆担当者決定→④執筆担当者による試行実践+実践報告→⑤原稿執筆、という流れである。

この間のプロセスでもっとも特徴的なのは、③の段階で、執筆担当者をエントリー方式で決めたことである。執筆してみたいと思うアクティビティに対して、会員が自分の判断で手を挙げる方式だ。もちろん項目によっては重複エントリーが生じるので、それなりの調整は必要である。しかし、ともかくも会員の自発性に依拠して執筆担当者を決める、とした点がポイントである。

こうして初稿が出揃ったのが、2014年の秋のこと、この段階までで3年が経過している。そこから更に1年かけて、原稿の改訂と「コラム」の追加を含む編集作業を続け、ようやく刊行に漕ぎつけることができた。

獲得研では、創設から足かけ10年の間に、97回の定例研究会をもち、5000通を超えるメールのやりとりを会員同士で重ねてきた。このことが象徴する通り、私たちがコツコツやってきた「アクティビティの体系化」という仕事は、辞書をつくるのにも似たとても地味な作業であり、いわば民主的な市民社会を形成するための基礎作業である。ただ、それこそが私たちのミッションだと思い定めている。

2020年の学習指導要領の改訂に向けて、アクティブ・ラーニングが、にわかに注目を集めている。今回は、90年代の「ディベート・ブーム」の時のような、特定の技法への注目とは違い、学習システムの改革を視野に入れている点で、時代の変化をより切実に反映している。アクティブ・ラーニングに注目が集まるのは喜ばしいことなのだが、ただ私たちのこれまでの経験からして、アクティビティの普及なしには、おそらくアクティブ・ラーニングの定着も難しいだろう、と考えている。

その意味で、私たちの研究もいよいよ正念場を迎えている。「せっかく未開拓の領域に踏みだしたのだから、とにかく行けるところまでいってみようよ」、そんなことをメンバーで語り合いながら、これまでと同様、これからもアクティビティ研究を続けていくことになる。

幣舞橋の夕陽

幣舞橋は、北海道の三名橋のひとつらしいが、1908年の1月に石川啄木がはじめて釧路にきた日に渡った橋である。「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」と詠っている。当時は、木造の橋だったが、いまは歩道の広いじつに立派な橋になっている。

釧路・根室・厚岸 155

以前、函館と啄木について記事を書いたときに、北海道教育大学の宮原順寛先生から、啄木は釧路でも大事にされていますよ、というメールを頂戴した。今回いってみて、なるほどと思った。なんと市内に27基の啄木の歌碑があるのだという。

全部をみる時間はなかったが、例の「しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな」の歌碑だけはみた。それで滞在中なんどか幣舞橋をわたったが、眼下の釧路川の水面が高く、まんまんと水をたたえているため、じつにゆったりとした橋上風景になっている。

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幣舞橋は、夕陽の美しさでも知られているそうで、たまたま大きな太陽が、素晴らしい勢いで海に落ちていく瞬間にでくわして、あっけにとられた。とにかく美しい。

近頃、ゆっくり夕陽を眺めるなどなかったから、なんだか旅心まで誘われてしまった。

ノッカマップ岬のチャシ

北前船のことが知りたくて、釧路から根室までレンタカーを走らせた。この日、道北、道央は雪。道東は雪こそ降っていないがこの寒さである。さすがにどこの資料館、博物館にも人影というものがない。

納沙布岬から北側の海岸線をみる

納沙布岬から北側の海岸線をみる

根室半島の突端に納沙布岬があり、岬から半島の北側の海岸線を、根室港方面にむかって15分ばかりいくとノッカマップ岬につく。

クマザサの生い茂る小道をぬけ、冬枯れた野原を歩いていくと、眼前に大きな海が広がっている。そこは国後島、歯舞群島を見晴るかす崖の上の台地で、その台地にある小さな土塁がノッカマフチャシである。右手に、小さなノッカマップの入り江が見下ろせる。

チャシというのは、「柵囲い」を意味するアイヌ語だそうで、砦、祭祀の場、見張り場、談判の場など、様々な用途が想定されている。根室市内で32か所のチャシがあり、その多くが16~18世紀につくられたものだという。

右手がモッカマップの入り江

右手がモッカマップの入り江

数あるチャシのなかでも、とくにこのノッカマフチャシが知られているのは、「クナシリ・メナシの戦い」(1789年)の舞台だからである。もともとこの入り江は、場所請負人だった飛騨屋九兵衛の運上屋があったところで、その飛騨屋による過酷な労働、暴力的な支配に耐えかねて蜂起した人々が、和人71人を殺害したのがことの発端である。

アイヌの人々による最後の組織的戦いとされるこの大騒動は、やがて松前藩によって鎮圧され、クナシリ総首長ツキノエなど37人がこの台地で斬首された。

「コシャマインの戦い」(1456年)のコシャマイン父子、「シャクシャインの戦い」(1669年)のシャクシャインがそうだが、どうしてアイヌの人々がやすやすと和人のだまし討ちにあうのか不思議に思っていたら、以下のような記述にぶつかった。

「これまでも、松前藩はアイヌの人たちとの戦いにおいて形勢が不利とみると、だまし討ちによって戦いを終わらせたことが何度かありました。アイヌの人たちが容易にだまし討ちにあった背景には、アイヌの人たちの交易者としての側面があったことが指摘されています。

アイヌの人たちにとって、くらしを営むうえで欠くことができない交易はたんなる品物の交換ではなく、交易相手との無沙汰を丁寧に述べるなどの厳粛な儀礼を伴ったものです。したがって、和人側から言葉を尽くした和睦を持ちかけられると、それを一蹴せずにアイヌの人たち、とりわけその統率者は威儀を正して、その場に臨みます。戦い相手との再会儀礼などが滞りなくすみ、緊張がほぐれたところをだましうちにされました。」(『アイヌの人たちとともに―その歴史と文化―』公益財団法人アイヌ文化振興・研究機構)

これを読むと、アイヌの人たちの人間としての上等さを逆手にとってのだまし討ちだったことが分かる。コシャマイン親子をだまし討ちした武田信広が、のちに松前家の祖になる。

こうした出自をもつ松前藩は、いわば初代の性格をそのまま踏襲したようである。「クナシリ・メナシの戦い」から10年後、幕府が東蝦夷地を松前藩から取り上げて、直轄地にした1799年のときの様子を司馬遼太郎がこう書いている。

「以下は信じがたいことだが、松前藩は豊臣秀吉の時代から蝦夷地を統治していながら、一筋の道路も造ったことがないのである。(中略)漁業収入だけで藩を成立させている松前藩にとって必要なのは、内陸ではなく、河川と河口の海岸だけだった。・・・松前藩がほしいのは北海道(明治2年以後の呼称)のわくともいうべき海岸線だけだったのである。

―道をつけても蝦夷人がよろこぶだけだ。という頭がこの藩にあり、また、秀吉、家康の朱印状によって蝦夷人の保護者として性格づけられていながら、かれらを人以下と見ているために、かれらの便宜をはかるなど、藩の思想として片鱗も存在しなかった。」『菜の花の沖(四)』

今回は、釧路でレンタカーを借り、厚岸湾、霧多布湿原、風連湖、花咲港、納沙布岬と、275キロほどの距離を走った。道東の風景ということでいえば、エゾ松と白樺が混じる林がいつの間にかなだらかな草山になり、その景色がいつまでも続き、やがていくつもの牧場を通り過ぎた。それで、ああこれが根釧台地の風景なのか、と思い当たった。

そうこうするうちに、えんえんと続く草山の景色が、かつてドライブしたイギリスのダート・ムーアの景色と頭のなかで2重写しになり、その不思議な既視感が2日間ずっと消えなかった。