月別アーカイブ: 7月 2014

劇団朋友「吾輩はウツである」を観る

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イギリス留学から戻った夏目漱石が、明治36(1903)年に小泉八雲の後任として帝大文科大学講師になり、2年後に友人・高浜虚子の『ホトトギス』に「吾輩は猫である」を発表して作家の道を歩きはじめるまでの物語だ。この時期の漱石は、ひどい神経衰弱で苦しんでいる。

「劇団創立20周年記念公演」と銘打つだけあって、休憩をいれて3時間の長丁場をちっとも飽きさせない。

セットは、本郷区千駄木57の借家。下手側が客間、壁をへだてて上手側に漱石の書斎兼寝室。2つの部屋は奥の廊下でつながっている。この家で漱石・鏡子夫婦と二人の娘、女中のてるが暮らしている。そこに菅良吉、寺田寅彦、漱石の姉ふさ、帝大の教え子たち(安倍能成、岩波茂雄、藤村操、小山内薫、魚住淳吉)、学長の井上哲次郎らが入れ替わり登場して、ストーリーが進行する。

てる役の西海真理さんが送ってくれたチラシに、美術、音楽の担当者とならんで「アクション:渥美博」という名前が小さくはいっている。「あらら、漱石の芝居でアクション?」と訝ったが、本番をみて納得した。

前のめりの西欧化にいらだつ漱石。癇癪持ちで不器用な生き方しかできない彼は、精神の浮き沈みを重ねるうち、だれかが自分の行動を監視していると思い込むようになる。典型的な被害妄想だ。ささいなきっかけで鏡子夫人への暴力が暴走する。臥せっていた自分の布団を庭に放り出すは、立てかけてある客間の座卓を押し倒すは、しまいに床の間の花瓶をすんでのところで夫人の頭上に振り下ろしそうになる。なるほど、舞台せましとばかりのアクションである。

パンフレットの年表には、明治36年8月「金之助の家庭内暴力がひどくなり、身重の鏡子は二人の子供を連れて、実家の中野家に避難する」とある。

かといって陰鬱な芝居ではない。まず、漱石夫婦を演じる芦田昌太郎(COMETRUE 父が松山英太郎)、荘田由紀(文学座 母が鳳蘭)の若々しさと軽快さがある。荘田はおきゃんで健気な鏡子夫人像を好演。漱石役の芦田は姿が良い。芦田の初舞台が小学校1年生のときの森繁久彌主演「孤愁の岸」だそうだが、私は帝劇で舞台をみている。

さらに、この芝居の趣向は、漱石ひとりが家に迷い込んだ黒い子猫(吾輩)と会話できてしまうところにある。吾輩のセリフが、なんとも哲学者然としていて面白く、つぎつぎに集まってくる仲間の猫たちも、老人風あり、職人風ありと多彩だ。寺田寅彦など夏目家の訪問者を8人と数えると、集まってくる猫も8匹、じつに盛大である。このネコたちが人間界のものの見方をゆさぶり、舞台のうえに笑いを運んでくれるのだ。

創立20周年を記念して「上演作品年譜」をふくむ特別版のパンフレットがつくられた。今回は、客演の若い俳優ふたりを、劇団のベテラン、中堅、若手のアンサンブルでがっちり支える舞台だが、「ロッカビーの女たち」(2007年)や「9人の女」(2008年)あたりから朋友の芝居を観はじめた私には、女性群像を描くのを得意とする劇団という印象がある。アトリエ公演、市民対象のワークショップも活発におこなっていて勢いがある。

20年も劇団を続けるのは大変なことだ。ひとつの区切りを越えて、これから朋友がどんな芝居をみせてくれるのか、大いに楽しみである。(原作:長尾剛、脚本:瀬戸口郁、演出:西川信廣、俳優座劇場で7月28日まで。)

村上で鮭を考える

重文・若林家の軒端にも鮭

重文・若林家の軒端にも鮭

新潟下越地方の村上市は人口6万5千人の小都市である。藩政時代の町名がそのまま残る歴史の町だ。村上ではいたるところに鮭の気配が漂っている。いく先々で軒端につるされた鮭をみかけるし、「イヨボヤ(鮭魚)会館」という博物館まである。この地域では鮭こそが“魚の中の魚”である。

毎年、10月から12月にかけて、町の北部をながれる三面(みおもて)川を鮭が遡上する。朝日連峰の源流から海まで41キロのそう大きくはない川だが、流域にブナ林が散在し、河口付近をタブ林がおおっていて、鮭の溯上には格好の条件をそなえている。

味匠・㐂っ川の店の奥

味匠・㐂っ川の店の奥

村上の鮭は、江戸時代から藩の財政を支え、明治時代になっても町の経済を潤し続けた。町の人たちは、鮭の恵みを向学心のある若者の奨学金にあて「鮭の子」と呼ばれる一群の人材を生み出した。その中に小和田雅子さんの祖父にあたる人も含まれている。最盛期には、72万匹の水揚げがあったというからさぞ壮観だったことだろう。

村上にはサケの調理法が100通りあるそうだ。エラやヒレにいたるまで余すところなく調理するのは鮭への感謝のしるし、「最後は水晶玉しか残らない」というほど食べ尽くす。鮭を中心とするこうしたきめ細やかな食文化は、この地方の人びとの自然観の表現でもある。

村上と鮭とのかかわりはかくも深いのだが、アイヌの人々にとって鮭はさらに大切な主食だった。以下は1994年に札幌で、萱野茂さんに「アイヌ文化とともに―民具を作って思うこと」と題して講演してもらったときの話である。(国際教育研修会編『地球時代とこころの国際化』所収)

萱野さんによると、北海道にはサケの遡上する川が57本ある。そこで日本人の漁業組合が3750万匹のサケを捕っている。ではアイヌは何匹とらせてもらっているのか。「一昨年までは登別アイヌで5匹です。5匹以上捕ったらガチャンと手錠をかけて引っ張られていきます。札幌の文化協会で一昨年まで20匹でした。・・・少し増えたと聞きますが、230か300、そんなところです」。

「あとからきた大集団が一方的にサケをとるな、シカをとるな、木も伐るなといって生活を奪ってしまったのです。・・・アイヌの村では主食として、(サケを)当てにしてきたのです。世界中のことを知っているわけではありませんが、侵略した白人とその地域の先住民族たちは、食うことだけは保障されていました。食うことまで奪われたのはアイヌだけです」。

当時、社会党の比例代表区の国会議員になったばかりの萱野さんが、侵略される側の痛切な思いを、静かな言葉でこう語ってくれた。

村上は山と川のある町である。訪問者は、新潟市を背にして見渡す限りの平坦な田園風景をすぎ、小高い山を越えてようやく村上の町に入る。山越えするせいでどこか別世界にふみいる気分がしたものだが、旅を終えるころまでに、村上の町そのものがほどよい良い大きさの歴史博物館に思えてきたから不思議である。

青山学院の院長就任式

ひょんなことから、2週続けて渋谷に通うことになった。きっかけは、ICUの先輩・梅津順一さん(青山学院大学総合文化政策学部教授)が、7月1日付で青山学院の第14代院長に就任したことである。院長というのは、幼稚園から大学院まで、2万4千人が在籍する青山学院の“教学を総理する”ポストらしい。

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まず先週、1時間半にわたる就任式が大学のガウチャー記念礼拝堂であった。就任演説で梅津さんが強調したポイントが3つある。1つは、“チーム青山学院”を構成する幼稚園から大学までの組織が、お互いの知見に学びあうこと、2つ目は、現実対応力のある人材の育成にとどまらず、より良い社会の形成にむけて、自らビジョンを指し示すことのできる人材を育成すること、3つ目は、青山学院140年の伝統に学ぶことである。

とくに3つ目のポイントが印象的だった。青山学院のスクール・モットーは“地の塩、世の光”だが、その背景を考えるとき、19世紀アメリカで定着していったメソジスト運動の意義を再確認する必要があるというのだ。とりわけ運動の核心にある、世界を働きの場とすること、そのために世界を旅すること、土地の文化を世界に生かすことなどの思想が大切だという。グローバルな広がりのなかで果たすべき使命を自覚する視点と、自らの足元を見すえる視点を同時にもつことの大切さを指摘している、と受け取った。

一緒に聴いた高村幸治さん(元岩波書店編集部長)と「経済史家らしい視野のひろいスピーチだねえ」といって感心した。

他のクリスチャンスクールも、青山学院と同じ式次第でやるのだろうか。「就任の辞」に先立ち、梅津さんが聖書に手をおいて「誓約」をした。新鮮だったのは、すぐ続けて会衆が起立し、牧師先生からの「院長を支えていくことに同意しますか」という問いかけにこたえて、「同意します」と誓約する場面があったことだ。なるほど、と感じた。

今週は、青山学院大学の経済史の授業で「日本のバブル経済と社会倫理の変容」について話した。梅津さんの代講である。相手は総合文化政策学部の学部生50人、2年生と3、4年生がほぼ半分ずつだ。株価・地価のバブルの経緯とそれが社会倫理に及ぼす影響を中心に、オランダのチューリップ狂事件やイギリスの南海バブル事件にもふれる。

「バブル期のモラル・ハザード、その現在への影響いかん」というグループワークをしてもらったら、学年のカラーの違いがはっきりでてきて面白かった。みていると、上級生たちの方がブラック企業やらサービス残業やらの例をだして、より具体的に議論を進めている。就活中の彼らだからこそ、切実に感じるテーマなのだろう。

こんな機会でもなければ、2週にまたがって渋谷に通うことはない。青山学院の歴史にゆっくりと思いをはせ、在籍する学生さんたちの雰囲気を肌で感じる経験ができた。私にはそれがなにより良かった。

辰濃和男さん―第3回「著者を語る・著者と語る」

出版NPO「本をたのしうもう会」が主催する第3回「著者を語る・著者と語る」で、ジャーナリスト・辰濃和男さんの講演を聴いた。テーマは、「私の読書法―出会う、知る、楽しむ」。武蔵野市民会館・集会室は、90人の参加者で超満員の盛況である。

辰濃和男さんといえば、なんといっても朝日新聞のコラム「天声人語」の印象が強い。というのも、辰濃さんが天声人語子だった時期(1975年12月―1988年8月)は、ちょうどわたしが「政治経済」の教師として新聞に親しみ、生徒たちが新聞を使ったテーマ学習に取り組むようになった時期だからだ。

グレーのスーツにノーネクタイで登場した84歳の辰濃和男さんは、意想外に長身で細面の方だった。白いもののまじる総髪に、あごひげと口髭をたくわえた意志的な口元が、むかしの剣豪を髣髴させる。

辰濃さんは、折にふれて見かえす200冊ばかりの本を身近においている。今回は、その中から25冊をリュックにつめて会場に持ち込んだ。それで、「歳時記」にはじまり、熊谷守一「へたも絵のうち」、幸田文「父・こんなこと」、H.D.ソロー「森の生活」、大岡昇平「レイテ戦記」、柳澤嘉一郎「利他的な遺伝子」など、人文系を中心としたさまざまなジャンルの本との出会いについて話してくれた。

“雑”の効用ということだろうか。辰濃さんは『文章のみがき方』(岩波新書)でも、異質な本を読むことが、①自分の世界を広げること、②未知の世界に出あうことで脳の働きに刺激をあたえることにつながる、と指摘している。13年間という気の遠くなるような期間、コラムを書き続けた人の実感である。

「本をたのしうもう会」は、講師陣が素晴らしいが、そこに集う人々も魅力的だ。今回、辰濃さんも参加した懇親会で、武蔵野の市民ボランティアをしているTさん夫妻とお隣になった。印刷会社で働いていたTさんは、80歳近い年齢である。一昨年、心筋梗塞で緊急入院しあやうく一命を取り留めた。

退院してすぐ、夫妻で、好物の天ぷらを食べに新宿にでかけた。揚げたてのふきのとうの天ぷら、それに少しの塩をかけて口にいれたとき、Tさんの眼尻からつーっと涙が流れたという。「口いっぱいに広がる春の香りを感じて、よし、生きていこう、という思いが自然に湧きあがってきたんです」。

とつとつとした話し方のむこうに、なじみの天ぷら屋でしみじみと春の訪れをかみしめる夫婦の姿が浮かんでくる。そうやって死の淵から帰還した人が“本をたのしむ”とき、その味わいはよりいっそう深いものになるに違いない。