月別アーカイブ: 7月 2015

内子座を訪ねる

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日英シンポを成功裡に終えて、いまは研究成果の確認作業に入っている。時間をみつけて、四国の芝居小屋・内子座(1916年・大正5年創建)を見に行った。内子座のある内子町は、松山市からJRの特急列車で30分ほど、中央を小田川が流れる山あいの小さな盆地の町である。

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猛暑の中を、駅から10分ばかり歩いて内子座につくと、そこはすこぶるつきの楽しい空間だった。いまは定員650人と計算するそうだが、かつて少女歌劇の公演では、観客が1200人はいったことがあるという。

舞台が低く、客席との距離も思いのほか近いから、抜群の臨場感である。ここで、玉三郎や勘三郎の芝居を観たひとたちは、さぞかし幸せを感じたことだろう。8月恒例の文楽公演には、人間国宝にきまった嶋太夫さんが出演する予定になっている。

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案内の方たちが親切で、見たいところはどこでもどうぞ、と言って放っておいてくれる。ほかに見学者がないから、劇場中の空間をほとんど独り占めできた。

奈落から舞台、花道とゆっくり歩いて回り、ついでに升席、大向とあちこちの席にすわってみては、どんな風にみえるのか、見え方の違いを味わう。なんとも贅沢な時間である。

内子は、明治の中ごろから大正期にかけて、木蝋の生産で大いに栄えた。その品質の高さは、海外にも知られていて、最盛期、製蝋業者が23軒もあって、国内の生産量の3割を占めたという。いまは資料館になっている上芳我邸の建物をみても、じつに豪壮なものである。

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内子座のような芝居小屋ができる背景に、地域のそうした経済力があったということだろう。いまの内子は、盆地の斜面にみごとな白壁の街並みが残る観光の町である。

ただ、この日ばかりは、昼下がりの通りに人影というものがなく、そのシュールなことといったら、まるで目の前にキリコの絵の世界が広がっているかのようだった。

ドラマとシティズンシップ

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土曜日に開く獲得研セミナー「日英におけるドラマ教育とシティズンシップ教育」の準備が着々と進行している。池野範男先生(広島大学)が中心になって進めている研究プロジェクトの一環だ。

昨日は、英国チームの二人が成田空港から私の「教育学演習」に直行し、ワークショップに参加してくれた。3年生のゼミ(30人)だが、学生たちも新しいゲストを迎えて大喜び。この日のテーマが、「繋がりを感じる」とあって、「人間と鏡」やら「白紙の見立て」で短いシーンをつくるやらのペアワークを、みんなと一緒に楽しんだ。

座高円寺 010今日は、杉並の座高円寺を見学させてもらった。地域の劇場の見学は、もともと英国側の希望である。というのも、オックスフォード大学のヴェルダ・エリオットさんが、地域劇場と連携して、さまざまな理由で就学に困難を抱える若者たちを劇場に招じ入れて彼らの活躍の場をつくる、シティズンシップ教育の共同研究をしているからだ。

去年、そのペガサス劇場を見学させてもらった。そこはオックスフォード市の住宅街の真ん中にある小さくて居心地のいい劇場だった。ミュージカルやドラマの役者として演技をするチームはもちろん、脚本執筆、衣装、照明と音響チームなど、さまざまなコースを用意している。若者が自分の関心に応じて制作にかかわり、創造的な活動のなかで自己肯定感をたかめ、社会参加の準備を進めるためである。

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座高円寺では、企画・広報担当の森直子さんと企画・制作チーフの石井惠さんに、劇場の概要案内からバックステージ・ツアーまで、タップリ2時間ガイドしてもらった。コンペで選ばれた伊藤豊雄作品だというが、広々と開放的なエントランスからしてワクワクするような美しさがある。この劇場は、公演のないときでも、いつも市民に開かれている。

なにより、劇場のコンセプトが素敵だ。できるだけルールをつくらず、町なかの空き地のようにひらかれた公共空間としての劇場をめざしているのだという。そこに人が集まり、散っていく中で、自然に新しい文化がうまれることが期待されているようだ。

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だから、演劇公演だけでなく、劇場前の広場をつかった“座の市”、阿波踊りの練習、商店街の文化祭、年間80回にものぼる子どものワークショップなど、じつに多様な出会いの場が用意されている。ちなみに、杉並区の小学校4年生(約3千人)は、毎年、無料でお芝居を観る。

劇場の運営は、指定管理者であるNPOと芸術監督の佐藤信さんと杉並区の三者協議でされているのだそうだ。なるほど、スタッフの方々の意欲と創意はもちろんだが、地域の人々と行政の支えがあってこそ、こんなユニークな活動が継続できているのだろう。

それで土曜日のことだが、日英の専門家が集まって、ドラマ教育とシティズンシップ教育の架橋を目指すシンポジウムを開くのは、おそらく初めてである。さてどんな展開になるのか、いまから楽しみである。

成蹊小学校の公開授業

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6月20日に成蹊小学校で百周年記念公開授業があった。9教科にまたがる51もの授業が公開され、獲得研の関係者も20名ほど参加した。10年毎に公開授業をしているということだが、何しろ区切りの百年とあって、学校側の力の入れ方も尋常でない。丸3年がかりで準備を進めたと聞く。

百周年にむけて整備した校舎がまた見事である。特別教室も廊下もそして普通教室と一体化した木製のデッキもすべて広々と美しい。各学年(東西南北の4クラス)が、ほどよい距離感で配置されている。

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私は「こみち科」(生活科+総合学習)の授業を9つ全部見て回った。統一テーマは、「豊かなプレゼンテーション力を育てる」である。成蹊小学校は、総合学習の長い伝統をもっていて、こみち科の語源も学校の名称「成蹊」に由来する。

獲得研の林久博先生の「おてんき裁判」(2年生)は、子どもたちが「雨ふれチーム」「お天気チーム」にわかれ、赤いマントの神様(先生)にそれぞれ訴える劇遊びだ。雨の日にチームでそとへでて、観察したことを反映した発表をつくる。

こんな発表だった。時ならぬ雨に、女の子二人があわてて雨宿り。男の子が両手を差し出して屋根のポーズ。屋根の先端からさかんに雨だれがおちてくる音。それを見あげて「きれいだねえ」とうなずきあうふたり。子どもたちの柔らかい感性が息づいている。

公開授業のあとの分科会も、参加者60人を超す盛況ぶり。授業を公開した5人の先生たちが、それぞれのねらいや成果を率直に語ってくれる。

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その場で、小学校の6年間を見通した「こみち科『プレゼンテーション力』の能力系統表」が発表された。これは、獲得研のいう「表現活動の三つのモード」(コトバ、モノ、身体)をすべて取りこんで、それぞれ学年ごとの習得課題を明らかにした表である。この「系統」と「活動・単元」を対応させて学びを組み立てる、きわめて意欲的なプランだ。

三つのモードをすべて取り込んで、しかもこれだけ具体的に展開する学習プランをまだみたことがない。研究活動を中心となって担ってきた林先生はじめ成蹊小学校の先生たちの、これまでの研鑽の深さがうかがえる。

わたしはすっかり嬉しくなって、今後の取り組みの成果も外部にむけてぜひ発信して欲しい、とお願いした。

遠くて近い井上有一展

書、画、陶器など、作品が40点ばかりでていて、どれも良い。今年は井上有一(1916―1985)の書に呼ばれているようだ。

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最初は、獲得研の新春合宿のこと。「東京大空襲・戦災資料センター」にいったら、2階の会議室に「噫横川国民学校」(1978)の大きなコピーがつりさげられていた。横川国民学校は、大空襲の当日、若き井上有一が宿直勤務をしていた学校である。1000人もの人々が避難のために殺到してきて、あらかたの人が命を落とした。阿鼻叫喚というべき内容と文字の勢いがあいまって、私はその場でくぎ付けになった。展覧会の略年譜によると、井上は「昭和20年3月10日米機大空襲により仮死。約7時間後に蘇生」とある。

獲得研の合宿から10日ばかりあと、こんどは京都御池通のギャラリーで、「花」「風」などの文字が、抽象絵画のように躍動している作品をみた。

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そして今回の展覧会である。「莫妄想」(1969)、「必死三昧」(1969)、「宮沢賢治・よだかの星」(1984 コンテ、和紙)など仏教的なモチーフの作品が目立つ。太い筆先がうねるように紙面のうえで踊る「死」(1963 凍墨、和紙)をみているうちに、建長寺の古木・ビャクシンの木肌を思い出したことで、一層その印象が強まった。

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会場のVTRで、井上の制作風景をみた。殺風景な板張りの部屋で、ウンウン唸りながら、全身で文字を書いている。彼にとって書は、楽しい仕事ではないらしい。心を決めてアトリエに入り、流派や様式にとらわれない独自の世界を、気力を振り絞って切り拓いている。アトリエの床一面に飛び散った墨が固まって、もういたるところ真黒である。

私は井上有一の覚悟ということについて考えざるをえない。それにしても、求道者然とした不敵な面構えの書家・井上有一と小学校の校長さんを定年まで勤め上げた井上有一先生の像が、いったいどこでどうつながっているものなのか、不思議もまた尽きない。(7月26日まで、菊地寛実記念 智美術館)