少し前のことになるが、年が明けてから京都国立博物館にいってみた。なにかの特別展ではない。見たかったのは美術品ではなく美術品の容れものの方である。昨秋オープンしたばかりの平成知新館のことだ。
従来の1、7倍の広さになり、かつ洗練された空間をもつ建物のインパクトはかなりのものである。オフシーズンの午前中とあって場内は閑散としている。おかげで先着30名限定の絵葉書セットをもらった。ミュージアム・ショップもぐんとあか抜けて、尾形光琳の「竹虎図」に描かれた、なんとも愛らしく、やんちゃな目つきの虎のぬいぐるみが売られている。
特別展示室で、仏像、神像など島根・鰐淵寺の木彫像にたくさんでくわしたのは幸運だった。1980年から“美術の会”で地方仏行脚をはじめた。若狭小浜、北上川流域、国東半島と平安木彫仏の行脚を続けて、出雲地方を訪れたのは1983年のことである。仏谷寺、清水寺、雲樹寺などの寺々を訪ねたが、あいにく鰐淵寺は非公開だったから、今回が初見ということになる。
出雲の地で持統天皇6年(692)に制作された「銅像観音菩薩立像」もでている。いわれてみれば、どことなく地方性を感じなくはないが、百済観音などに通じるいかにも飛鳥仏らしい八頭身のフォルムで、ことに向かって左側面からみるモデリングが素晴らしい。
平成知新館にはボランティアガイドが活躍するスペースもできた。鎌倉仏に特有な玉眼のつくりかたを体験するコーナーがある。資料コーナーも充実していて、「鳥獣戯画」のデジタル画像が実寸でみられる。わたしは操作の仕方をおそわって、絵巻を開くようにゆっくりテレビ画面の中をながれる「甲巻」を心ゆくまで楽しんだ。
肝心の展示スペースということだが、少し気になることがあった。一つは館内の照明で、いささか暗すぎる感じである。仏像コーナーでは、上方からスポット照明をあてて像を際立たせている。あちこちの美術展で普通に見られるようになった技法だが、どちらかといえばデザイナーの意図が鬱陶しく感じられることの方が多い。仏像を拝する角度が自ずと限定されてしまうからだ。私の経験では、こうした照明は広隆寺の弥勒菩薩が収蔵庫に入ったときがその走りである。なんども通った広隆寺だがそれから自然に足が遠のいてしまっている。
もうひとつは、空間の大きさである。2階の絵画コーナーが特にそうなのだが、せいせいするくらい広壮な吹き抜け空間である。それはいいのだが、おかげで展示された障壁画がなんとなく貧相にみえてしまう。おそらく絵師の空間感覚とも、それが本来おいてあった建築物の空間とも大きくかけ離れていることからくる印象かと思う。
照明の仕方と空間の大きさとがあいまって、平成知新館のいくつかのコーナーが、ずいぶん余所行きの雰囲気になっている。バランスが難しいのはもちろんだが、ただ、作品そのものよりも展示空間の方が芸術化してしまうのは、私にはちょっと困る。それで古い建物のころに漂っていた普段着っぽい雰囲気が、少し懐かしくなったりもした。
はて、こんな印象をもつのは、こちらが年をとったということなのかしら。