月別アーカイブ: 10月 2015

アクティブ・ラーニングとアクティビティ

97回定例会 014

昨日は第97回の定例会だった。新企画として、会員がもっている手持ちのアクティビティをみんなで体験する時間をもつことにした。まずは、最近『クラスがみるみるまとまる「毎日レク」』(明治図書)を出版したばかりの栗原茂先生(帝京小学校)がファシリテーターをしてくれた。

以下の文章は、獲得研のアクティビティ研究のスタンスにふれたもので、日本大学教育学会の「会報」(No.65 9月30日付)の巻頭言を再録したものである。

このところ「アクティブ・ラーニング」という言葉が、あちこちで取沙汰されている。学習指導要領の改訂に向けた動きの一環である。教育課程企画特別部会のだした「論点整理」を読むと、学習者の主体的・協働的な学びを実現するには、たんに特定の型を導入するという発想ではなく、「学び全体」を改善するという見方が必要だという。

たしかに、これまでともすれば特定の表現技法だけに社会的注目が集まる傾向にあった。1990年代のディベート・ブームがその典型だし、2000年代のプレゼン・ブームにも似たような面がある。それに対して、今回の「アクティブ・ラーニング」の特徴は、学習システムの改革に焦点があたっていることだと言えるだろう。

90年代から、「日本の授業のバランスを、知識注入型から参加・獲得型の方向にむけて徐々にシフトする必要がある」と提唱してきたものとしては、「四半世紀かかってようやくここまできたか」と、いささかの感慨もある。参加・獲得型の学習体験こそ、参加民主主義の基盤をつくるものであり、ひいては新しい市民社会の形成にもつながっていると考えるからだ。目指しているのは、「自立的学習者=自律的市民」を育む教育である。

ただし、ことはそう簡単ではない。実際のところ、なんらかの「アクティビティ」を介在させることなしに、アクティブ・ラーニングも獲得型授業も成り立たないのだが、現状ではそれさえ共有されていないからである。ここでいうアクティビティとは「学習者が主体となって取り組む、さまざまなゲーム、ロールプレイ、シミュレーション、プレゼンテーション、ディスカッション/ディベートなど諸活動の総称」である。このアクティビティこそ学びの場における「共通言語」であり、スポーツでいえばルールにあたるものだ。

アクティビティが共有されてこなかった理由は色々ある。その一つに、日本の場合、教育内容の国家的統制が際立って強いことが挙げられる。その分、教育内容ほどには教育方法に関心が向かわず、さらには教育方法研究の土壌が深く耕されてこなかったからである。

それで2006年に、「参加型アクティビティの体系化と教師研修システムの開発」を課題とする獲得型教育研究会(略称:獲得研 会員:45名)を創設し、「獲得研シリーズ 全5巻」(旬報社)の刊行に取り組むことにした。獲得研では、新しい社会の共通教養の中核に、参加型アクティビティの習得を据えたいと考えている。

これまでに16の「ドラマ技法」、70の「ウォーミングアップ技法」を解説する本を刊行し、近くシリーズ第3巻にあたる『教育プレゼンテーション』(30技法を収載)をだす。いつもの通り、技法の「解説編」と「実践編」をセットで紹介する本で、小学校から大学までの様々な授業実践を並べている。

足かけ10年の間に、96回の定例研究会と5000通を超えるメールのやりとりを重ねてきたわけだが、私たちがコツコツやってきた「アクティビティの体系化」という仕事は、いわば民主的な市民社会を形成するための基礎作業であり、まあ、辞書をつくるのとそう変わらないとても地味な仕事である。ただ、それこそが私たちのミッションだと思い定めている。

「未開拓の領域だから、とにかく行けるところまでいってみようよ」、メンバーとそんなことを語り合いながら、これからも共同研究を続けていくことになる。

冬支度 3

生家の垣根の半分がユキヤナギとあって、開花期ともなると、ほわほわっとした白い壁が出現する。ただ、10年前はみるも無残な姿だった。大雪で垣根全体がペシャンコになってしまったのである。もうダメかなあ、といったんはあきらめかけたのが、植物の再生力というのはすごいもので、支えを施したらみごと数年で元に戻った。

この一件があってから、心なしか植物の多様性が増した気がする。ガマズミなどいろんな植物がユキヤナギに混じるようになり、剪定していると山椒の良い香りもしてくる。手抜きと言われそうだが、混植の垣根というのも、これはこれで面白いと思う。

垣根のもう半分はヒバである。ヒバの垣根は緑一色だから、まったく愛想というものがない。ただ、ヒバは強い刈り込みにも耐えるし、なにしろ手入れが楽だから助かる。

秋田・盛岡 042

時間の節約もかねていろんな庭道具を使う。今回の道具はこれ。“枝打ち一発”は、なんと5メートルの高さまで伸びて、しかも切れ味抜群、使いこなすのにちょっと腕力がいるが最近のヒットだ。

庭の手入れをしていると、いつも何かしら発見がある。以前は白い菫が咲いていたあたりに、気がつくとリンドウが咲いていたり、あることさえ知らないでいたキササゲの若木が、いつの間にかたくさん実をつけていたりするのだ。

もっとじっくり植物に向き合えたらなあといつも思うのだが、当分は無理だろう。秋田高校の同級生の堀井伸夫くんが、やはり同じ悩みを抱えている。それで、リタイアしたらお互いの庭を行き来して庭仕事の交流をしようじゃないか、という話になった。

先の楽しみができたのは、嬉しいことである。

屋根の表情

変われば変わるものだ。秋田の屋根のことである。母家の屋根の修理がすんだ。塗装の色は以前どおりの「さび朱」だが、棟飾りをきれいさっぱり撤去するということで、ぺったんとした味気のない表情になってしまうんだろうなあ、とちょっと心配だった。

ところが出来上がりを見てみると、そんなに悪くない。それどころか、思っていたよりずっと良い。以前よりもスッキリした印象である。

秋田・盛岡 014

土蔵の屋根の修理がすでに終わっているから、屋根の修理に限っては一段落だ。それにしても、故郷の建物の管理というのもこれでなかなか大変である。

盛岡で教育方法学会

10月の10日と11日に、岩手大学で日本教育方法学会があった。

秋田・盛岡 062

私たちがやった8回目のラウンドテーブルのテーマは「平和学習の転換とドラマワーク」、あかり座沖縄公演の成果をもとに参加者でディスカッションする。和田俊彦先生によるDVD資料の解説と宮崎充治先生の課題提起は、どちらも周到に準備されたもので、発表としてはもう“鉄板”の域である。(岩手大学のキャンパスは広々している)

秋田・盛岡 064

演劇教育が専門の広瀬綾子先生(梅光学院大学)など新しい顔ぶれがどんどん質問してくれたり、沖縄で平和学習を推進している山口剛史先生(琉球大学)が議論を盛り立ててくれたりと、絶え間なく応答が続いた。

お蔭で、井ノ口淳三先生(追手門学院大学)がコーディネーターをつとめた課題研究「戦後70年と平和教育」での議論と併せて、平和教育のパラダイム転換がいかに喫緊の課題になっているのか、みんなで再確認できた。

秋田・盛岡 066

駅から大学に向かう途次、迂回して、盛岡城公園を歩いてみることにした。二の丸に石川啄木の歌碑「不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸われし 十五の心」があることで知られている。盛岡まできて見ないわけにはいくまい。(上の写真が二の丸付近、この右手に啄木の歌碑がある)

秋田・盛岡 077

紅葉にはまだ早い。雨もようの天気とあって人かげもまばらである。そのぶん、雨に濡れた石垣のたたずまいがなんとも美しい。どこか懐かしい感じさえする。ほんのいっときだったが、ゆったりと良い時間がすごせた。

秋田・盛岡 071

家に帰って、新発見の石垣の美しさについて語りはじめたら、ワイフがすぐ話に割って入って、「そうなのよ。あそこの石垣いいわよね」といった。「私も大好きで、盛岡にいくたんびに訪ねてるわ」。

ああそうなんだ。ところが驚いたことに、なんと「あなたとも一緒にいったことがあるわよ。啄木の歌碑もみたじゃない」と断言するではないか。

ありゃりゃ、私が感じた懐かしさの正体はこれだったんだ。

35周年記念選集

作文集 001

先日、第36回「海外子女文芸作品コンクール」(主催:海外子女教育振興財団)の最終審査を終えたばかりだが、例年の審査と並行して、35周年記念選集(仮)『作文集 海外で暮らして』の刊行準備もずっと続けてきた。

昨秋の最終審査会で出版の話がでて、年を越してから、企画が本格的にスタートした。とりあえず、これまで刊行された作品集『地球に学ぶ』を書斎に全部並べて、本のアイディアを練ることにした。作文集を編む仕事は、ICU高校生の体験を集めた本以来のこと、25年ぶりである。『世界の学校から』(亜紀書房)のときの経験が、選集のコンセプトづくりに大いに役に立った。

とはいえ、もともと選ぶという作業自体がシンドイうえに、もとになる作品の数がけた違いに多い。それやこれやでかなりの時間を要したが、100編近い収録作品をリストするところまでなんとか漕ぎつけることができた。

日本の国際化、グローバル化がとめどなく進行している。応募作品の傾向にもそれが反映していて、近年、ほとんど日本で暮らした経験がないという子どもの作品が目立つようになり、国際結婚家庭の子どもの作品も確実に多くなっている。読んでいると、未来の日本人像が先取りされている印象である。

海外で暮らすということは、文化的マイノリティーになる体験をすることと同義である。言葉のわからない土地にいけば、他人の親切がひときわ身に染みる。その分、感性も柔らかく、観察眼も鋭くなる。

これから海外に赴任する家族はもちろん、もっと幅広い層の人たちに、海外生の体験にふれて欲しいと思う。それぞれが味わい深い作品だというだけでなく、日本で暮らす外国人の目で日本をみたらいったいどう見えるのか、それを考える手がかりにもなるだろうし、何よりも、これらの作品が、”私たちの今”、”日本の今”を相対化して眺めるための鏡の役割をしてくれる、と思うからだ。

コンクールは、詩、短歌、俳句、作文の4つのジャンルで、それぞれの分野の専門家が審査する。亡くなった長田弘さんが、16年間(1997~2013)、詩の審査にたずさわり、簡潔で奥深い作品評を書き続けた。今回は作文の選集ということだが、長田弘編『ラクダのまつげはながいんだよ』(2013年 講談社)が詩のジャンルの選集である。この本も良い。

1980年に、コンクールの最初の作品集が刊行されている。ちょうど私がICU高校に就職し「帰国生ショック」に遭遇した年のことである。それもあって、大河のような作品群を通読するという作業が、否応もなく、自分の35年の歩みを振り返る機会となった。