村上で鮭を考える

重文・若林家の軒端にも鮭

重文・若林家の軒端にも鮭

新潟下越地方の村上市は人口6万5千人の小都市である。藩政時代の町名がそのまま残る歴史の町だ。村上ではいたるところに鮭の気配が漂っている。いく先々で軒端につるされた鮭をみかけるし、「イヨボヤ(鮭魚)会館」という博物館まである。この地域では鮭こそが“魚の中の魚”である。

毎年、10月から12月にかけて、町の北部をながれる三面(みおもて)川を鮭が遡上する。朝日連峰の源流から海まで41キロのそう大きくはない川だが、流域にブナ林が散在し、河口付近をタブ林がおおっていて、鮭の溯上には格好の条件をそなえている。

味匠・㐂っ川の店の奥

味匠・㐂っ川の店の奥

村上の鮭は、江戸時代から藩の財政を支え、明治時代になっても町の経済を潤し続けた。町の人たちは、鮭の恵みを向学心のある若者の奨学金にあて「鮭の子」と呼ばれる一群の人材を生み出した。その中に小和田雅子さんの祖父にあたる人も含まれている。最盛期には、72万匹の水揚げがあったというからさぞ壮観だったことだろう。

村上にはサケの調理法が100通りあるそうだ。エラやヒレにいたるまで余すところなく調理するのは鮭への感謝のしるし、「最後は水晶玉しか残らない」というほど食べ尽くす。鮭を中心とするこうしたきめ細やかな食文化は、この地方の人びとの自然観の表現でもある。

村上と鮭とのかかわりはかくも深いのだが、アイヌの人々にとって鮭はさらに大切な主食だった。以下は1994年に札幌で、萱野茂さんに「アイヌ文化とともに―民具を作って思うこと」と題して講演してもらったときの話である。(国際教育研修会編『地球時代とこころの国際化』所収)

萱野さんによると、北海道にはサケの遡上する川が57本ある。そこで日本人の漁業組合が3750万匹のサケを捕っている。ではアイヌは何匹とらせてもらっているのか。「一昨年までは登別アイヌで5匹です。5匹以上捕ったらガチャンと手錠をかけて引っ張られていきます。札幌の文化協会で一昨年まで20匹でした。・・・少し増えたと聞きますが、230か300、そんなところです」。

「あとからきた大集団が一方的にサケをとるな、シカをとるな、木も伐るなといって生活を奪ってしまったのです。・・・アイヌの村では主食として、(サケを)当てにしてきたのです。世界中のことを知っているわけではありませんが、侵略した白人とその地域の先住民族たちは、食うことだけは保障されていました。食うことまで奪われたのはアイヌだけです」。

当時、社会党の比例代表区の国会議員になったばかりの萱野さんが、侵略される側の痛切な思いを、静かな言葉でこう語ってくれた。

村上は山と川のある町である。訪問者は、新潟市を背にして見渡す限りの平坦な田園風景をすぎ、小高い山を越えてようやく村上の町に入る。山越えするせいでどこか別世界にふみいる気分がしたものだが、旅を終えるころまでに、村上の町そのものがほどよい良い大きさの歴史博物館に思えてきたから不思議である。

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