フィールド・ワークの合間をぬって、石川啄木の居住地跡を訪ねた。啄木は、1907(明治40)年の5月5日から9月13日にかけて、132日間函館で暮らしている。故郷を離れてちりぢりになった家族がこの地で合流し、6畳二間の長屋でつかの間平穏な日々を過ごした。その場所が、函館山の東麓にある。「函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」で知られるあの青柳町である。
居住地跡とはいっても、民家のまえに白い看板が立っているだけだ。ただ、そこから150mばかりゆるい坂をのぼった先の函館公園に、啄木の字を集字して刻んだ歌碑がある。清涼の気がみちる広い敷地に、噴水のある広場、児童遊園地、市立博物館などが点在するよく手入れされた公園である。その広場に面して、松とオンコの木陰に、はき清められた碑がひっそり立っていた。
この歌が収録された『一握の砂』は、わたしの抒情の原点である。いまも何かの拍子にひょいと浮かんでくる歌がいくつもある。東北自動車道を秋田に向かって走るたび「やはらかに柳あおめる 北上の岸辺目にみゆ 泣けとごとくに」がでてくるし、盛岡の駅頭にたつと、なぜだか「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」が浮かんでくる。それは心の習慣のようなものである。
この習慣は、中学生のころにはじまった。文学への憧れ、強い自負心、友情、恋、涙、漂泊、望郷の想い、貧苦、病、夭折など、1960年代初頭の中学生の琴線にふれる要素が、啄木の世界にあふれていた。
『一握の砂』の冒頭にある「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」は函館の大森浜を詠んだものと習ったし、その当時の愛唱歌が小林旭の「北帰行」だったから、両方があいまって北への思いが強くなった。当然のこと、漂泊の地は「北」でなければならない。
もう一つの愛唱歌・石原裕次郎の「錆びたナイフ」がその気分を助長した。「砂山の砂を指で掘ってたら、真っ赤に錆びたジャックナイフがでてきたよ」の砂山、これはもうどうしても北の海岸でなければならない、と思った。
のちに、啄木の「いたく錆びしピストル出でぬ 砂山の 砂を指もて掘りてありしに」にインスピレーションを受けて作られた歌詞だと知るに及んで、私の思い込みもそう的外れではなかった、と感じたことである。そんなこんなで、いよいよ「北=函館」のイメージが私のなかで強固なものになった。
1907年の大火で、勤め先も書き溜めた原稿も失った啄木は、函館を去り、札幌に向かうことになる。函館市立博物館に1936(昭和9)年の大火にまつわる展示コーナーがある。それによると、明治からこの昭和9年の大火まで、千戸以上焼失した火事が10回あり、百戸以上焼失した火事にまでひろげると都合26回おきている。強い海風が火勢をます地形であることと、市街地に粗末な建物が密集していたことが事態を悪化させたのだという。
函館市立文学館にいってみたら、2階のフロア全部が石川啄木のコーナーになっていて、自筆の原稿やら手紙やらがたくさんでている。なかでも1908(明治41)5月7日付の森林太郎宛書簡がひときわ目をひいた。道内を転々とした啄木が、この年の4月5日に最後の地である釧路の新聞社を辞し、家族を北海道に残したまま、ひとり船上の客となった。東京で創作活動をすることへの憧れに抗しがたかったのである。この手紙は、上京した啄木が、金田一京助の友情にすがって、本郷菊坂の赤心館に下宿していたころのものである。
強いプライドと不安、それらを二つながらに抱えて東京にやってきた啄木、その心の揺れが、巻紙に綴られている。船は横浜港についたのだが、そのまま東京にいく勇気がでない。気圧された気分のまま横浜で一泊し、それでなくとも貧しい路銀をさらに減らした、と述懐している。作家・森鴎外を意識したせいだろうか、友人たちに宛てた闊達な手紙とは明らかに違う文体である。
このころの啄木は、不遇のうちにあって困窮がいやます時期である。見学者のだれもいない夕暮れの展示室。啄木の丁寧な文字を読み進めるうち、わたしは心底切なくなった。
翌日、本郷新のつくった「石川啄木像」(1958)をみに大森浜の海岸に向かった。タクシー・ドライバーは、初老の人である。新聞や週刊誌はあるが、文庫本を手に客待ちしているドライバーというものにはじめて会った。
函館駅前から市街地をぬけ、大森神社をすぎて、海岸沿いをはしる漁火通りにさしかかったとき、くだんのドライバーに「どうしてこんなに啄木が大事にされているんでしょう」と聞いてみた。滞在日数わずか132日の作家をこれほど厚遇する、函館市のもてなしは、いささか度が過ぎていやしないか、と思ったからだ。
「たしかに、さあ明日からがんばろう、となる歌ではないですね」といってから、ちょっと間があって、「でも、函館の人のなかに、そういう歌に共鳴する気風があるんでしょうかね」という答えが返ってきた。
それでわたしはすっかり嬉しくもなり、また満足もしたのだった。