浦添美術館の特別展

沖縄 2015.2 012

浦添美術館の「琉球・幕末・明治維新 沖縄特別展」(2月27日―3月29日 主催:琉球新報社、(協)沖縄産業計画)にいったら、会場でめずらしい出会いがあった。思想史研究会の仲間の柳下宙子さん(外務省・外交史料館)にバッタリ遭遇したのだ。柳下さんは、長く弓道をやっていて、凛とした姿勢のひとである。

思想史研は武田清子先生の門下生でつくる10人ほどの小さな研究会だが、柳下さんとは、例会以外の場所でついぞあったことがないから、まさかこんな場所であうことになるなど想像もしていなかった。

特別展とはいっても、それほど大規模なものではない。吉田松陰、西郷隆盛、勝海舟、坂本竜馬、近藤勇といった幕末・維新に活躍した人たちの、手紙、衣装などの実物が、頃合いの広さの3室に展示されている。なかでも特に目立つのは、京都・霊山歴史館の所蔵品である。

そして今回の展覧会の目玉となるのが、外交史料館所蔵の琉米・琉仏・琉蘭の3条約の原本である。それで柳下さんがオープニングに立ち会ったものらしい。「琉球新報側の熱意が大変なものでしたよ」と聞いた。あの有名な肖像画も含めて、外交の相手であるペリー提督の関係資料もたくさんでている。

この時期、江戸幕府は幕府で、しぶしぶ日米和親条約(1854年1月)を結ばされているが、琉球王府もまた欧米列強とじかに交渉せざるをえない状況になっていた。幕府が列強の火の手をのがれるため、琉球を「異国」として切り離す策をとったからである。

新城俊昭氏の『教養講座 琉球・沖縄史』(東洋企画)はその間の事情を、以下のように書いている。「1853年4月、ペリーは日本との交渉の前に、琉球に来航した。アメリカは、琉球が日本の支配下にあることを十分に察知していて、日本との交渉が失敗したばあいは琉球を占領する計画であった。そのことによって、窮乏した琉球の農民を薩摩の支配下から解放し、アメリカの経済力で生活を向上させることができるとさえ考えていた」。日本の開国に成功したペリーは、1854年6月、琉球とも、米人の厚遇、必要物資や薪水の供給、などを規定した琉米条約を結び、これにオランダ、フランスが続いた。

企画した新聞社の側に、辺野古の新基地建設問題が緊迫するなかで、外交や政治の自主決定権の問題を琉球時代にまでさかのぼって掘り起こそうとする意図がみうけられる。2月28日付の琉球新報が「独立の気概感じる 琉球3条約特別展の来場者」という見出しで、ペリーが海兵隊を率いて琉球国に条約締結を迫ってきたことと、いまある日米地位協定の不平等さが構造的に似ているのではないかという、名護市からきた市民(62歳・男性)の声を紹介している。

この特別展のことは、新城さんと那覇であったときに聞いた。それが無ければきっと参観の機会を逃したことだろうし、オープニング当日の訪問でなければ、柳下さんと会うこともなかったことになる。大した偶然である。ちょっと不思議なのは、カタログはおろか展示品目録も用意されていないことで、立派な看板が目をひくのと対照的である。ひょっとしたら開会に間に合わなかったのだろうか。

柳下さんと分かれて那覇のモノレールのシートに座っていたら、こんどは「渡部先生!」と呼びかける声がする。その声で顔をあげると、教育学科の4年生がすぐ近くに立っていた。卒業旅行にきたそうで、これからレンタカーを借りて友人たちと島内を回るところだという。

いやはや、偶然というのも、続けばつづくものである。

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