月別アーカイブ: 3月 2015

2015年春のセミナー

定員を超える申し込みをいただいて、今年も盛況のうちにセミナーを終了した。今回の新機軸は、「ドラマケーション普及センター」とのコラボ企画ということだ。プログラムの流れ自体は、例年のスタイルを踏襲している。

“ウォームアップ 北海道大谷室蘭高校・藤田真理子先生の「あっち、こっち」”

センターが学事出版から、獲得研が旬報社から、それぞれ新しいアクティビティ・ブックの刊行を準備している。シンポ「わたしたちはどう学び、なにを発信するか」では、その開発の現状やら実践の場での取り組みやらを交流してもらった。ちなみに、ドラマケーションでは、アクティビティをアクティブ・メニューと呼んでいる。

今回でいえば、まず午前中に国際会議場でシンポジウム、3会場に分かれて、ドラマケーション・ワーックショップ、昼食をはさんで同じ会場で「オトナのプレゼンフェスタ」、そして最後に多目的ホールに集まって全体のふり返りとなる。国際会議場、分科会会場、多目的ホールと動いていくから、アリーナ以外は、百周年記念館のほぼ全部のスペースを使うことになる。

マイクが尾田センター長 左が三嶋理事長

マイクが尾田センター長 左が三嶋理事長

私の基調提案「表現教育のネットワーク形成にむけて」では、9年間におよぶアクティビティ開発の歩みをふり返り、10年目から獲得研が新しいステージに向かうことを話した。ポイントは、公開性をより高めるということだ。

マイクが所沢北高校・両角先生 左が桐朋小学校・宮崎先生

マイクが所沢北高校・両角先生 左が桐朋小学校・宮崎先生

具体的には、①メルマガ、ホームページの充実、②オープンセミナー、レクチャーシリーズの充実、③あかり座公演の実施、④会員の若干の増員、⑤他団体、個人との連携の強化(今回)、である。どの項目も、いままで取り組んできたものではあるが、ようやくそれを全面展開する時期にきたということだ。「春のセミナーだけでなく獲得研にふれる機会をもっと増やしてほしい」という声を、これまで数多くいただいてきたが、そうした要望にも応えられるようになる。

近々メルマガで2015年度の年間計画が配信される予定だが、成蹊小学校での授業参観、日英ドラマ教育シンポジウム、沖縄あかり座公演、リーディング・ワークショップ、ドラマ・ワークショップなどの企画を準備している。今回、お断りした方々にも、ぜひご参加いただければと思う。

司会:自在さを存分に発揮の武田富美子先生(立命館大学)

司会は、自在さを存分に発揮の武田富美子先生(立命館大学)

今回、コラボの相手を普及センターにお願いしたのは、もともと「ドラマケーション」が創設された時から、私自身が関わってきた経緯があるからだ。

東放学園の傘下をでてNPO法人として独立したセンターは、いままさに新しい模索をはじめたばかり。絶妙のタイミングということだろう。

とくに、午前のワークショップから午後のワークショップの流れが自然で良かった、というコメントをたくさんいただいたが、企画者としてはそれが嬉しいことだった。

卒業

木曜日の第9回・獲得研「春のセミナー」が大好評のうちに幕を閉じた。その前日が卒業式、さらに前々日が院ゼミのキックアウト・パーティーとあって、なかなかに忙しかった。

もう一人の新入生・大野くんはけがで欠席

もう1人の新入生・大野くんはけがで欠席

1年生の麻生くんが、青年海外協力隊でパラグアイに旅立つ。その旅立ちが卒業式当日ということで、こんな日程になった。麻生くんは、現地でバドミントンの指導をする。そのなかにナショナル・チームの育成も含まれているというからかなりのものだ。

6年間一緒に活躍してきた津田、尾形、木村トリオが、修士課程を終えていよいよ卒業となった。卒業式で木村くんが、日本大学の学長賞と専攻の最優秀論文賞をもらった。とくに2人のこれまでの献身的なサポートを考えると、3人のチームワークでえた学長賞といっていいだろう。

それもあって、木村くんの受賞スピーチは、まず2人への感謝、そして学科スタッフへの感謝、論文を手伝ったくれた大学院の先輩たちへの感謝などと続いた。3人とはこれからもずっと交流することになるだろう。今後の展開が楽しみである。

春のセミナー&卒業式 011

3人と一緒に、助手の橋本実佳さんが学科を卒業する。橋本さんは、優しく細やかな心配りの人で、教育学科の文化を体現している。学生たちが橋本さんのところに集まってくるのも当然だろう。橋本さんが4年前に入職したとき、新入生23組の担任、副担任でコンビをくんだ。以来、私も、学科のこと、学生のこと、獲得研のことなど、どれだけお世話になったかわからない。

卒業パーティーの離任あいさつのとき、なるほどそうかと思ったのは、この4年生が卒業するまでは学科にいようと決めていた、と聴いたことだ。結婚退職のけじめをそういう風に考えることが、いかにも橋本さんらしいと感じたのである。

橋本さんの最後の勤務日が、くしくも獲得研春のセミナーの日、それで当日に一言お礼がいえたのは幸いだった。橋本さん、どうぞお幸せに。

黒石寺の薬師如来・みちのくの仏像展

黒石寺(岩手県奥州市)の薬師如来像にほとんど35年ぶりに対面した。「東北三大薬師」というそうだ.東京国立博物館の「みちのくの仏像展」に、黒石寺、勝常寺(福島)、双林寺(宮城)の薬師如来が勢ぞろいしている。

東京散歩 005

会場では、入り口正面のガラスケースで、まず天台寺(岩手・浄法寺町)の“鉈彫り”聖観音が迎えてくれる。顔や腕の平滑さと体部(胸部と衣服)の鑿あとの荒々しさが鮮やかなコントラストをみせる像で、手指の表現などは極めて繊細である。

展示スペースは「本館特別5室」という1部屋のみ。エントランスの階段裏にあたる大きなスペースではあるが、それでも1部屋は1部屋である。特別展という宣伝のわりには小規模だなあ、というのが第一印象だった。

1980年代のはじめころ、なんどか東北の地方仏行脚にでかけた。そのとき別々に出会った仏たちが、こうして一堂に集まっているのを見ると、不思議な感じがする。

最初の旅は、1981年の晩夏である。20代最後の夏。「美術の会」の3泊4日の研修旅行だった。まず天台寺に直行して鉈彫りの諸仏を拝し、そこから盛岡を経由して成島毘沙門堂、藤里毘沙門堂、黒石寺、中尊寺などを訪ねるプランをみんなでつくった。北上川流域の寺である。準備は万端、往復はがきで拝観の許可もとった。

東京散歩 008

ところが、ちょうど出発日当日に大きな台風がきた。上野駅まではいけたが、東北本線の急行「盛岡1号」が運休になった。強い雨がホームの屋根を叩いて水しぶきをあげている。さてどうしたものか。ところが、メンバーはみな若く血気盛んである。集まった8人の誰ひとり中止を言い出さない。「常磐線がかろうじて動いている。とにかく、いけるところまで行こう」ということになった。

こうして海岸線を走る列車に飛び乗ったが、動いては停まり、動いては停まりを繰り返すから、仙台につくころには夜になった。駅前のビジネスホテルに投宿。翌日はうそのような快晴である。それからレンタカーで一帯を駆け回り、花巻では宮沢賢治の羅須地人協会やイギリス海岸もいった。

この旅で圧倒的存在感を放っていたのが、今回展覧会のポスターになっている黒石寺の薬師如来像である。貞観4年(862)の墨書名があるから、貞観地震の7年前の制作ということになる。頭部を拝すると、一粒ひとつぶくっきりと大きい螺髪、厳しい目と引き締まった表情で貞観仏に特有の神秘的な顔貌をあらわしている。とりわけ反り返ったように盛り上がる上唇が強い印象をのこす堂々たる像である。

黒石寺は、境内の佇まいがまたいい。鬱蒼とした木立を背に、低い石段が横に長く築かれていて、その壇のうえに本堂と庫裡が並んで建っている。ご住職の案内で、庫裡から斜面をよこぎるようにしてお堂についた。目の前に瑠璃壺川というゆかしい名前の渓流がある。

東京散歩 009

お堂のなかに三脚を立てて、スライドの撮影をさせてもらった。それで、この薬師如来像がきわめて正面性の強い像だということが分かった。横から拝すると、像の奥行きが乏しくて平板な印象なのである。頭部などはいわゆる“絶壁”になっている。今回のようなあけっぴろげな展覧会場であらためて見ると、下半身の彫りも簡素である。

同時代ということでいえば、神護寺や元興寺の薬師如来像が放つ豊かな量感とはかなり印象の違う像ということになる。逆に、正面性の強さに、この地の地方性がタップリ現れているともいえるだろうか。

あれこれ思い出しながら会場をめぐっているうちに、20代のころの感覚がしだいに甦ってきて、ちょっと落ち着かない気分になった。外にでると、本館前のユリノキが、夕景のなかできれいなシルエットをみせている。近づいて膨らみかけた蕾をぼんやり眺めているうち、そうか、どこか落ち着かない感じがしたのは、展示空間に若いころの心象風景が刻印されているからだ、と気づいた。

なるほど、青春時代というのは、人生の彷徨をうちにはらんでいる分、ただ懐かしいだけの時代ではないようである。(4月5日まで)

福山一明さんの最終講義

福山一明さん(明星高校:英語)は、“高「変さ値」人”がそろった獲得研でもひときわ異彩を放つ人だ。日曜日に、学苑の視聴覚ホールで福山さんの最終講義があった。10年前、旧あかり座の凱旋公演をしたその場所に、100人近い卒業生が陣取っている。

例会・福山先生の会 012

そもそも高校教師の最終講義というのも珍しいが、いってみたら、どこにも「講義」の気配がない。演壇にはギターが並び、いつもの「福山オン・ステージ」のしつらえである。実際にはじまってみると、本人の歌と参加者の即興スピーチで40年近い教師生活をふりかえる1時間半の音楽構成劇になっている。矢沢永吉からビートルズまでの7曲の中に、獲得研コンビの自作曲「今夜もシングルモルト」(作詞・福山、作曲・田ヶ谷省三)がちゃんと入っている。

進行も福山さん本人がやる。突然ステージに呼び出されるスピーカーの本音トークがまた面白い。和田俊彦さん(跡見学園)にいたっては、「授業で歌ばかり歌ってないで、ちゃんと英語も教えてくださいよ」と福山さんに注意する校長先生の演技を、即興でやらされた。田ヶ谷さん(立川市生涯学習指導協力者)も、もう一人の高「変さ値」人・藤牧朗さん(目黒学院)もステージに立った。

例会・福山先生の会 025

福山一明さんは熊本育ちである。今回分かったのは、福山少年にとって「英語と音楽」が山の向こうの新しい文化の象徴だったこと、そして、その後のロンドン暮らし、東京暮らしでも、その憧れをずっと抱き続けてきたということだ。福山さんは、いまも英語大好き人間であり音楽大好き人間である。

あかり座の『中高生のためのアメリカ理解入門』(明石書店)で、福山さんは「メジャーリーグ野球」を担当した。それで彼の英語授業のテーマソングが“Take me out to the ball game”になった。どのクラスでもギター片手に歌唱指導する。てっきり教室にギターを持ち込むきっかけがそれだと思っていたが、どうもそうではないらしい。イギリスから戻って明星に赴任した35年前から、授業でギターを弾いていたという。最初の授業に、シカのかぶりものをつけて登場したというエピソードもきいた。パフォーマーの面目躍如である。

例会・福山先生の会 023

福山さんは、自分の興味関心(あるいは欲求といってもいい)に忠実なひとである。「これだ!」と思ったらとことん突き進む。そのあけっぴろげの正直さを魅力だと感じる人たちがこうして集まってくる。

“全力少年”が少年の心を保ったまま定年を迎えた。めでたいことである。そして福山さんをのびのびと活躍させてきた明星学苑の懐の深さに感心する。いま日本の学校文化から急速に失われつつあるものが、その懐の深さだからである。

浦添美術館の特別展

沖縄 2015.2 012

浦添美術館の「琉球・幕末・明治維新 沖縄特別展」(2月27日―3月29日 主催:琉球新報社、(協)沖縄産業計画)にいったら、会場でめずらしい出会いがあった。思想史研究会の仲間の柳下宙子さん(外務省・外交史料館)にバッタリ遭遇したのだ。柳下さんは、長く弓道をやっていて、凛とした姿勢のひとである。

思想史研は武田清子先生の門下生でつくる10人ほどの小さな研究会だが、柳下さんとは、例会以外の場所でついぞあったことがないから、まさかこんな場所であうことになるなど想像もしていなかった。

特別展とはいっても、それほど大規模なものではない。吉田松陰、西郷隆盛、勝海舟、坂本竜馬、近藤勇といった幕末・維新に活躍した人たちの、手紙、衣装などの実物が、頃合いの広さの3室に展示されている。なかでも特に目立つのは、京都・霊山歴史館の所蔵品である。

そして今回の展覧会の目玉となるのが、外交史料館所蔵の琉米・琉仏・琉蘭の3条約の原本である。それで柳下さんがオープニングに立ち会ったものらしい。「琉球新報側の熱意が大変なものでしたよ」と聞いた。あの有名な肖像画も含めて、外交の相手であるペリー提督の関係資料もたくさんでている。

この時期、江戸幕府は幕府で、しぶしぶ日米和親条約(1854年1月)を結ばされているが、琉球王府もまた欧米列強とじかに交渉せざるをえない状況になっていた。幕府が列強の火の手をのがれるため、琉球を「異国」として切り離す策をとったからである。

新城俊昭氏の『教養講座 琉球・沖縄史』(東洋企画)はその間の事情を、以下のように書いている。「1853年4月、ペリーは日本との交渉の前に、琉球に来航した。アメリカは、琉球が日本の支配下にあることを十分に察知していて、日本との交渉が失敗したばあいは琉球を占領する計画であった。そのことによって、窮乏した琉球の農民を薩摩の支配下から解放し、アメリカの経済力で生活を向上させることができるとさえ考えていた」。日本の開国に成功したペリーは、1854年6月、琉球とも、米人の厚遇、必要物資や薪水の供給、などを規定した琉米条約を結び、これにオランダ、フランスが続いた。

企画した新聞社の側に、辺野古の新基地建設問題が緊迫するなかで、外交や政治の自主決定権の問題を琉球時代にまでさかのぼって掘り起こそうとする意図がみうけられる。2月28日付の琉球新報が「独立の気概感じる 琉球3条約特別展の来場者」という見出しで、ペリーが海兵隊を率いて琉球国に条約締結を迫ってきたことと、いまある日米地位協定の不平等さが構造的に似ているのではないかという、名護市からきた市民(62歳・男性)の声を紹介している。

この特別展のことは、新城さんと那覇であったときに聞いた。それが無ければきっと参観の機会を逃したことだろうし、オープニング当日の訪問でなければ、柳下さんと会うこともなかったことになる。大した偶然である。ちょっと不思議なのは、カタログはおろか展示品目録も用意されていないことで、立派な看板が目をひくのと対照的である。ひょっとしたら開会に間に合わなかったのだろうか。

柳下さんと分かれて那覇のモノレールのシートに座っていたら、こんどは「渡部先生!」と呼びかける声がする。その声で顔をあげると、教育学科の4年生がすぐ近くに立っていた。卒業旅行にきたそうで、これからレンタカーを借りて友人たちと島内を回るところだという。

いやはや、偶然というのも、続けばつづくものである。