月別アーカイブ: 10月 2014

抒情の原点―啄木と函館

函館公園 階段の上に噴水広場がある

函館公園 階段の上に噴水広場がある

フィールド・ワークの合間をぬって、石川啄木の居住地跡を訪ねた。啄木は、1907(明治40)年の5月5日から9月13日にかけて、132日間函館で暮らしている。故郷を離れてちりぢりになった家族がこの地で合流し、6畳二間の長屋でつかの間平穏な日々を過ごした。その場所が、函館山の東麓にある。「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」で知られるあの青柳町である。

居住地跡とはいっても、民家のまえに白い看板が立っているだけだ。ただ、そこから150mばかりゆるい坂をのぼった先の函館公園に、啄木の字を集字して刻んだ歌碑がある。清涼の気がみちる広い敷地に、噴水のある広場、児童遊園地、市立博物館などが点在するよく手入れされた公園である。その広場に面して、松とオンコの木陰に、はき清められた碑がひっそり立っていた。

碑面の文字

碑面の文字

この歌が収録された『一握の砂』は、わたしの抒情の原点である。いまも何かの拍子にひょいと浮かんでくる歌がいくつもある。東北自動車道を秋田に向かって走るたび「やはらかに柳あおめる 北上の岸辺目にみゆ 泣けとごとくに」がでてくるし、盛岡の駅頭にたつと、なぜだか「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」が浮かんでくる。それは心の習慣のようなものである。

この習慣は、中学生のころにはじまった。文学への憧れ、強い自負心、友情、恋、涙、漂泊、望郷の想い、貧苦、病、夭折など、1960年代初頭の中学生の琴線にふれる要素が、啄木の世界にあふれていた。

『一握の砂』の冒頭にある「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」は函館の大森浜を詠んだものと習ったし、その当時の愛唱歌が小林旭の「北帰行」だったから、両方があいまって北への思いが強くなった。当然のこと、漂泊の地は「北」でなければならない。

近くに亀井勝一郎の文学碑もある

近くに亀井勝一郎の文学碑もある

もう一つの愛唱歌・石原裕次郎の「錆びたナイフ」がその気分を助長した。「砂山の砂を指で掘ってたら、真っ赤に錆びたジャックナイフがでてきたよ」の砂山、これはもうどうしても北の海岸でなければならない、と思った。

のちに、啄木の「いたく錆びしピストル出でぬ 砂山の 砂を指もて掘りてありしに」にインスピレーションを受けて作られた歌詞だと知るに及んで、私の思い込みもそう的外れではなかった、と感じたことである。そんなこんなで、いよいよ「北=函館」のイメージが私のなかで強固なものになった。

1907年の大火で、勤め先も書き溜めた原稿も失った啄木は、函館を去り、札幌に向かうことになる。函館市立博物館に1936(昭和9)年の大火にまつわる展示コーナーがある。それによると、明治からこの昭和9年の大火まで、千戸以上焼失した火事が10回あり、百戸以上焼失した火事にまでひろげると都合26回おきている。強い海風が火勢をます地形であることと、市街地に粗末な建物が密集していたことが事態を悪化させたのだという。

大森浜 右手が立待岬方向

大森浜 右手が立待岬方向

函館市立文学館にいってみたら、2階のフロア全部が石川啄木のコーナーになっていて、自筆の原稿やら手紙やらがたくさんでている。なかでも1908(明治41)5月7日付の森林太郎宛書簡がひときわ目をひいた。道内を転々とした啄木が、この年の4月5日に最後の地である釧路の新聞社を辞し、家族を北海道に残したまま、ひとり船上の客となった。東京で創作活動をすることへの憧れに抗しがたかったのである。この手紙は、上京した啄木が、金田一京助の友情にすがって、本郷菊坂の赤心館に下宿していたころのものである。

強いプライドと不安、それらを二つながらに抱えて東京にやってきた啄木、その心の揺れが、巻紙に綴られている。船は横浜港についたのだが、そのまま東京にいく勇気がでない。気圧された気分のまま横浜で一泊し、それでなくとも貧しい路銀をさらに減らした、と述懐している。作家・森鴎外を意識したせいだろうか、友人たちに宛てた闊達な手紙とは明らかに違う文体である。

このころの啄木は、不遇のうちにあって困窮がいやます時期である。見学者のだれもいない夕暮れの展示室。啄木の丁寧な文字を読み進めるうち、わたしは心底切なくなった。

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翌日、本郷新のつくった「石川啄木像」(1958)をみに大森浜の海岸に向かった。タクシー・ドライバーは、初老の人である。新聞や週刊誌はあるが、文庫本を手に客待ちしているドライバーというものにはじめて会った。

函館駅前から市街地をぬけ、大森神社をすぎて、海岸沿いをはしる漁火通りにさしかかったとき、くだんのドライバーに「どうしてこんなに啄木が大事にされているんでしょう」と聞いてみた。滞在日数わずか132日の作家をこれほど厚遇する、函館市のもてなしは、いささか度が過ぎていやしないか、と思ったからだ。

「たしかに、さあ明日からがんばろう、となる歌ではないですね」といってから、ちょっと間があって、「でも、函館の人のなかに、そういう歌に共鳴する気風があるんでしょうかね」という答えが返ってきた。

それでわたしはすっかり嬉しくもなり、また満足もしたのだった。

日本教育方法学会第50回記念大会

今回は和田俊彦さんにずっとお世話になった

今回は和田俊彦さんにずっとお世話になった

例会の帰りに両角桂子さん(コア・メンバー)から「やっぱりそうか」といわれたが、余りの慌ただしさで、しばらくブログが書けなかった。先週は、広島大学で日本教育方法学会の研究大会だった。ラウンドテーブル「演劇的知の教育方法学的検討(2)」では、昨年の宮原順寛氏(北海道教育大学)に続いて、気鋭の古典文学研究者・中野貴文氏(東京女子大学)から力のこもった報告があった。

中野氏は「ドラマ的な手法を用いた古典文学」というテーマで、古典教育のフレームの改革を提案している。中高生の7割近くが古典学習への嫌悪感を抱いているといわれる現状をどう打開するのか、そのヒントがドラマ的手法の活用にあるというのだ。

それをたんなる仮説に終わらせず、自ら実践しているところが面白い。大学生たちが『伊勢物語』の「芥川」から「世界の中心で愛を叫ぶ」のパロディー版を、また『源氏物語』の「桐壷」から「スクールカースト」のドラマを演じるという事例を紹介してくれたが、テキストとの対話から出発して、現代版のドラマをつくり、もういちどテキストに戻ることで、読みの深まりや批判的な思考の獲得がみられるのだという。

広島大学研究大会 028文献研究の道を歩いてきた中野氏が「実践のことば」で報告するのはなかなか勇気のいることだろう。だが、実践的研究者・研究的実践者として自己を定義するのであれば、今回のように、自分の実践を俎上にのせることも避けて通れない。セッションのあとで「もう後戻りできないということですよね」という述懐があったが、むしろ私は、それを中野氏の決意表明ときいた。頼もしいことである。

今回の大会にあわせて日本教育方法学会編『教育方法学研究ハンドブック』(学文社)が刊行された。444頁、著者88名という大冊で、方法学研究の歩みが一望できる。会長の深澤広明氏(広島大学)が「刊行のことば」で、「第Ⅲ部「教育学研究の歴史と展望」は、研究ハンドブックとしての本書の中核的部分であり、研究の歴史、現状、展望が学会に関係する先行研究をもとにレビューされている」と書いている通りである。獲得研にとって嬉しいのは、「授業づくり研究」の章に「授業設計・展開」と並んで「学習活動・アクティビティ」の節が入ったことだ。おかげで、この20年余りのアクティビティ研究の流れをふり返る作業もできた。

一気に読み通すわけにはいかないが、ページを繰っていくと、存外執筆者の個性があちこちにでていて、こりゃあ読み物としても面白い、と感じられてきた。

「本をたのしもう会」の会員に

パンテオンの内部とフーコーの振り子

パンテオンの内部とフーコーの振り子

出版NPO「本をたのしもう会」は、読書推進活動を通して豊かな市民文化の形成をめざすグループだ。もともと信州出身の出版人が手弁当で参集したのが最初だそうで、会員には、編集や印刷など直接本の制作にかかわる人から、広告や流通が専門という人まで、出版の“生き字引”のような人たちがズラリ名前を連ねている。市民運動で活躍する多摩地域在住の人たちも会員だ。

わたしは、ICU時代の先輩・高村幸治さん(元岩波書店編集部長)の推挙で会に加わったばかりだが、“本をおくりだす”側の視点からいつも新しい刺激をうけている。

「本をたのしもう会」は、井上ひさし氏の講演「本を読む楽しさ」(2001年)から、アーサー・ビナード氏の講演「ぼくらの日本語は生き残るか?」(2013年)まで、毎年、武蔵野市で大きな講演会を開いている。講師陣は、大岡信、谷川俊太郎、上野千鶴子、澤地久枝、辻井喬氏など錚々たるメンバーである。

ことしも経済評論家・内橋克人氏の講演「不安社会を生きる」(日時:11月30日(日曜)午後2時― 会場:吉祥寺駅近くの武蔵野公会堂パープルホール 定員350名、聴講料千円、問合せ:℡.090-2662-5218)を聴く。不安社会の構造分析とともに、ではこれからどんな社会転換が可能なのか、その方向性についてもぜひ聴いてみたいと思う。

以下に掲載するのは、会の読書情報レター「本をたのしもう」No.13(2014年10月1日発行)に寄せた「ルソー散策」という短文で、新規会員であるわたしの挨拶文である。

ここ2年ほど「演劇的知の周辺」と題したブログをやっていて、本との出会いについてもぽつぽつ書いている。読書体験を記すと、いつの間にか自分史になってしまうところが面白い。

ルソー(1712-78)の『告白』(桑原武夫訳、岩波文庫)を夢中で読んだのは45年前、高校2年生の秋である。八郎潟東岸の小さな村から秋田市内にある賄(まかない)つきの下宿に移ったばかりで、ちょっとした高揚感もあったのだろう。玄関を入ってすぐ右手の6畳間、石油ストーブの炎の明るさまではっきり甦ってくる。

本の影響というのはげに恐ろしい。そして素敵だ。まさか10年ほどあとに、ルソーの生地ジュネーブから終焉の地となるパリ郊外の村まで、1か月かけて歩きまわることになるなど、当時は想像すらできないことだった。それで彼の「不幸な魂」が、すっかり私のなかに根をおろすことになった。

ルソー研究者の道は断念したが、“「自立的学習者=自律的市民」を育てる教育”という現在の研究テーマは、『エミール』や『社会契約論』の影響なしに考えられない。

2年前の夏、たまたまパリのパンテオンで、ルソー生誕300年記念と銘うつ大きな展覧会にでくわし、閑散とした会場で『孤独な散歩者の夢想』の草稿と対面した。「夢想」は、被害妄想の果てに生みだされた透明感のある文章で、いうところの絶筆である。

ルソーの筆跡をゆっくり目でたどるうち、どうも本の味わいというのは人生経験と共に深まるものらしい、それなら年をとるのも悪くないなあ、と思いはじめたことだった。

高村幸治さん(代表世話人)のお誘いで、この夏から会員に加えていただいた。驚いたのは、1回、1回の企画にこんなにも時間と手間をかけて準備しているんだということ、先輩たちの並々ならぬ熱意にふれて、さて自分に何ができるやら、と考えはじめている。